石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

2010-08-29 01:45:57 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 光林寺宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジを降り、北北西、直線距離にしておよそ250mのところに天台真盛宗来迎山光林寺がある。01_2山門をくぐると本堂南側に墓地がある。02墓地中央の区画された場所に、小型の五輪塔の部材を積み上げた寄集め塔やいつくもの一石五輪塔に四方を囲まれるようにして一際立派な宝篋印塔が立っており、墓地全体の惣供養塔のような様相を呈している。切石を方形に組んだ基壇の上に立つが石材の質感が異なりサイズもやや小さく釣り合わないので当初からの基壇とは考えにくい。花崗岩製で塔高約221cmを測る。七尺半塔であろう。基礎は上二段の壇上積式で幅は地覆部で約71.5cm、葛部約71cm、束部で約70cm。基礎高は約51.5cm、側面高約39.5cm。各側面とも上端花頭が真っすぐで肩の下がらない整美な格狭間を羽目部分いっぱいに配し、格狭間内は現状で正面の北面に三茎蓮、残る三面は開敷蓮花のレリーフで飾っている。北面の束部分、向かって右に「願主藤井行剛」、左に「嘉元二二年三月廿四日」の陰刻銘があり、肉眼でもほぼ判読できる。嘉元二二年は嘉元四年(1306年)のことで、こうした金石文には四年を二二年と表記することがしばしばある。03三月廿四日は小さい文字で二行に分けている。塔身は幅約36cm強、高さ約37cm強でやや高さが勝り、金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は雄渾かつ端正で月輪や蓮華座は伴わずに直に刻まれている。現状で正面に当る北側(正確には北北東)が本来東面するはずの「ウーン(阿閦如来)」になっている。04笠は上六段下二段の通有のタイプで軒幅約62cm、高さ約47.5cm。三弧輪郭の隅飾は軒から約0.5cm程入ってから直線的に少し外傾するが、軒幅と左右隅飾先端間の幅はほぼ同じである。隅飾は基底部幅約20.5cm、高さは約24.5㎝。隅飾輪郭内には平板陽刻した蓮華座付きの月輪を配し、各面とも諸尊通有の種子「ア」を陰刻する。相輪も完存し高さ約84cm。請花は上下とも八葉の単弁で下請花は小花が見られず覆輪を少し盛り上げて作り、上請花は弁央に稜を作る小花付きである。九輪部は適度な逓減を示し太い沈線で各輪を区画する。先端宝珠の尖りもよく残る。接合部のくびれに脆弱なところは見られずよく整った相輪である。作風優秀で全体に表面の風化も少なく各段形や細部の彫成が非常にシャープな印象を受ける。基礎から相輪まで完存し、壇上積式の基礎、基礎側面の格狭間内のレリーフ、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の蓮華座付月輪内の種子といった近江系宝篋印塔の特長をフルスペックで備える在銘基準資料として貴重な作品である。

 

参考:川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展(二)」『史迹と美術』357号

     〃   新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真左上:北側正面、写真右上:南側、塔身のキリークが鮮やかですが基礎が見えないですね。周囲の狭い範囲に香炉や背の高い花立て、寄集め塔などがあって基礎が見づらいのが難点。なかなかいい写真も撮れない環境にあります。写真左下:折れもなく宝珠先端の尖りまでよく残る立派な相輪、写真右下:三弧輪郭の隅飾です。輪郭内に蓮華座付小月輪に彫られた「ア」があります。隅飾突起の先端がピンととんがってシャープな感じがおわかりいただけると思います。非常に残りのよい惚れ惚れする隅飾です。

 

これも川勝博士の紹介以来著名な宝篋印塔ですね。文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。先の記事で鎌倉時代後期でも前半に属するフルスペックの近江系宝篋印塔の在銘品は以外に少ないと申し上げましたが、本塔も弓削阿弥陀寺塔や上田町篠田神社塔と並ぶ数少ない在銘事例です。しかも基礎から相輪まで完存という点で稀有な存在です。本塔の造立された14世紀初め頃は近江においても宝篋印塔など石塔の構造形式、意匠表現が完成しまさに最盛期を迎えた時期に当ると考えられており、油の乗りきった時期の典型的な近江系宝篋印塔の基準資料として是非とも一見の価値があると思います。市指定文化財ですが、はっきり言って国の重文指定があっても不思議でない優品です。なお、お寺の門前すぐ北側にはこちらも著名な妙法寺薬師堂宝篋印塔がありますので忘れずご覧いただくことをお薦めします、ハイ。


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