函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、キーワードは信忠!!

2023-07-24 | 歴史

本能寺で…まるで恋人を待ち焦がれている様な

信長です 

そこに現れたのが光秀でしたね 

待ちぼうけを食わされた信長の姿が印象的です 

「なんだ、お前か」と肩を落とした信長に、

「貴公は乱世を鎮めるまでのお方!平穏なる世

では無用の長物。そろそろお役御免…」と光秀 

「やれんのか!キンカン頭!俺の代わりが!」

とブチ切れ状態の信長でしたね 

お市の説得もあり結局信長襲撃を諦めた家康で

すが、この時点での信長襲撃は家康にとってあ

まりに無謀

成功しても失敗しても、武将としての家康の存

在意義が無くなったと個人的には思っています 

作り話としては面白い筋書きだとは想いますが… 

ところで… 

光秀は何故信長を襲撃したのでしょうか? 

キーワードは信忠だと思っています 

危機管理としてはあり得ない事が起こっていた

のです

家督を継いだ信忠と信長が同じ京都に…

信忠が宿泊していた妙覚寺と、信長が宿泊して

いた本能寺は目と鼻の先。 

老境にさしかかった光秀にとって、二度と巡っ

て来る事がないチャンスが目の前にぶら下がっ

ているのです 

武人として、こんな千載一遇のチャンスを見逃

す筈がありません。 

信忠は家康一行に同行していたのですが、父・

信長が急遽京へ入るので出迎えのため京都へ引

き返したと 言われています

もし?信忠がそのまま堺いいたとすれば、本能

寺の変は起こらなかったかも知れません 

いや、怒らなかった筈です。

近くに、信孝・丹羽長秀が率いる四国攻めの兵

二万五千もいます

あまりに父・信長に従順し過ぎた性格が仇にな

ったのでしょうか? 

この時の信忠の判断が本能寺の変を誘発したと

僕は思っているのです

 

 

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どうする家康、信長の遺言!!

2023-07-17 | 歴史

ドラマでは… 

人を信じる事を教わってきた家康と、誰も信じるなと

教わってきた信長、似て非なる対照的な二人です 

信長に暗殺を見透かされた家康ですが、「弱ければこ

そできることがある、わしは信じる。行き詰まってお

るのは、お主ではないのか。弱き兎が、狼を食らうん

じゃ」とまるで信長に対する宣戦布告ですね 

「俺はわずかな手勢を率いて、京に向かう。本当にお

まえが俺の代わりをやる覚悟があるなら、俺を討て。

やってみろ」と信長

「俺は誰かに殺される。誰よりも無残にな。だが、俺

は覚悟はできている。大変なのは、これからだ。戦な

き世の政は、乱世を鎮めるより遥かに困難じゃ。」と

も… 

まるで家康に対する遺言の様でしたね

もしかして、誰かに殺されるのなら家康に殺されたい

と思っていたのでしょうか? 

家康なら乱世に戻る事がないと確信めいたものが信長

にはあったのかも知れません 

本能寺の変の折、信長が最初に疑ったのが嫡男・信忠

だったとも言われています

この事一つ取って見ても信長の究極の孤独感も感じて

しまいます

極度の緊張感の連続だった信長にも、流石に限界が来

ていたのかも知れませんね 

ところで… 

信長の側近く仕えていた太田牛一が書いた信長公記に

は、光秀の阻喪について全くふれられていません 

おそらく後世の作り話の可能性が強そうです。 

江戸時代に書かれた川角太閤記では触れられています

が、二級資料とされているので信憑性は低そうですね 

武田家滅亡後の宴でも光秀が信長に折檻されたと言わ

れていますが、江戸時代の資料なので当てにはなりま

せん 

どうも、光秀が信長に恨みを持っていて本能寺の変を

起こしたと持っていきたい意図が感じられてなりませ

そう考えると家康陰謀説もあり得るのかも知れません

ね。 

信長謀殺における家康の影を消す為に… 

少し考え過ぎでしょうかね?

 

来週はいよいよ本能寺の変です。 

家康が信長を討つと思っている秀吉。 

自分の力で信長を討つと決心している家康。 

耐えきれず信長の意表を突く光秀。 

三者三様の思惑が入り乱れた本能寺となりそうですね

 

 

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どうする家康、落としてはいけない城!!

2023-07-10 | 歴史

高天神城に籠城していた岡部元信ですが、徳川軍の

兵糧攻めで遂に降伏しましたね 

今迄の家康であればすんなりと降伏を受け入れた筈

です 

しかし、家康は降伏を拒否、皆殺しの命を下します

確かに武田の力を削ぐ為だったのかも知れませんが、

武田に対する恨みが大きかった証ともとれます 

武田に対する恨みと信長に対する恨みを心の奥底に

しまい込んで、信長の言うがままに動き、心の内を

見透かされない様に細心の注意を払っている家康。

心の中に信康と瀬名の思いを閉じ込め、じっと耐え

ている家康でしたね 

 

そんな家康でしたが、振舞に疑念を持ち始めた家臣

達に遂に心の内を打ち明けます

「信長を殺す、天下を取る!!」 

驚いたのは家臣達の方だった見たいです

もうすぐ本能寺の変ですが、ドラマでは家康黒幕説

として描かれるのでしょうか? 

不穏な動きをする秀吉を含め、数人が信長暗殺を試

みるのでしょうか? 

何れにしても、今迄に見た事のない本能寺となりそ

うです

 

ところで 

武田家滅亡のキーワードは高天神城だった気がして

ならない僕なのですが…

 

父が成しえなかった高天神城を落とした事が、勝頼

凋落の始まりです

元々高天神城は今川家の遠江の拠点だった城です。 

小笠原家が城代を務めていました。 

今川義元が亡くなると、小笠原氏は徳川家と誼を通

じます

徳川と武田の戦いで信玄に攻められたのが高天神城

でした。 

攻める武田軍二万、守る小笠原軍二千と言われてい

ます 

地の利を生かした小笠原軍は十倍の軍勢の武田軍に

対しても怯む事無く善戦、信玄を追い返してしまう

のです 

六年後、信玄の後を継いだ勝頼によって攻められま

すが、信玄ですら落とせなかった高天神城を勝頼は

あっさりと陥落させてしまうのです 

この事が、勝頼の心に慢心をうんだのではないかと

思っています

家督を継ぐべくして継いだ訳ではない勝頼にとって、

早く結果を出さなければという焦り感じます 

優れた父親を持ったが故の焦りでしょうか?? 

もはや、勝頼による領土拡張を誰も止める事が出来

なくなっていった気もします。 

その後の武田家は戦続きにより徐々に疲弊していく

です 

高天神城は、勝頼にとっては落としてはいけない城

った気がしてなりません

 

 

 

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どうする家康、信康廃嫡の張本人??

2023-07-03 | 歴史

ドラマでは瀬名を慕い続ける家康ですね 

本当は浜松で瀬名と一緒に暮らしたいと思っている家康ですが、

嫡男・信康の面倒を見るため瀬名は岡崎に残ったと言う設定で

したね 

瀬名の最後を見ると何故か泣けてきました 

史実としては瀬名の人物設定にはかなり無理があると思ってい

ますが、ドラマとしてはこれもありかなと…… 

 

通説では…信長が娘・五徳の告げ口で信康と築山殿の殺害を命じ

たと言われていますが…… 

家康は本当のところどう考えていたのでしょうか? 

同盟者・主君?信長の命令とは言え、事が正妻と嫡男の廃除とな

ると、いくら何でも素直に実行出来る訳がありません 

どうも家康自身にも廃除しなければならない事情が有った気がし

ます 

信康と築山殿の廃除の時期をじっと待っていたと勘繰りたもくな

ますね

もしかして、家康自身が信康と築山殿の廃除を目論んでいた張本

人なのかも知れません? 

重臣の諫言にも耳を貸さず、父・家康にさえ横柄なん態度をとっ

ていたとされる信康、家康が苦々しく思っていたとしても不思議

ありません 

徳川家が大きくなるにしたがって、岡崎と浜松の家臣達の対立も

あり、それを収めるにはもはや信康の廃嫡しかなかったのではな

いのでしょうか? 

背後に武田が控えている状況を考えると早急に結論を出すしかあ

りません 

しかし、仮にも信康の正妻は信長の娘・五徳なので、いくら我が

子とはいえ家康が勝手に信康を処分する事は出来なかった筈です 

そこに「仕置は任せる。」との信長からのお墨付きを得た家康に

とって信康・築山殿廃除を妨げるものがなくなったのです 

さらに…この頃には、於万の方に後の秀康、お愛の方に秀忠と、

後を継がせる後継者も誕生しています 

信康しかいないと言う状況ではなくなっていたのです。 

そう考えると、信康の廃嫡と築山殿殺害も頷けない訳ではありま

せん 

そうは言っても、仲の良い夫婦とまては言えなくても、普通の夫

婦であれば築山殿殺害はあり得ません。 

築山殿は、清和源氏の出てある今川家の血筋である自分に対して

のプライドが高すぎたのでしょうか? 

そのプライドからか?夫を蔑む様な態度に終始する築山殿への未

練もなくなっていたのでしょうか? 

家康の心の中を推し量ってみたいものです

 

 

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どうする家康、似た者同士!!

2023-06-26 | 歴史

100年以上続いている戦国にあって、あらゆる事を

話し合いで決め、慈悲の心で結び付いた巨大な国を

創り上げるとは… 

聖徳太子が言ったとされる、和を以て貴しと為すに

も通じる考え方なのでしょうか

人間の欲に翻弄されたのが戦国時代、特に権力欲だ

けは綺麗事ではすみません 

残虐性も伴っているので始末が悪いのです

確かに、話し合いで結論が出せれば争いは起こらな

いのかも知れませんが…

結局、愚かな人間は、武を以てしか平和な世を成す

道しかないのでしょうかね? 

そう言う意味では、瀬名の行動は綺麗事にしか映り

ません 

宗教的な臭いすら感じてしまう僕なのです 

戦国末期から400数10年経ている現代まで、面々と

同じ事を人間は繰り返しているのです

裏を返せば、争いが無ければ人間が人間でなくなる

ものなのかも知れません

ところで… 

武田と敵対する家康と、武田と組もうとする信康 

二人の考えの違いは修復不可能な状態まで来ていた

のでしょうか? 

ドラマの様に心が壊れ掛かっている信康ではないの

です。 

武田と組むしか徳川の家名を残す道は無いと確信し

ていた筈です

勝頼の父・信玄も嫡男・義信との意見の対立から義

信を自害に追い込んでいます 

信玄も家康も一代の英雄ですが、奇しくも嫡男は父

親に反抗して自害に追い込まれているのです 

全くの偶然でしょうか? 

義信も信康も愚将ではないと思うのですが… 

全くの凡人であれば偉大な父に反抗などする訳があ

りません。 

二人共、そこそこ能力が有ったればこそ父と向かい

合ったのではないのでしょうか? 

いかに親子と言えども、父と子、並び立たずと言

事なのでしょうかね 

そういう意味では、義信と信康は似た者同士と言え

なくもありませんよね

 

 

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どうする家康、母親の性なのでしょうかね?

2023-06-19 | 歴史

たとえ今は敵であっても、絶えず調略は行われて

いるもの。 

だからと言って裏切った事にはなりません 

水野信元はたんに信長に難癖をつけられた訳です

信元は尾張と三河の境を領有していましたが、一

介の国衆ではないのです 

この時既に24万石の大名となっていました

尾張の喉元を領有しているのですから、信長とし

ても何時かは排除したいと考えてもおかしくあり

ません 

領地が増えれば増えるほど発言権も増します。 

ようは、信元は信長にとって邪魔な存在でしかな

くなっていたのです 

信元は家康の命で誅殺されたと言われています。 

ドラマでは、そんな家康を見て信康が「何でもか

んでも信長の言いなりで情けない。父上は臆病で

卑怯だ。」と罵声を浴びせていましたね。 

さすがに言い過ぎの感が否めませんが、家康と信

康の対立が表面化していた事だけは間違いなさそ

うです 

 

いよいよ瀬名が動き始めます 

武田の密使・穴山梅雪との密会。 

何やら不穏な空気が流れ始めましたね 

心を病んできている信康を救う道は武田の軍門に

るしかないと悟ったのでしょうか? 

「そなたかやると言うのなら、全てを掛けて成す

覚悟がある。」と… 

亀姫の婚儀も決まり、後は信康の生きる道を自分

が見つけてやれればと思ってのでしょうか? 

もし、武田との内通が成就したとしても、信康に

平穏な暮らしが来るとは思えません

亀姫は奥平に嫁ぎましたので、何れは兄妹で戦う

事になるかも知れません 

親としてそれだけは避けたいと思うものですが、

信康に対する深い愛情が瀬名を盲目にしていたの

でしょうか? 

母親の性なのでしょうかね?

 

 

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どうする家康、信玄の呪縛から逃れられない勝頼!!

2023-06-12 | 歴史

長篠城を救援に来た織田徳川連合軍ですが、馬房柵

を作るばかりで一向に動こうとしません 

怖気づいたと思った勝頼は、長篠城に二千、鳶ノ巣

山砦に二千、計四千の兵を残し設楽原に布陣したと

言われています。 

その兵一万一千 

勝頼が言っていた様に、織田徳川が揃う千載一遇の

チャンス 

天下を取れなかった父・信玄と自分は違うとでも言

いたかったのでしょうか? 

それにしても、おお戦の割には兵の数が少な過ぎま

勝頼の慢心でしょうか? 

どうも、織田徳川連合軍の兵数を見誤った感じがし

ます 

信長も援軍を密かに隠していたとも言われています

だとすれば、信長の戦略勝ちと言って良いのかも知

れませんね。 

ドラマでは三千挺の鉄砲を三段にして武田軍を壊滅

させたかのように描かれていましたが、最近の研究

は一千挺だったと言われていますよね 

武田軍も早くから鉄砲を取り入れているので、鉄砲

の威力を軽視していたとも思われません 

 

信長の策で、酒井忠次には信長の馬廻り衆を含め四

千の兵を与え、武田軍を尻目に大きく迂回して鳶ノ

巣山砦を急襲

壊滅的な打撃を与えたと言われていますね

浮足立った軍ほど脆いものはありません 

砦の向かい側にある長篠城包囲軍も我先にと落ち延

びていったと言われているので酒井忠次の完勝です 

因みに、この時忠次が率いていた徳川勢の殆どは東

三河の国衆達です。 

軍の構成だけ見ても岡崎VS浜松の対立が深刻だった

と勘繰りたくなりますよね 

 

武田軍は挟み撃ち状態になってしまいますが、浅井

朝倉軍に挟み撃ちになった信長は素早く撤退しまし

たよね

しかし、勝頼は突撃する道を選択 

再起を期した信長と、一発勝負に掛けた勝頼の違い

でしょうか? 

武田家最大の領地を得ていた勝頼の慢心でしょうか? 

父・信玄を超えたとの若さによる錯覚でしょうか? 

秋山や馬場など前線にいた勇将の殆どを失ってしま

います 

因みに、真田信之・幸村の実兄もこの戦いで討ち死

にしています

その後の勝頼は、身内の木曽義昌や穴山梅雪に裏切

られ、最後も身内の小山田信茂に騙され天目山の露

と消えてしまいます 

信玄の子として生まれなければ、歴史に名を遺す様

な知将になっていたも知れません

思うに、勝頼は信玄の呪縛から逃れる事が出来なか

ったのではないのでしょうか? 

もし、真田昌幸の進言を受け入れ、岩櫃城に籠城し

ていれば武田家の復活もあり得たかも?と個人的に

は強く思っています 

外様を信用しきれなかった勝頼の判断ミスだと…

 

設楽原の戦いは、三千丁の鉄砲を三段構えで撃ち武

田の騎馬隊を翻弄したと言われていますが、前後か

ら攻撃を受けて大敗したと見る方が自然な感じかし

ます 

間接的には、奥平信昌が長篠城を死守したからこそ

の勝利とも言えますが… 

その後、奥平家を家康が優遇したのはこの辺りに要

因がありそうな気がしている僕なのです

 

 

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どうする家康、日の本一の足軽!!

2023-06-05 | 歴史

落城寸前の長篠城

今川→武田→徳川→武田→徳川と目まぐるしく主を替えた

奥平ですので、流石にもう一度武田へ寝返る事も出来ず

万事休す 

もはや徳川へ援軍要請するしかなさそうですね 

武田軍に包囲されているので抜け出すのは至難の業ですが

殆どの家臣が躊躇する中、手尾挙げたのはうだつの上がら

ない鳥居強右衛門です 

その強右衛門が歴史を大きく動かす大仕事をするのですか

ら解らないものです。 

ドラマでは… 

武田に捕まり一度は奥平を裏切る強右衛門ですが、亀姫の

事を思い出し援軍が来ると叫んでいましたね 

人間らしく迷い、情に絆され、武士としての誇りも有る人

物として描かれていましたが、個人的には、ドラマの中で

の強右衛門が好きになってしまいました

流石、古沢良太 氏の脚本ですね。 

 

家康は古参の二人、酒井忠次に東三河を石川数正に西三河

を任せていたようです

浜松には家康が、岡崎には信康がいましたが、嫡男の信康

がこの時点で家督を継いでいた訳ではありません 

岡崎には国衆達の屋敷もあったと言われていますので、家

臣達の分断も加速していた感じもしますね

信康は当然の様に家督を継ぐのは自分だと思っていたので

しょうが、武田に蹂躙されている状態で当主の様に振舞う

のは早過ぎます

浜松VS岡崎の対立の構造が好むと好まざるとを得ず進むの

世の常です

若い信康が理解できなかったとしても仕方ありませんよ

危機に面している徳川にとって、分断している状態を早急

に是正いなければならないところまで来ていた気がします 

話し合いで解決するには時間が掛かり過ぎます。 

家康には時間が無かったのでしょうかね。 

 

同じ事が武田家にも言えます。 

信玄が残した古参の家臣との折り合いが上手くいかず、結

局最後は家臣に裏切られ自刃しています 

禍の芽は早く摘んだ方が徳川家にも纏まりが出来るという

ものです。 

荒療治ですが、後の事を考えると信康への対応は絶妙のタ

イミングと言えなくもありませんよね

ところで… 

日本一有名な足軽と言えば、鳥居強右衛門ですね 

奥平家の足軽だったと言われていますが、長篠城での働き

により子孫は現代まで続いているみたいです 

奥平家の家老にまで上り詰めたと言われていますが、強右

衛門の働きがあったればこそ 

足軽とはいえ、武士としての覚悟と勇ましさ、殆ど死にに

行くような任務だったので当然誰も手を挙げる者はいなか

ったと言われています。 

本多忠真や夏目広次にも似た武士としての覚悟なのか?完

遂出来る者は自分しかいないという思いなのか? 

危機に直面した人間の途方もない意志のようなものを感じ

る僕なのです 

日の本一の武将と言えば真田信繁ですが、日ノ本一の足軽

と言えば勿論、鳥居強右衛門しかいませんよね

 

 

 

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どうする家康、信虎と同じ過ちを犯す勝頼!!

2023-05-29 | 歴史

武田信玄が亡くなり危機を脱したかに見えた家康ですが、

後を継いだ勝頼に攻め続けられていました

次々と城を落とされ以前よりも危機的な状態です

大岡弥四郎事件が起きたのもそんな状況下にあったから

でしょうね

 

嫡男・信康とも対立していた家康ですが…  

家臣団も岡崎派と浜松派とに分裂という危うい状態だっ

たようです

 

秀康の生母・お万の方は懐妊すると城外へ追放し、生ま

れた子供(秀康)を認知させなかったと言われていますし、

後の二代将軍となる秀忠の生母・お愛の方は築山殿の待

女に暗殺されたとも言われています

勿論、決定的な証拠がある訳ではありませんが、いかに

築山殿が岡崎での実力者として君臨していたかという事

でしょうね

嫡男・信康の生母として、徳川家でも絶対的な権力を手

にしていたのかも知れません

家臣達も石川数正を筆頭として反浜松の機運が高まって

いた可能性も高そうですね

小牧長久手の戦い以降に出奔した石川数正ですが、この

時の争いの根深さも感じてしまいます 

 

岡崎で町奉行を務めていた大岡弥四郎の手引きで岡崎を

制圧しようと目論んでいた武田ですが、山田八蔵の密告

により事前に発覚し事なきを得たと言われていますね

 

この企てに築山殿も加わっていたと言われていますが、

有り得る話だと個人的には思っています 

信康の妻・五徳は男子を産むことが出来なかったので、

武田家ゆかりの者を側室として迎えていたとも言われ

ていますので、全くの出鱈目とは言い切れません。 

カリスマ信玄が亡くなりましたが、武田は以前にもま

して最大の領地を有しているのです

築山殿から見れば…

飛ぶ鳥を落とす勢いの武田と誼を通じていた方が、我

が子の将来にとって最良の選択肢だと思ったとしても

不思議ありません 

この事があって勝頼は岡崎攻略を諦め長篠城攻めへと

突き進むのですが、この事件がきっかけで武田家滅亡

へのプロローグが始まるのですから、分からないもの

です

 

戦続きで疲弊していた武田軍、家臣達の不満も頂点に

達していた筈

軍資金も底を突き、上杉家の内乱では金に釣られ景勝

側に金銭で調略される始末 

形だけは大国となりましたが、内憂外患状態だった様

です 

勝頼は祖父・信虎と同じ道を進んでいる気がしてなり

ません。 

勝頼も祖父・信虎と同じく家臣に騙され自害してしま

いますが、血の成せる技か?同じ過ちを繰り返すもの

なのでしょうかね? 

 

ところで… 

いつの間にか井伊寅松が家康の家臣として登場してい

ましたね

家康は何故?寅松を家臣にしたのでしょうか? 

諸説ありますが、寅松の父・直親は元々家康から家臣

にならないかと打診されていたとか 

しかし、それを察した今川氏真が直親を駿府に呼び寄

せ騙し討ち 

呆気なく殺されてしまうのです 

思うに、この時の顛末を家康は気に掛けていたと個人

的には思っています

井伊家は幕末まで続きますが、直親の死も無駄ではな

かったとも言えますよね

 

 

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どうする家康、双子だった秀康!!

2023-05-22 | 歴史

先週は…しんがりを務めた本多忠真と、家康の甲冑を

身に着け身代わりとなった夏目広次の壮絶な討ち死に

からすると、今週のドラマは何とも拍子抜けした感じ

がしたのは僕だけでしょうか?

それはそれとして、ほっこりとしたホームドラマを見

ていると思えば少しは楽しめるのかも知れませんが…

 

お万は家康の次男・結城秀康の母ですね 

家康の正室・瀬名の奥女中として仕えていたからなの

か? 

瀬名はお万を側室として認めませんでした 

木に縛り付け折檻したとも?言われていますが、家康

がお万を庇う事は無かったとも言われています 

それどころか家康が秀康と対面したのはかなり後の事。 

不憫に思った家康の嫡男・信康の口添えでようやく対

面したとか?

嫡男の信康が亡くなった後、当然秀康が後を継ぐのか

と思われましたが、結局、結城家へ養子に出されてい

ますよね

秀吉との和睦で信康は人質扱いで秀吉の許に行かされ

ているところをみると、家康は鼻から秀康に徳川の家

督を継がせる気が無かったのでしょうね

秀康に対しては自分の子供としての愛情が微塵も感じ

られません 

そういえば家康の六男・松平忠輝に対する扱いにも秀

康と同じ様なものを感じます 

家康は、家督を継ぐ子供以外はどうでも良かったのか

も知れません。 

家康にとっては徳川家が続く事だけが全てなのでしょ

うね? 

ところで… 

秀康には兄弟がいました 

秀康は双子だったのです

当時、双子は犬畜生と同じ双子腹 と言われ嫌われてい

たので、もう一人の子供は死んだ事として扱われた見

たいですね 

神主として生涯を終えたと言われていますが、家康の

実子にも関わらず、生涯父・家康と対面する事はあり

ませんでした 

実子として認められた秀康の方が少しはましだったの

か?それとも、認知される事無く一生を終えた方がよ

かったのか? 

34歳亡くなった秀康を見ると、政争に巻き込まれる事

無く生涯を神職として終えた方が良かったのかも知れ

ないと思っている僕なのですが… 

 

 

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どうする家康、家臣こそ我が宝!!

2023-05-15 | 歴史

家康の具足を身に着け敵陣に向かっていく夏目広次

亡骸を検分した武田信玄は笑みを浮かべていました

 

遺体が家康ではないと確信したのでしょうか? 

家康の生存を喜んでいるかの様な信玄でしたが、一

流の武将にしかわかり得ない境地なのでしょうね 

 

今回のドラマでは、徳川家臣団の中であまりスポ

ットが当たる事の無かった夏目広次と本多忠真が主

役でしたね  

しんがりを務めた本多忠真と家康の具足を身に着け

身代わりとなった夏目広次。

 

本多忠真の父・忠豊も家康の父・広忠の身代わりと

なり討ち死にしていますので、親子二代、主君の替

わりとして討ち死にした事になります 

本多家はよほど忠義心の強い家だったのでしょうね 

 

夏目広次は浜松城の留守居を務めていたのですが、

本来出陣する役目ではなかった筈です 

家康の為に死ぬという覚悟の許、死に場所探してい

た感じすらします 

広次の申し出に「駄目じゃ、吉信、駄目じゃと」と

一旦は拒否する家康ですが、「足りませぬ、一度な

らずも二度までも、この不忠者を、ここまで取り立

てて下さった。これしきりの恩返しでは足りませぬ」

と広次。 

悟った様な広次の言葉に返す言葉を無くした家康で

したね

「殿はきっと大丈夫」と親が子に諭すような広次の

言霊は、家康を包み込むような父親そのものの様な

気がしたのは僕だけでしょうか?

ところで… 

忠真と広次の他に家康の身代わりになろうとした家

臣がもう一人

鈴木久三郎です 

家康の身代わりになろうとした久三郎でしたが、家

康に拒否されます 

久三郎は家康から無理やり軍配を取り上げ敵陣へと

まっしぐら。 

旗を地面にさし「ここから先には行かせん」と仁王

立ちしたとか? 

本多忠真や夏目広次は壮絶な討ち死にを遂げますが、

久三郎は二人と違い無事生還したと言われています

久三郎は家康と同じく強運の持ち主だった見たいで

すね

 

家康は三方ヶ原での大敗がよっぽど答えたのか?自

分を戒める為なのか?「家臣こそ我が宝」と事ある

ごとに言っていたと言われています。 

とっくに死んでいたであろう自分の人生を振り返る

と、家臣に生かされていると思わざるを得なかった

のでしょうね 

 

歴史の表舞台に出る事が少ない武将を描いた今回の

ドラマは、個人的には見応えのある最高のドラマだ

ったと思っている僕なのですが…

 

 

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どうする家康、桶狭間の戦いがよぎったのかも??

2023-05-08 | 歴史

圧倒的な強さを誇る武田軍ですが、武力ばかり

ではなく策略で徳川軍を追い詰めていきます

家臣達に背中を押され、信長にはも激励され、

武田軍との戦いを決めた家康ですが、破竹の勢

いで攻め上る武田軍には成す術がなさそうです 

 

結果的に信長包囲網に加わった形となった信玄。 

家康にも信長包囲軍に加わる様に足利義昭から

打診があった見たいですね

武田軍は手始めに徳川領の二俣城を包囲します

が、頑強に抵抗し二か月持ち応えたと言われて

います

武田軍の次の目標は浜松城と思われましたが、

何と、信玄は浜松城を素通り 

家康にとってはラッキーと言えばラッキーなの

ですが… 

このまま武田軍を追撃するか? 

遅ればせながら信長包囲網に加わるか? 

武田軍を追撃するか? 

三つの選択肢があったのですが、どうする家康

ですよね

 

信玄にとっては最初から追撃してくると思って

いたのか?追撃してくる様に仕向けたのか? 

何れにしても、徳川の監視役でもある佐久間信

盛が信長からの援軍として加わっている以上信

長包囲網にも加われず、さりとてこのまま見過

ごす事も出来ない家康にとって追撃するしか道

は残されていなかったのです 

遠江を支配している家康ですが、二俣城でも負

け、このまま指をくわえて武田軍を見過ごせば、

「徳川頼りにならず!!」と支配して間もない遠江

の国衆達が武田軍に加わる可能性が大きくなり

ます 

落城した兵達も加え膨れ上がっている武田軍の

前では、蛇に睨まれた蛙状態の徳川軍ですね

 

最近の説では、浜松城を通り過ぎ岡崎城に向か

うと見せ掛け、武田軍が向かったのは浜名湖水

運の要・堀江城だったと言われています 

三河からの補給路としてばかりではなく、援軍

の通る要所としても重要な城だったようです 

たとえ浜松城で籠城したとしても、堀江城を武

田軍に抑えられた状態では籠城する事すら出来

なくなります

もはや討って出るしか選択肢が残されていなか

ったと言う事でしょうね

武田軍が浜松城を素通りしたのではなく、野戦

に持ち込むための信玄による緻密な策略に乗せ

られたと言う事なのでしょうかね? 

本多忠勝ではありませんが、十に一つの可能性

に掛けるしかありません 

もしかしてこの時、家康の脳裏には桶狭間の戦

いがよぎったのかも知れませんね 

信長に出来たのだから自分もと思ったとしても

不思議ありません。 

三方ヶ原の戦いでは有能な家臣をたくさん失っ

た家康にとっては、あまりに代償が大き過ぎま

したが、姉川でも三方ヶ原でも裏切らなかった

という家康の人物評価が世間に衆知された事だ

けは確か

そういう意味で、三方ヶ原の戦いはその後の家

康にとっても無駄な戦いではなかったと思って

いる僕なのですが…

 

 

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どうする家康、堪忍袋の緒が切れた信玄!!

2023-05-01 | 歴史

信玄との戦いが始まろうとしているのに煮え切

らない家康

弱気が極限状態の家康に、何もかもくれてやっ

て、信玄のもとでみじめに生きていけばいい」

などと言いたい放題 

武田軍と戦えば「十に九つは負ける」と絶望を

口にする家康にですが… 

「十に一つは勝てる。その一つを信長は桶狭間

でやりましたぞ」と本多忠勝起死回生の一言

ようやく信玄と戦うのを決断した家康ですが、

家臣達は最初から戦うのを決断していた見たい

ですね

それにしても …

源三郎・勝俊、最初は今川、次に武田とまるで

人質になる為に産まれて来た様なもの 

武田から逃げ出す時、両足に凍傷を負ったと言

われています

何とか三河には戻れましたが、凍傷のため両足

の指を切断したので武人として戦場に出る事も

出来ず失意のうち32歳の若さで亡くなります 

人質生活を送るうち、精神的にも肉体的にも限

界に達していたのでしょうね。 

同情を禁じえません

 

ところで、信玄は何のために西上したのでしょ

うか? 

足利義昭を盟主とした、朝倉・浅井・石山本願

寺などの信長包囲網に加わり、信長亡き後の主

導権を握ろうとしたからなのでしょうか? 

しかし、義昭が反信長の態度を明らかにしたの

が1573年で、信玄が西上したのが前年の1572年

です 

信玄が甲府を発った時点では信長包囲網があり

ませんでした。 

勿論、信長包囲網が必ず出来るとの確信の上の

出陣と言えなくもありませんが、出来てもいな

い信長包囲網に加わる為に態々大軍を動かすほ

ど信玄は愚かではありません

信玄が西上した一番の要因は徳川と上杉との同

盟が原因だったのではないのでしょうか? 

背後に控える上杉が信玄にとって最も脅威だっ

たのは間違いありません

しかし、北条氏康が亡くなり、後を継いだ氏政

は180度方向転換し信玄と同盟を締結

これをきに上杉への押さえとして北条が動き始

めます 

これで背後から攻められる心配がなくなった信

玄は、目先の瘤・徳川を取り除くため出陣した

のです

勿論、その先には信長殲滅も視野に入っていた

筈です

周りを敵に囲まれて身動きが取れない状態だっ

た信玄の堪忍袋の緒が切れたと言った感じでし

ょうか

ドラマでも体調の悪化が描かれていましたが、

その辺りも西上を急がせた要因なのかも知れま

せんね

 

 

 

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どうする家康、凡将か?知将か?

2023-04-24 | 歴史

ドラマでは… 

浅井長政の誘いに呼応しようとしている家康を

諫めようとしている忠次と数政ですが、微妙に

考え方が違う様にも感じます

この辺りが、後に数政の出奔に繋がるのでしょ

うか? 

二人が一致しているのは、乱世を終わらせるの

は長政ではなく信長だと言う事です 

時間を掛けて三河統一を成し遂げたのに、長政

が勝ったとしても元のカオス状態に戻るだけだ

との思いがあったのでしょうね

二人の思いは何とか家康に通じたみたいですが…

姉川の戦いで家康は、先方を信長に懇願したと

言われています 

そうだとすれば、信長を裏切って長政につくと

は考えられません 

どうする家康としては面白いストーリーだとは

思いますが… 

 

姉川の戦いは信長軍の勝利に終わったと言われ

ていますが、戦況を見ると織田軍有利で終わっ

たと言った方が良いのかも知れません 

実質的に浅井長政と朝倉義景が滅ぼされたのは、

姉川の戦いの三年後 

姉川の戦いが織田軍にとって決定的な勝利とは

ならなかったのです

 

姉川を挟んで両軍が対峙しますが、徳川軍の正

面には浅井軍、織田軍の正面には朝倉軍といっ

た布陣でいよいよ合戦開始 

最初は織田軍も徳川軍も劣勢の戦いでしたが、

浅井・朝倉軍の側面を突く戦法で一気に敵を退

却させたと言われています

戦死者の数では織田・徳川軍の方が少なかった

みたいですが、決定的な勝利ではなかった事だ

けは確か 

織田・徳川君の判定勝ちと言ったところでしょ

うかね 

その後、両軍は一時的とはいえ和睦しています。 

本願寺をはじめ周りを敵に囲まれていた信長に

とっては、究極の選択をした訳です

和睦せざるを得なかったと言った方が正しいの

かも知れません 

金ケ崎・姉川の戦いと二度も信長を窮地に陥れ

た朝倉景義 

凡将なのか?知将なのか? 

個人的には決断の遅い武将のイメージがありま

すが、信長をあと一歩のところまで追い詰めた

事だけは事実で

そう考えると凡将ではなさそうな気もしてきま

詰めが甘かったのだけは間違いなさそうですが… 

 

 

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どうする家康、戦国オールスター!!!!!

2023-04-17 | 歴史

いよいよ朝倉討伐ですね

浅井長政の裏切りで絶体絶命の織田軍。 

後の天下人、徳川家康・豊臣秀吉・織田信長は勿論、

信長を討った明智光秀も参加していますし、戦国の

梟雄と言われた松永久秀も加わっているのですから、

戦国オールスターといった感じがします 

この時、オールスターの内一人でも戦死していれば

後の歴史が大きく変わっていた戦いです

  

敦賀に入った織田軍ですが、家康が天筒山城を、秀

吉が金ヶ崎城をあっという間に落とします

先方を務めていた家康は朝倉の本拠地・一乗谷を目

指しますが、まさにこの時、浅井軍が朝倉へ寝返り

を…

信長は最前線にいた徳川軍には知らせず少人数で京

へと一目散に撤退 

朝倉領深く潜入していた徳川軍にとっては青天の霹

靂状態で何が起きているのか?正確な情報を得るま

で身動きが取れなかったでしょうね 

金ケ崎の退き口とよく言われていますが、金ケ崎城

には秀吉が殿として留まっていました。

実は、家康はもっと深く朝倉領に侵入していたので

 

結果的に最も危険な場所に取り残されてしまった家

康ですが、一刻も早く朝倉領から撤退しなければ全

滅となる可能性が大

敵の領内に取り残された家康軍、まさに絶体絶命の

ピンチ

決死の覚悟の家康軍、何とか金ケ崎城まで辿り着い

たものの金ケ崎は籠城には不向きな城で、時間を稼

ぐ様な戦いは出来そうにありません

国境の国吉城まではおよそ10キロ。 

平地でも大変なのに国吉城は山城 

火事場の馬鹿力ではありませんが、兵達は生きる為

の必死の行軍を続けたのでしょうね

それにしても、当時の兵達の体力には驚かされます

家康の三大危機と言われている三河一向一揆、三方

ヶ原の戦い、伊賀越えですが、金ケ崎の戦いでも討

死にしてもおかしくない状況だったみたいですね。

この戦いも加えて家康の四大危機と言った方が良い

かも知れません

何れにしても、九死に一生を得た家康、ここでも並

外れた運の強さを感じます 

 

直ぐに京都へ撤退した感じがする信長ですが、信長

の撤退もすんなりとはいきませんでした 

10人ほどの供を連れての撤退でしたが、小さいとは

いえ朽木元網の勢力圏を通らなければなりません

朽木元網はどちらかと言うと浅井家と縁の深い武将

ですね 

信長の幸運は共の中に松永久秀がいた事です

朽木領を無事に通れる様にと元網の説得をかって出

たのです

信長も全面的に信用していた訳ではないと思います

が、弁のたつ久秀に全てを託すしかありませんでし

限られた時間の中での瞬時の決断は信長ならではで

すね。 

 

面白かったのが、上下に結んだ小豆を信長に届けた

故事。 

信長に挟み撃ちを知らせようとしたお市の話ですが、

後に作られた逸話の様です 

ドラマでは小豆ではなく、阿月という娘に託した話

に替わっていましたね。 

危機を家康に知らせた阿月は、使命を全うして絶命

してしまいます 

なるほど~、こういう展開もあるのかと唸ってしま

いました 

流石の脚色ですね

 

 

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