東武東上線が14年5月1日、開業100周年を迎え、各地で記念の催しが開かれた。
東武東上線と言っても、分からない人がいるかもしれないので、老婆心ながら説明すると、県央部を北西の方向に、池袋―寄居間75kmを最短約1時間半で結ぶ東武鉄道の一部である。
沿線に川越、東松山、森林公園、小川町がある。終点寄居で秩父鉄道に乗り換え、長瀞などに出かける際よく利用する。1日約100万人が利用するという。
私にとっては大学時代、学生寮が上板橋にあったため、上京以来その歴史の半分以上断続的に使っているので、なじみの路線である。
東武百貨店池袋店でも「東武東上沿線まつり」があったので、見物に出かけたほどだ。
学生時代は、「東上」とは、東京から上越(新潟)を目指したと理解していた。「埼玉鉄道物語」(老川慶喜著、日本経済評論社)によると。「上」は上州で、群馬県の高崎を経て、渋川が目的地だったとある。
将来は長岡まで延長される計画だった。東上線は、寄居で八高線に接続して、高崎まで通じているので、「上州」と結ぶ夢は実現されているという。
1914(大正3)年5月1日、前身の東上鉄道が池袋~田面沢(現在の川越市~霞ケ関間)の33・5kmで開業。1920(大正9)年、東武鉄道と合併、東武鉄道となり、寄居まで通じたのは1925(大正14)年だった。
全線電化が1929(昭和4)年だから、蒸気機関車が走っていたのを覚えている人もいるようだ。
川越と東京を結ぶ新河岸川舟運に代わる交通手段として東上鉄道の建設は促進された。
その中心になったのが、新河岸川沿いの福岡河岸の船問屋「福田屋」の10代目当主・星野仙蔵だった。
入間郡会議員、県会議員を経て、衆議院議員になり、同じ衆院議員の「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎(東武鉄道取締役、後の東上鉄道社長)と知り会った。
仙蔵は、郡会議員になる前からいくつかの鉄道開設の運動を進めていた。
東上鉄道は1911(明治44)年に会社を設立、根津は社長、仙蔵は監査役になった。仙蔵は用地買収を担当、私財を投じて上福岡駅の実現に努めた。 47歳で急死。駅東口の石碑は仙蔵の功績を伝える。(写真)
鉄道誘致で舟運の家業の方は衰退した。1910(明治43)年、荒川・新河岸川の大水害では、保有米を放出、握り飯を伝馬船に満載し、被災者救助に当たった。剣道家(8段)としても知られた。
「福田屋」の一部は福岡河岸記念館として保存されている。
学生時代、東上線は「おんぼろ電車」のイメージが強かった。「イモ電車」とさえ呼ばれていた。最近のピカピカの車両をみると、今昔の感を禁じえない。
東上線は、東京の近郊路線として発展してきた。東武伊勢崎線には劣るものの、沿線には西大和、鶴瀬、霞ヶ丘、上野台などの千戸を超す大団地が出現、刺激を受けて、個人住宅や高層住宅が造られ、東京への通勤・通学路線の性格が強かった。
13年3月、東京メトロ副都心線を介して、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転が開始され、西武池袋線を含めて5路線の乗客が乗り換えなしで埼玉県と横浜市の間を往来できるようになり、観光客が横浜から川越に来るという新しい動きも見られるようになった。
明治百年事業として作られた「国営武蔵丘陵森林公園」(森林公園駅)は、さすが国営だと思わせる貫禄だし、「県立こども自然動物公園」(高坂駅)も広大で、武蔵野の面影が残り、大人にも面白い。寄居経由の長瀞もミシュランにも紹介されるなど、秩父鉄道には観光地が多い。
一方、東上線と並ぶ西武池袋線は、前身の「武蔵野鉄道」が池袋ー飯能駅間で開業してから、15年4月15日で100周年を迎えた。飯能市の人口は、当時の約8700人から約8万3500人へと10倍近く増加した。