おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
再び亀井勝一郎の『青春論』から「私の好きな言葉」を紹介します。
テーマは、怒りです。
亀井勝一郎は、『青春論』の第2章「愛に生きる心」の中の「愛を生む怒り」で、怒りが悪徳とされる理由として
「言うまでもなく個人的な嫉妬心や野心から発して、相手の失脚をねらったり傷つけたりするとき、怒りは確かに悪徳である。たいていの場合、それは突発的な激情となってあらわれ、盲目的行為に出ることが多い」
と述べ、その後に次のように続けます。
真の怒りとは、何よりもまず社会的な正義から発したものでなければならないと思う。盲目的行為を導き出すのではなく、逆に明晰な理性的なふるまいを呼び起こすものでなければならない。一時の激情とはまったく反対の、冷静に持続する探究心を伴い、相手の正体を正確に見ようとする強い意思でなければならない。怒りのこうしたあらわれを、われわれは忘れているのではなかろうか。
私は、アドラー心理学を学んでからしばらく、怒りの感情を出すことを大人気なく未熟なライフ・スタイルの発揮だと受け止めていました。しかし、今ではかなり怒りの解釈が違っています。
今の解釈は、次のようです。
怒りが問題なのではなく、怒りを破壊的・非建設的に使用することが問題なのではないか、そして、怒りを失ったとき、陰性感情の怒りがなくなるとともに、陽性感情の喜びも消滅し、感情を持てない無機質な人間になるのでは、と。
生きている中では、「それはないだろう!」という出来事に遭遇して怒りがわくことがあります。「それは許せない!」と思って、正義から発して相手の行動にNO!を言わざるをえない時があるのです。
いつも怒っているのは支配的な人間の証ですが、人生の「ここ一番」という時の怒りは、支配性とは別のような気がするのです。
怒りだけでなく、喜怒哀楽全般とのつき合いは、人間を人間らしくしてくれます。怒りを忘れたとき、心の躍動も失われるのではないでしょうか?
ここ数年のうちに怒りに関してそんなふうに思うようになったのです。
*「暗闇から光へ、無感動から感動への移行は、感情なしにはありえない」(C.G.ユング)
<お目休めコーナー> 社会人の息子撮影の海中写真 21