函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、家康暗殺計画??

2023-10-30 | 歴史

佐和山に隠居した三成ですが、家康はこの機に乗じて

伏見城から大阪城西の丸に移っています 

ドラマでは…

上杉景勝の謀反の噂が広がると茶々が家康を焚きつけ

ていましたね 

裏では三成には軍資金を与え、上杉討伐に向かった家

康の隙を突き挙兵させ、そればかりか、家康に「三成

が怖い。」と手紙まで送るとは稀代の悪女そのもの

茶々ばかりではなく、上杉景勝も毛利輝元も家康を廃

除して実権を握ろうとしていた節もあります 

家康が単に言い掛かりをつけ上杉討伐をした訳でもな

さそうです。 

特に輝元は連絡を受けてから僅か二日で大阪に到着し

たと言われています 

やる気満々ですよね

秀吉ですら岡山から戻るのに十日も掛かっていますが、

それより遠い広島からなので驚きの速さです 

勿論、陸路と海路からの違いがあるにせよ当時として

は異常な速さです

輝元の意気込みを感じますね 

武将たるもの天下の覇権の前では皆同じなのかも知れ

ません

 ところで 

家康は伏見城で政務をとっていましたが、加藤清正を

はじめとする七将が石田三成の伏見城内の屋敷を包囲

する事件が起こります。 

仲裁に乗り出したのが家康です

正確には家康と北政所の二人です 

結果、三成は居城の沢山へ退く事になりますが、この

事件から間もなく、増田長盛からの密告で家康暗殺計

画が家康に告げられます 

首謀者は前田利長で浅野長政や大野治長、土方雄久ら

が大阪城内で家康暗殺を目論んでいると言うのです 

重陽の節句の折、秀頼に挨拶をするため大阪城へ来る

家康を亡き者にしようと言う企みです 

危惧した家康は伏見から家臣を呼び寄せ厳重な警護を

させたと言われていますが、どうも胡散臭い臭いがし

ますよね

家康陣営が態と流布した偽情報だと言われていました

が、前田利長も浅野長政もどちらかといえば家康に近

い人物です 

最近では家康陣営を不利にするため三成側が流した情

報だとも言われていますが、密告したのが増田長盛だ

とすれば有りえる話です 

そうだとすれば、五大老・五奉行制を崩したのは三成

自身とだとも言えますし、情報を流したのが三成だと

すれば策士策に溺れた 感が否めません

この暗殺計画に乗じて家康は堂々と大阪城へ居座る事

が出来たのですから…

この一件を見ても、家康と三成の器の違いを感じてし

まうのは僕だけでしょうか?

何れにせよ関ケ原の戦いへのカウントダウンが始まった

様です ね

 

 

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どうする家康、因果応報!!

2023-10-23 | Weblog

秀吉の遺言に従い五大老・五奉行による政治が

始まりましたね

殆どの大名が、幼い秀頼を担いだ政権運営が長

くは続かないと思っていた筈です 

五大老の中でも、上杉景勝や毛利輝元などはさ

っさと自国に戻っていますよね 

次の戦に備えていたと見られても不思議ありま

せん

家康は跡取りの秀忠を江戸に戻し伏見城で政務

をとっていた見たいです 

織田信長・信忠親子の二の前にならない様に、

京都と江戸に分かれているところを見ると不穏

な空気を感じていたのでしょうか? 

前田利家が生きている間はどうにか収まってい

ましたが、亡くなると歯止めが利かなくなりま

「皆、貴公が怖いのよ。貴公は腹を括るしかな

い。」と言った利家の言葉が全てを物語ってい

る様な気がします

利家も生きている間は秀吉の思いに沿う動きを

するしかありませんが、亡くなった後は家康が

天かを治めるしかないと思っていたのでしょう

か?

武人の利家には、家康が天下に号令するのが必

然だと思っていたと個人的には思っています

力の有る者が天下を治めないと戦国の世に逆戻

りしてしまいます

清須会議で信長の孫・三法師を織田家の当主と

決めましたが、その決定を済し崩しにしたのは

秀吉ですよね

力を持った秀吉が、織田家から政権を簒奪した

のは紛れもない事実です

自分がした事と同じ事を家康がしただけなので

す。

言ってみれば、因果応報。

頭脳明晰な秀吉なら分かっていた筈ですが、あ

まりに衰弱し過ぎたのでしょうかね?

幼い当主が政治を司る事など無理だと言う事を…

秀吉の晩年は普通の人に戻った感じが強くしま

すが、それも人間らしくて憎めないところかも

知れません

豊臣家は滅亡しますが、秀吉の偉業は色褪せる

事はありません。

中国では平民から皇帝になった人物はいますが、

日本では秀吉ただ一人

秀吉が立志伝中の人物なのは間違いありません

 

 

 

 

 

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どうする家康、豊臣政権のナンバー2!!

2023-10-16 | 歴史

秀吉が遂に最後の時を迎えます

家康を呼び出し、「うまくやりなされや」と後を託した

秀吉ですが、天下の事よりも秀頼の生末しか頭にない様

でしたね 

稀代の英雄秀吉も老いには勝てない様です

「秀頼は、あなたの子だとお思い?」と問いかける茶々。 

てっきり、実の父親を告白するのかと勘繰りましたが、

「秀頼は私の子。天下は渡さぬ」と… 

「あとは私に任せよ、猿」と言い放つ様は、亡き母・お

市を彷彿させます

茶々の言葉を聞き何故か笑みを浮かべる秀吉ですが、も

しかして、秀頼が自分の実子だと確信しての笑みなのか

も知れません

絶命した秀吉を抱きしめ泣き声を上げる茶々ですが、

吉に対する愛情が無かった訳でもなさそうでしたね 

単に情だけなのかも知れまらせんが、心の奥底は凡人の

僕には理解し難いものがあります

ところで… 

家康は朝鮮従軍から除外されています よね。

何故なのでしょうか? 

地理的に遠い事は事実ですが、それだけが理由ではなさ

そうです 

朝鮮出兵中に東で反乱が起きないともいえません 

そこで重要なのが、関東に250万石を有し、睨みを利かせ

る事が出来る徳川です

 天下人となった秀吉ですが、政権の基盤はそれほど盤石

なものではありません。 

いくら庶民に人気があっても、それだけでは長続きしま

せん 

周りは農民出の秀吉よりはるかに出自が良い武将ばかり。 

そこで欠かせないのが、信長の同盟者だった家康の存で

 

本気で徳川を潰したければいくらでもチャンスがあった

筈です。 

それをしなかったのは、家康の武将としての存在感が豊

臣政権に必要だったとも言えます 

待遇を見ても、政権ナンバー2の秀吉の弟・秀長と同等の

処遇をしているところを見ても明らかです。 

織田政権の簒奪者とも言える秀吉にとって、徳川という

重しは政権維持に欠かせないものだったのかも知れませ

 

 

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どうする家康、秀吉の子供??

2023-10-09 | 歴史

秀吉の心に入り込んでいる茶々ですが、今度は家康

の心にも入り込もうとしていましたね

そこに登場したのが家康の側室阿茶局。 

茶々VS阿茶の戦いの始まりです 

 

唐入りを何とか止めようとする家康ですが、「図に

乗るなよ。わしは太閤じゃ。その気になれば、徳川

くらい潰せるぞ。」と逆に脅しをかけられます 

そんな秀吉に怯む事無く「かつての底しれぬ強さが

あった秀吉ならばそんなことは口にすまい。」 「目

を覚ませ、惨めぞ、猿。」と…

そんな一触即発状態で登場したのが、すっかり忘れ

去られていた足利義昭 

義昭の何とも言えないキャラクターのお陰で二人の

言い争いも中断となってしまいます 

二人の争いを知ってか知らずか、義昭の語った「て

っぺんは独りぼっちじゃ。」 「信用する者を間違え

てはならんのう。」の言葉に秀吉も我に返った様で

したね 

家康に対し、「わしを見捨てるなよ」と口にする秀

吉の言葉には裏表がなかったのではと思ってしまい

ます 

ところで… 

淀殿だけに男子が二人も誕生したのは何とも不思議

ですよね 

当時から大野治長や石田三成が父親だと言われてい

ましたが、果たして真相は??

秀吉の子供と言われているのが、長浜城時代に側室

南殿が産んだ石松丸です 

それにしても、女性好きでかなりの側室を侍らせて

いた秀吉にとってあまりにも子供の数が少な過ぎま

すね 

もしかして、石松丸も秀吉の実子でないのではと個

人的には勘繰っています 

そんな秀吉の晩年に、2人も子供を授かるなんてあ

るものなのでしょうか?

絶対は有りませんが、限りなくゼロに近いのでは… 

二人の子供の父親が秀吉でない事だけは間違いない

と思ってる僕なのですが…

 

 

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どうする家康、氏綱の遺言!!

2023-10-02 | 歴史

北条家を潰し、遂に天下人となった秀吉の暴走が

止まりそうにありませんね 

息子・鶴松が病死してしまいますが、その悲しみ

を糧にするかの様に高笑いを始め、「次は何を手

に入れようかの。」と囁く下り… 

精神的に壊れていく人間の愚かさを感じてしまい

ます

欲望でしか悲しみを補う事が出来ないものなので

しょうか? 

死ぬまで秀吉の暴走は止まりそうにありませんね

戦が無くなった後の平穏な世の中を維持する術が

秀吉には無かったのかも知れません。

ところで… 

小田原北条氏の初代は早雲ですが、早雲は伊勢宗

瑞 と名乗っています

姓を北条と称したのは、傑物と言われた二代・氏

綱からですね

氏綱は54歳で亡くなりますが、26歳と若い跡取り・

氏康に遺訓を残しています

その中に、「義を守りての滅亡と、義を捨てての

栄華とは天地格別である」とあります 

お家大事の戦国の世にあって、「義がなければ家

名を保ってもしかたがない、義を守っての滅亡の

方がましだ。」と息子・氏康を諭しているのです 

この考え方が氏政・氏直親子にも脈々と伝わって

いたのでしょうか? 

氏康の後を継いだ氏政と息子の氏直の時に北条家

は上野・信濃・甲斐へと進出し北条領国の最盛期

を迎えます

遺訓を守り質素倹約に努め、善政を敷き、領国経

営を続けたたまものです 

氏政親子は決して秀吉に対抗しようと思っていた

訳ではないと個人的には思っています。 

家臣は別として、北条家の歴代当主は天下への野

心はなく、天下へ号令しようとも思っていなかっ

た筈です 

自分たちの治めている関東は自分たちの手で守り

たかっただけなのでは… 

返す返すも、「義を守っての滅亡の方がましだ。」

と言い残した氏綱の遺訓が悔やまれます

綺麗事だけでは家名を残す事が出来ませんが、氏

政親子の行動には清々しさを覚えるのも事実です 

秀吉という、最下層から最高権力者に成り上がっ

たにわ者には臣従は出来ないというプライドが邪

魔したのかも知れません? 

信長や家康だったらおそらく臣従していた筈です 

裏を返せば、秀吉を見下していたと言う事なので

しょうかね ??

 

 

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どうする家康、静かな戦いの始まり!!

2023-09-25 | 歴史

於愛の生い立ちに始まり、武田の間者だった千代の消息、

最後は茶々の登場と今週は女性メインのドラマでしたね 

 

於愛は二代将軍・秀忠の生母です。 

ドラマても目の不自由な人々に施しを与える様が描かれ

ていましたが、当の於愛もかなりの強度近視だったと言

われています 

現代ならメガネやコンタクトで矯正出来ますが、当時で

はそうもいきません 

かなりのハンデを背負って生きなければなりません 

精神的にもかなり強い女性だったのでしょうね。 

於愛は家康の側室になる前は西郷某の妻でした。 

一男一女の子供がいたと言われています。 

秀忠からすれば兄妹と言う事になりますね 

秀忠は兄・姉にあたる兄妹二人を母・於愛に対する

愛情の裏返しからか?とても大事にしていたと言わ

れています 

そんな於愛の死がナレーションだけなのには少し残

念な気がしています 

 

武田の間者だった千代は創作の人物なので何とも言

えませんが、まさか!!鳥居元忠の妻になっていたと

は驚きです

「生き残った者は幸せになる勤めが有る。」と言っ

た家康の言葉(於愛の言葉)が印象的でしたね 

 

満を持して最後に登場したのが茶々です

茶々役はお市役の北川景子だとは思っていましたが、

見た目はお市と同じ様でも全く違う所作や表情だっ

たのが印象的です

家康への憎しみを心の内に押し込め、明るく振舞う

茶々の姿に何とも言えない恐ろしさを感じます

そんな演技も出来る北川景子は、女優とはいえ流石

です

秀吉亡き後、家康と茶々との静かな戦いが始まりま

 

親の因果が子に報いではありませんが、言いにつけ

悪いにつけ、行き着くところまで行くしかありませ

 

心の中にしまい込んでいる恨みは、消す事が出来な

いものの様です

尤も、その恨みこそが茶々の生きる術なのですから

仕方ないの事なのかも知れませんが…

 

 

 

 

 

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どうする家康、徳川征伐!!

2023-09-18 | 歴史

ようやく重い腰を上げ上洛した家康

時が経てば経つほど徳川に不利な状況になる事は

家康も分かっていた筈です。 

自分を高く売りつける為ギリギリまで待って決断

した家康は流石ですが、徳川を潰したいと秀吉が

考えていたのも事実でしょうね 

英雄同士の駆け引きはと決断は凡人には理解し難

いものがありますね 

 

それにしても…前回で裏切り者から一転、一番の忠

義者へとして描かれていた数正の出奔 

こんな脚色だとは少し驚いてしまいました

数正のスパイ説はあり得ないと思っていましたが、

このシナリオならもしかして…と思わせてくれます

歴史は結果ありきですが、プロセスを想像する楽し

さがありますよね 

おそらく…数正は家康の将来性を高く評価していた

筈ですし、家康からの信頼も得ていた筈です 

徳川家の外務大臣として難しい交渉事は全て数正が仕

切っていましたが、反面家臣達との溝が深くなってい

ったのも事実だったのかも知れません 

特に、秀吉との和睦交渉が決定的だった可能性が高そ

うです 

家康からだけではなく有力家臣達からも人質を要求さ

れるに至り不満が爆発した感じですね

孤立する数正、反秀吉の家臣達との溝は相容れないと

ころまで来てしまいます 

秀吉は敵対していた雑賀・根来衆討伐や四国の長曾我

部、上杉景勝など着々と味方を増やし家康を包囲して

いきます

そんな秀吉の政治力を目の当たりにしていた数正にと

って、秀吉に敵対する事の無意味さを感じていたとし

ても不思議ありません 

 

おそらく、天正地震が無ければ数正の見立ての様にな

っていた筈です。 

長浜城や大垣城など倒壊した城も沢山あったと言われ

ています 

倒壊により一族全滅した氏族もあり、長浜城では倒壊

により城主・山内一豊の娘も無くなっていますし、家

康討伐軍の集合地でもあった大垣城も壊滅状態だった

と言われています 

天正地震は想像をはるかに超えた被害をもたらした様

ですね 

ドラマでは詳しく描かれていませんでしたが、秀吉に

よる徳川征伐は、家康の三大危機と言われている事よ

り徳川家存亡の危機だと個人的に思っています 

もし、実行されていれば間違いなく徳川家は滅亡して

いたと確信している僕なのですが… 

 

 

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どうする家康、関白就任!!

2023-09-04 | 歴史

今週の主役は旭姫でしたね

家康との政略結婚のため夫と無理やり別れさせられ、

44歳で家康の正室として迎えられます 

勿論、形だけの結婚ですが、旭の心の中を慮ると戦国

の女性の悲哀を感じます 

47歳で亡くなったと言われている旭姫ですが、晩年は

病気がちだったとも言われていますよね。 

ドラマでは、明るく振る舞う旭姫のけなげな姿に感動

すら覚えます。 

その明るい姿と裏腹に、無理やり別れさせられた夫は

行方知れず 

一人でいる時に号泣する姿には掛ける言葉も見つかり

ません。 

旭姫の生涯は、自分の意志と関係なく、天下人となっ

てしまった兄・秀吉に翻弄され続けた儚い生涯だった

様です

ところで 

秀吉が関白に就任しましたね 

秀吉の事ですから、裏で動いていた結果なのでしょう

が、そもそも近衛家と二条家で関白の座を争っていた

事が要因です 

近衛信輔と二条昭実は関白の座を巡って真っ向から対

立して収拾がつかなくなります

二人の争いは決着がつかず秀吉の許に仲裁話が来るこ

とに…

秀吉は前田玄以と菊亭晴季の二人に仲裁案を検討する

様に指示を出しますが、菊亭晴季から驚くべき提案が…

何と、秀吉が関白に就任すると言うものです

建前上は、どちらかを関白にすると家の破滅になる、

しいては天皇家の為にならないと言う尤もらしい理屈

をつけ無理やり関白になろうとします 

ここまでくると、菊亭晴季の発案ではなく、秀吉自ら

関白に就任しようとしたのが明白 

問題は、五摂家の出身者でなければ関白職に就けない

という慣例です。 

ここでも秀吉の無理強いが… 

何と、引退していた近衛前久の猶子となり関白に就こ

うと言うのです 

前久は、将来自分の息子・信輔を関白に就ける事を条

件に了承しますが、秀吉は鼻から約束を守る気などあ

りません 

関白就任後、朝廷から豊臣の姓を賜ったのですからな

おさら 

もし、豊臣家が大阪の陣で滅亡しなければ、関白職を

豊臣家が世襲していたでしょうね

老獪な政治家の前久ですが、秀吉の術中に嵌ったと言

わざるを得ません

秀吉の方が、駆け引きにおいては数段上だったのは間

違いなさそうですね

 

 

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どうする家康、通じなかった数正の進言!!

2023-08-28 | 歴史

局地戦で大敗した秀吉軍ですが… 

ドラマでは、「信長様のせいだわ。徳川をさんざん

こき使って、とんでもねえ軍勢を育ててまった。」

と嘆いていた秀吉ですが、着々と秀吉包囲網を崩し

にかかります 

総大将・織田信雄を丸め込み、和議を進める秀吉

さらに朝廷も秀吉を関白に任命します

徐々に外堀を埋められていく家康ですね 

戦いに負けて勝負に勝つとはこういうことなので

しょうか? 

今の徳川では到底敵いそうな相手ではなさそうで

すね

ほぼ、天下人となった秀吉を的確に観察していた

のが石川数正だったのでしょうか? 

「あれは化け物じゃ。殿は化け物には敵いませぬ。

」と家康に進言する数正ですが、家康に拒否され

ます

数正の進言は的を得たものですが、岡崎城代の任

も解かれ、家康にも家臣達にも数正の進言は通じ

なかった様です 

万事休す、感極まれり状態の数正ですが、「殿、

決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒で

ござる。」と告げ去っていきます 

最後に数正スパイ説を醸し出していましたが、流

石に無理が過ぎる感じがしなくもありません 

後に家康が秀吉に臣下の礼をとっているところを

見ると、数正の見立てが正しかった事が証明され

た事になりましたよね。 

感情に流されず、物事をフラットに見る事が出来

る得難い家臣を失った家康ですが、数正の替わり

をするのは、榊原康政か井伊直政か? 

興味の尽きないところです

第一次上田合戦で大敗し、重臣の数正の出奔と不

幸続きの家康、時間が掛かれは掛かるほど秀吉に

蹂躙されるのは確実です 

しかし、ここでまた幸運が家康を包むのです 

天正大地震が起こり秀吉は徳川討伐どころではな

くなります 

それも秀吉の直轄地が甚大な被害を受けてしまう

のです 

地震は自然災害なので喜ぶ様な話しではありませ

んが、家康にとっては九死に一生を得た事になり

ます 

何という幸運の持ち主なのでしょうか? 

天下人となるには、ただ強いだけでは無理なので

しょうかね 

家康を見ていると、人並外れた運の持ち主だと言

わざるを得ません

 

 

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どうする家康、秀吉と昵懇の間柄だった恒興!!

2023-08-21 | 歴史

家康の天下を取るは大阪(大阪の陣)にあらずして

関ケ原、関ケ原にあにずして小牧にあり」と言われ

ていますが、それほど小牧長久手の戦いは家康が天

下人となるうえで重要な戦いだったともいえます 

信長が亡くなるまで織田・徳川の同盟は続いていま

 

事実上、織田の後継者と思われていた信雄を担いだ

戦いなので、大義名分は家康にあります 

秀吉の力が大きくなっていたのは事実ですが、天下

が収まった訳ではありません 

秀吉の勢いもいつまで続くか分からないのです。 

本能寺の変も然り、青天の霹靂の様な事が起きて不

思議の無い時代。 

伊達・北条・毛利・長曾我部や息を吹き返した上杉

など、虎視眈々と次を狙っている武将達も… 

兵数だけ見ると勝てそうな相手ではありませんが、

秀吉政権が固まっていない今なら全く無謀な戦いと

までは言い切れません 

局地戦で勝利した徳川軍ですが、秀吉を討ち取った

訳ではないのです 

桶狭間の戦いもそうですが、大将の義元を討ったか

らこそ勝利出来たのです。 

徳川軍にそれが出来たとも思われません

致命傷が、信雄と秀吉の和睦です 

家康に全く相談する事もなく信雄が独断で決したと

言われていますね 

信雄の領国、伊勢・伊賀を奪った秀吉の作戦勝ちで

しょうか 

小牧長久手の戦いは、信雄の凡庸さだけが際立った

戦いといっても良いのかも知れません 

「信雄、しっかりせぃ、信長の子供じゃろうが!!」

と言った家康の言葉か全てだった気がします

ところで 

母が織田信長の乳兄弟で、幼少期から小姓として

も仕えた池田恒興ですが… 

秀吉の援軍として毛利討伐の準備中に本能寺の変に

遭遇

秀吉の中国大返しの報を聞きつけ秀吉軍に合流した

と言われています 

山崎の戦でも功を立て織田家の宿老的な立場まで上

り詰めた様ですね 

勿論、損得もあったでしょうが、元々秀吉と誼を通

じていたみたいなのです

恒興の三男・長吉が秀吉の養子になっていますし、

三女は秀次の妻となっているのです 

恒興が清須会議で秀吉側に寝返ったのではなく、元々

秀吉と恒興は昵懇の間柄だったのは間違いなさそうで

 

もしかすると、柴田勝家や滝川一益とは違い、恒興は

秀吉と馬が合ったのかも知れませんね 

恒興は小牧長久手の戦いで長男と共に討ち死にしてし

まいす 

後を継いだのがまだ幼かった次男の輝政ですね。 

輝政は秀吉亡き後家康につき、関ケ原では東軍の武将

として大活躍

戦いの後、92万石の大々名となるのです

家康の娘婿として盤石の地位を得ています 

49歳で戦死した恒興ですが、子孫は徳川の親藩大名と

して続きます。 

もし、恒興が小牧長久手の戦いで戦死しなければ、大

々名としての池田家は存続出来なかった筈です。 

そういう意味で恒興は、絶妙のタイミングで亡くなっ

たとも言えますね

 

 

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どうする家康、しぶとい信雄!!

2023-08-14 | 歴史

形式上戦勝祝いとして石川数正を秀吉に派遣

しましたね 

一国に値すると言われている天下の名品・初

花肩衝を手土産に… 

家康が数正に秀吉の人物像を問いただすと、

「何もかも芝居のようであり、何もかも心の

ままにも思える」との答え 

ようは掴み処の無い人物だと言う事なのでし

ょうか? 

感情を押し殺した不気味さすら感じます

家康も秀吉の人物像を解説していましたね。 

欲に果てがないことだ。何もかもを欲しがり、

持てる力の全てを使って手に入れようとする

そんな秀吉の次の獲物が石川数正なのでしょ

うか? 

 

いよいよ小牧長久手の戦いです 

後の小田原征伐と違い、この時点で秀吉に服

従しない大名もいました

長期戦ともなると士気も下がりますが、兵糧

の心配も出てきます

ましてや野戦ともなれば家康に一日の長があ

りますよね 

そう考えると、兵数では劣っていても全く無

謀な戦いとまでは言いき切れません 

ましてや信雄を旗印としているので、長期戦

ともなれば勝機も出て来ます 

しかし、もし秀吉を討ち取ったとしても、家

康がすんなり天下人となる訳でもなさそうで

 

実力者としての家康の存在感は上がりますが、

天下人として全国に号令するのにはまだまだ

紆余曲折がありそうですし、虎視眈々と次を

狙っている武将もいます。 

そう考えると、家康は秀吉と全面戦争をする

つもりはなかったのかも知れませんね 

局地戦で勝利し、少しでも有利な条件での和

睦を望んでいたのではないのでしょうか? 

東郷平八郎が、日本海海戦でバルチック艦隊

を破り勝利したのと同じ構図に思えてなりま

せん

 

ところで、信長の次男・信雄ですが… 

信長の後継者として認知もされず、秀吉と家

康に翻弄された生涯を送ります 

信長から絶縁されたり、小田原征伐の後、家

康の旧領への移封を拒否したり、二度の改易

を経て五万石の大名として長らえる事になり

ます 

なんともしぶとい人生を歩んだ信雄ですが、

京都で生涯を閉じた時七十三歳だったと言わ

れています。 

天寿を全うした訳ですね

どちらかと言うと愚将として有名な信雄です

が、織田の血を現代まで残したのは間違いな

く信雄です 

絶縁や改易を二度繰り返しても生き延びたの

ですから、何とも語れない魅力があった人物

の様な気もします

信雄の一生を見ると、頂点を極めるだけが武

将ではない様にも思えている僕なのです

 

 

 

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どうする家康、次は徳川だったかも知れませんね!!

2023-08-07 | 歴史

清須会議→天正壬午の乱→賤ケ岳の戦いと駆け足で

描かれていましたね

秀吉と勝家に利用された信雄・信孝兄弟ですが、信

長の息子と言うだけで国の頂点に立てるほど成熟し

た時代ではなかったのです 

勝家亡き後は、家康と秀吉が信雄を巻き込んで小牧

長久手の戦いへと突き進みます

新しい権力者が誕生するまで戦いは終わらない様で

すね

織田家にとっては返す返すも嫡男・信忠の死が悔や

まれますね。 

信忠が生きていれば、清須会議も天正壬午の乱も賤

ケ岳の戦いもなかった筈です。 

意外と、信忠を中心とした織田政権がその後も長く

続いていた 可能性が大きいと個人的には思っていま

信長の死は、家康にとっても領土拡大の絶好のチャ

ンスとなりましたね 

甲斐信濃の広大な領地を得た家康は、着実に足場を

固める事が出来たのです

信長の死が無ければ、その後の家康は無かったのか

知れません。 

それどころか、信長は北条氏とは友好関係を結んで

いたので、武田亡き後の徳川の立ち位置は微妙とな

ります 

もしかして、武田家の次は本当に徳川家だったのか

も知れません

上杉は瀕死の状態ですし、毛利攻略も時間の問題。 

そういう意味では、明智も徳川も微妙な立場だった

のは間違いなさそうですね。 

光秀が謀反を起こさなければ、家康が起こした可能

性も捨てきれません

あくまでも想像の世界ですが…

ところで… 

男勝りな性格のお市が一世一代の勝負に出ましたね

負けたとはいえ清々しさを感じたのは僕だけでしょ

うか? 

実際のお市がどの様な人物だったかは分かりません

が、子供の頃からの夢をようやく叶えたといった感

じでしょうか? 

ドラマとして見応えのあるシーンでしたね 

援軍に来なかった家康を恨み、自分が天下を取ると

母・お市に宣言する茶々でしたが、人たらしと言わ

れている秀吉をたぶらかす演技にも驚きです 

人間は誰かを恨まないと生きてゆけないものなので

しょうかね? 

 

 

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どうする家康、命の恩人・長谷川秀一!!

2023-07-31 | 歴史

信長を討ちたかった家康と家康に討たれたかった信長、

結局どちらの願いも成就出来ませんでしたね 

あり得ない脚色だとは思いますが、見方をかえればあ

り得ない話だとは言い切れないのかも知れませんね 

二人の願いの足元をすくったのが明智光秀でしたね。 

光秀の許へ家康の首桶が届けられましたが、穴山梅雪

のものだったとは

家康だと自ら名乗って討ち取られたところを見ると、

家康の身代わりになったのでしょうか

もしかして、そのお陰で家康の伊賀越えが成功したの

かも知れません

あくまでもドラマでの事ですが… 

ところで… 

甲賀の主・多羅尾光俊の助けが無ければ、家康の伊賀

越えは上手くいかなかったと個人的には確信していま

 

家康に同行していた信長の家臣・長谷川秀一が多羅尾

光俊の息子・光広とたまたま親しかった事が家康に幸

運をもたらします 

光広の案内で父・多羅尾光俊の許へ家康一行を案内し

無事小川城へと入る事が出来たのです 

ドラマでは、胡散臭い光俊に疑念を抱き、家康一行は

小川城を抜け出しましたが、史実は少し違うみたいで

すね 

光俊は三人の息子と家臣五十人、甲賀衆百五十人で家

康を警護し無事白子浜まで送っています 

歴史上、あまり有名ではない長谷川秀一ですが、家康

が無事三河に帰れたのは秀一のお陰だと言っても差し

支えありません

そういう意味で、秀一は家康の命の恩人といっても過

ではありませんよね 

秀一は歴史の表舞台に立つような武将ではありません

が、歴史を大きく動かした人物だと密かに思っている

僕なのです 

 

 

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どうする家康、キーワードは信忠!!

2023-07-24 | 歴史

本能寺で…まるで恋人を待ち焦がれている様な

信長です 

そこに現れたのが光秀でしたね 

待ちぼうけを食わされた信長の姿が印象的です 

「なんだ、お前か」と肩を落とした信長に、

「貴公は乱世を鎮めるまでのお方!平穏なる世

では無用の長物。そろそろお役御免…」と光秀 

「やれんのか!キンカン頭!俺の代わりが!」

とブチ切れ状態の信長でしたね 

お市の説得もあり結局信長襲撃を諦めた家康で

すが、この時点での信長襲撃は家康にとってあ

まりに無謀

成功しても失敗しても、武将としての家康の存

在意義が無くなったと個人的には思っています 

作り話としては面白い筋書きだとは想いますが… 

ところで… 

光秀は何故信長を襲撃したのでしょうか? 

キーワードは信忠だと思っています 

危機管理としてはあり得ない事が起こっていた

のです

家督を継いだ信忠と信長が同じ京都に…

信忠が宿泊していた妙覚寺と、信長が宿泊して

いた本能寺は目と鼻の先。 

老境にさしかかった光秀にとって、二度と巡っ

て来る事がないチャンスが目の前にぶら下がっ

ているのです 

武人として、こんな千載一遇のチャンスを見逃

す筈がありません。 

信忠は家康一行に同行していたのですが、父・

信長が急遽京へ入るので出迎えのため京都へ引

き返したと 言われています

もし?信忠がそのまま堺いいたとすれば、本能

寺の変は起こらなかったかも知れません 

いや、怒らなかった筈です。

近くに、信孝・丹羽長秀が率いる四国攻めの兵

二万五千もいます

あまりに父・信長に従順し過ぎた性格が仇にな

ったのでしょうか? 

この時の信忠の判断が本能寺の変を誘発したと

僕は思っているのです

 

 

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どうする家康、信長の遺言!!

2023-07-17 | 歴史

ドラマでは… 

人を信じる事を教わってきた家康と、誰も信じるなと

教わってきた信長、似て非なる対照的な二人です 

信長に暗殺を見透かされた家康ですが、「弱ければこ

そできることがある、わしは信じる。行き詰まってお

るのは、お主ではないのか。弱き兎が、狼を食らうん

じゃ」とまるで信長に対する宣戦布告ですね 

「俺はわずかな手勢を率いて、京に向かう。本当にお

まえが俺の代わりをやる覚悟があるなら、俺を討て。

やってみろ」と信長

「俺は誰かに殺される。誰よりも無残にな。だが、俺

は覚悟はできている。大変なのは、これからだ。戦な

き世の政は、乱世を鎮めるより遥かに困難じゃ。」と

も… 

まるで家康に対する遺言の様でしたね

もしかして、誰かに殺されるのなら家康に殺されたい

と思っていたのでしょうか? 

家康なら乱世に戻る事がないと確信めいたものが信長

にはあったのかも知れません 

本能寺の変の折、信長が最初に疑ったのが嫡男・信忠

だったとも言われています

この事一つ取って見ても信長の究極の孤独感も感じて

しまいます

極度の緊張感の連続だった信長にも、流石に限界が来

ていたのかも知れませんね 

ところで… 

信長の側近く仕えていた太田牛一が書いた信長公記に

は、光秀の阻喪について全くふれられていません 

おそらく後世の作り話の可能性が強そうです。 

江戸時代に書かれた川角太閤記では触れられています

が、二級資料とされているので信憑性は低そうですね 

武田家滅亡後の宴でも光秀が信長に折檻されたと言わ

れていますが、江戸時代の資料なので当てにはなりま

せん 

どうも、光秀が信長に恨みを持っていて本能寺の変を

起こしたと持っていきたい意図が感じられてなりませ

そう考えると家康陰謀説もあり得るのかも知れません

ね。 

信長謀殺における家康の影を消す為に… 

少し考え過ぎでしょうかね?

 

来週はいよいよ本能寺の変です。 

家康が信長を討つと思っている秀吉。 

自分の力で信長を討つと決心している家康。 

耐えきれず信長の意表を突く光秀。 

三者三様の思惑が入り乱れた本能寺となりそうですね

 

 

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