石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

2010-08-05 00:32:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市柏木町 正寿寺宝篋印塔

柏木町は近江鉄道市辺駅の西方1Km余り、付近一帯は蒲生野と呼ばれ、田園の広がる平地にある集落のひとつである。01_2集落西端に正寿寺がある。臨済宗妙心寺派で江戸時代元禄年間の開基というが紹介する宝篋印塔をはじめ古い遺品も少なくないことからそれ以前からこの付近に前身となる寺院があったものと思われる。現在無住で住職は兼務、地元で管理されている様子である。ここに「飛鳥井殿」の石塔なるものがあることは既に江戸時代の記録に載っているらしい。飛鳥井殿というのは鎌倉時代初期、飛鳥井雅経に始まる蹴鞠の家として有名な公卿を指すようで、その飛鳥井氏の屋敷が付近にあったという伝承が残るという。もっとも、はっきりしたことは不詳で所詮信を置くに足らない。大正年間に書かれた『蒲生郡志』には寺の付近に土塁等の城郭遺構が残っていたと記されているとのことで興味をひかれる。さて、その正寿寺の本堂南側の生垣の中に、設えて間もないと思われる新しい切石の基壇があり、その上に東西二基の宝篋印塔が並んで立っている。どちらも花崗岩製で西側が大きく東のものはひとまわり小さい。02西塔は川勝政太郎博士が昭和40年『史迹と美術』第356号に紹介され広く知られるようになったもので、以来著名な宝篋印塔である。古い基壇や台座はみられず、元々直接地面に据えられたものと考えられ、現高約177cm、元は六尺塔であろう。基礎は低く安定感があり、幅約62cm、側面高約28.5cmと幅に対して側面高が半分に満たない。基礎上二段で、段形は側面からの入り方が大きく、したがって基礎幅に対する塔身幅の割合が小さい。03基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内を彫りくぼめ格狭間を配する。格狭間内は素面で近江式装飾文様はみられない。輪郭の左右の束の幅が広いのが特長で、格狭間と束との間にもスペースを設けているので横幅を広くとった低い基礎の形状の割りに格狭間が左右幅を十分にとれずに萎縮したようになって、脚部の間も狭く、整美とは言い難い形状になっている。こうした格狭間は永仁三年銘の市内妙法寺薬師堂宝篋印塔や弘安八年銘甲賀市水口町岩坂最勝寺宝塔など13世紀後半代に遡る古い石塔に類例がある。本塔では加えて花頭部分中央を広めにとっているので、本来左右に2つづつあるべきカプスが1つづつしかないのは珍しい。北面と東面の束に刻銘がある。北面向かって右束に「八日願主」左束に「大行房」、東面右束に「正广二二年」左束に「辛卯四月」と肉眼でも判読できる大きい文字で陰刻している。各行の続き方がおかしな順番になっている。「正广二二年」とは正応4年(1291年)のことで、基礎から相輪まで揃っている宝篋印塔としては近江における在銘最古例である。塔身は高さ約28.5cm、幅は約28cmでわずかに高さが勝っている。各側面とも舟形光背形に彫りくぼめ四方仏座像を半肉彫りしている。04印相は確認しづらいが、定印の阿弥陀、施無畏与願印の釈迦、施無畏蝕地印の弥勒、薬壺を持つ薬師の顕教四仏と考えられている。いずれも蓮華座は見られない。笠は上5段下2段で、軒幅約54cm。軒と区別しないで垂直に立ち上がる大ぶりな隅飾は二弧輪郭付きで輪郭内に蓮華座を平板陽刻し、その上に梵字「ア」の四転「ア」「アー」「アン」「アク」を各面に2つづつ陰刻する。胎蔵界四仏の種子であろうか、種子を囲む円相月輪は確認できない。二弧と三弧の違いはあるが軒と区別しない隅飾に輪郭を入れるのは米原市清滝の徳源院京極家墓所にある永仁三年銘の伝氏信塔と同じ手法である。相輪は高さ約70cm、伏鉢は割合低く下請花は単弁。九輪の逓減は小さく上請花は素面で花弁が確認できない。先端宝珠は重心が低く完好な桃実形を呈する。相輪各部のくびれに脆弱なところが見られず、全体に重厚感があり各部の描く曲線がおおらかで直線的な硬さが感じられない。自ずと細長い棒状にせざるをえない制約がある相輪であるが、本例のように見るものに重厚な印象を与える意匠造形は見事というほかない。05また、上請花を素面とする例として湖南市菩提寺の仁治2年銘廃少菩提寺多宝塔があり、川勝博士も指摘されるように古い手法とみるべきなのかもしれない。東塔は基礎下に隅を間弁にしないタイプの複弁の反花座を備え、基礎上も複弁反花とする。基礎側面は四面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れ、北面に孔雀文、南面に開花蓮、東西面はともに三茎蓮のレリーフを配する。格狭間の形状はまずまず。孔雀文は何故か右側に偏っており意匠的にはやや稚拙である。西面を除く三面の左右の束部に刻銘があるというが川勝博士、田岡香逸氏とも判読が困難とのことである。塔身は西塔同様、舟形背光形に彫り沈め四方仏座像の像容を半肉彫りする。笠は上六段下二段。軒の厚みは薄めで、軒と区別し若干外傾して立ち上がる隅飾は二弧輪郭式。輪郭内には蓮華座上の月輪を平板陽刻しその中に梵字を陰刻しているが文字は確認しづらい。相輪は九輪の6輪目以上を欠く。下請花は複弁のようである。隅飾、反花座の一部に欠損が見られる。現存塔高約120cm。造形的には型にはまり、こじんまりまとまった感がある。異形の趣のある西塔に比べるとやや見劣りするのはやむを得ないとしても、近江では珍しい反花座を備えている点、例が決して多くはない格狭間内の孔雀文を有するなど看過すべきものではない。相輪上半をはじめ細かい欠損も惜しまれるが刻銘があっても判読できないというのは特に残念である。完全に風化摩滅してしまう前に改めて判読が試みられることに期待したい。造立時期は鎌倉末期から南北朝初期、14世紀前半代のものと推定される。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」史迹と美術第356号

   田岡香逸「正寿寺の宝篋印塔」『民俗文化』第62号

小生が今更紹介するまでもない著名な宝篋印塔です。最近デジカメを新調したのを機にいろいろなところを再訪し写真を撮り直しておりまして、正寿寺塔も久しぶりにご対面しましたのでご紹介します。基本的には隠れた名品のようなものを紹介したいと考えていますが、悲しいかな石造美術そのものが依然マイナー路線、斯界で著名とはいえ一般的にはほとんど知られていないような状態ですのであえてこうしたものも紹介していきたいと思います。一期一会の覚悟でしっかり観察することは大切ですが、何度も訪れることもまた大切だという趣旨のことを、確か故・太田古朴さんだったかと思いますが著書の中でおっしゃってみえましたね。それに一度訪れたらそれっきりというのもちょっと寂しい気もします。機会を改めることで新たな気づきがあるかもしれませんしね。せっかく出会えた石造物ですのでご健在を確認するとともに周辺環境の変化にも注意し季節や時間帯によって変わる見え方を楽しむのも一興かなと思うようにもなってきた今日この頃です。ただ、カメラを変えても写真はあまり良くならないようで…やはり腕が…(涙)。