函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

平清盛、自作自演だったのでは??

2012-10-29 | 歴史

清盛が後白河を幽閉する前に後白河が清盛を捕え一気に平家を潰そうと

画策したとは

少し突飛な脚本のような気もしますが

 

鹿ケ谷の謀議に加わった殆どが死罪か流罪になっていますね

最も残忍な殺され方をされたのが西光です。

捕えられてからも清盛に対し臆することなく暴言を吐いたため口を裂かれ首

を刎ねられたと言われています

又、重盛の執り成しで死罪を免れ配流された成親は途中で斬殺されたとも言

われています

近衛大将に成りたかった成親ですが、左右の近衛大将には重盛と宗盛の兄

弟が就き自分が替われる余地が無い事にかなりの苛立ちを感じていた筈です

後白河の寵臣を自負していた成親にはどうも我慢がならなかったようですね

この事だけが反平家に凝り固まった原因だとは言い切れませんが、きっかけの

一つだったのには間違いなさそうです。

その成親ですが、事件が発覚している事を全く知らず清盛に捕えられたようですね

何とも間が抜けた感じがします

全く身に覚えがないと言い逃れする成親ですが、西光が白状しているのですから後

の祭り、謀議の首謀者の一人でもある成親がこの様では謀議も成就する筈がありま

せんよね

ところで

鹿ケ谷の謀議は本当にあったのでしょうか??

後白河から発せられた比叡山攻撃

後白河の命令とあればさすがの清盛も断る事が出来ません

比叡山攻撃を回避したい清盛にとって絶妙のタイミングでの多田行綱の密告だった

ですが、あまりにもタイミングが良すぎます

もし、行綱の密告が本当であれば後白河の怒りは相当のものだった筈です

それにも関わらず行綱はその後も後白河に仕えているのです。

全く腑に落ちません

後白河をはじめ西光や成親などが鹿ケ谷に集まったのは事実かも知れませんが、

謀議と言うほどのものではなかったのではないでしょうか

清盛による自作自演の可能性が大きいと僕は思っています。

この時期京には在京の平家軍がかなりの数いた筈です。

謀議に加わったとされる武士の軍勢などたかが知れています。

多田行綱の軍が加わっても平家軍から見れば微々たるもの。

そんな状態で打倒平家を掲げ戦うなど無謀もいいところ

山荘に集まったという事実だけで清盛にとっては十分だったのです。

ただの宴会がかっこうの口実を清盛に与える事になるとは集まった面々も思わな

かったでしょうね

結局、反平家公卿の力を削ぐ事になり、しいては後白河にも打撃を与える事になり

明雲にも恩を売る事が出ます。

清盛にとっては一石二鳥どころか一石三鳥ですね

 

 

 

コメント
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