石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

2009-03-16 01:18:17 | 宝篋印塔

滋賀県 近江八幡市上田町 篠田神社宝篋印塔

近江八幡市上田町の東寄りに鎮座する篠田神社境内の西側の道路に面して立派な宝篋印塔が立っている。01やや青みがかったような白色の良質な花崗岩製で、切石を組み合わせた基壇を据えた上に基礎を置く。この基壇は不整形で、一部は風化の程度が合わないように見えることから、当初からのものかどうかは疑問である。02基礎、塔身、笠は一具のものと考えられる。相輪は亡失し、今は別の小形の宝篋印塔の塔身と笠、灯篭の宝珠と思われるものを載せている。基礎下から笠上までの現存高さ約154cm、元は8尺塔であろう。基礎は壇上積式で上端は反花とする。羽目部分には整った格狭間を大きくいっぱいに配し、四面とも開敷蓮花のレリーフで飾る。基礎は高さ約58.5cm、幅は葛及び地覆部で約80.5cm、束部分は約1cm狭い。側面高は約46.5cm、束の幅約9cm、葛幅約5.5cm、地覆幅は約6cmを計る。基礎上の反花は、側面から弁先までの間が約4cmとやや広くとっている。反花は、稜を設けた単弁の左右隅弁の間に複弁3葉の主弁を挟み、弁間には計4枚の小花を入れる。抑揚のあるタイプであるが、傾斜の緩い優美で伸びやかなもので、彫りはしっかりしている。03塔身受座は高さ約2.5cm、幅は約49cmある。格狭間は上部花頭曲線が水平方向に広がり、肩はあまり下がらない。側線もスムーズで短い脚部は逆八字になって脚間はやや狭い。羽目は丁寧に平板に仕上げ、中央に開敷蓮花のレリーフを半肉彫りする。塔身は高さ約40.5cm、幅約39.5cmと若干高さが勝る。各側面に径約32㎝の月輪を陰刻、月輪内に陰刻した蓮華座上に金剛界四仏の種子を薬研彫する。東方阿閦如来のウーンが西面することから、塔身は方角が180度ずれている。塔身の種子は端正な刷毛書ながら、あまり大きいものではなく、豪放さには欠ける。近江ではこの手の梵字表現があまり強くないのが普通である。笠は上6段、下2段の通有のもので、軒幅約69.5cm、高さ約55cm、軒の厚さ約8.5cm。隅飾は基底幅約22cm、高さ約25.5cm。04_2三弧輪郭式のもので輪郭の幅は約2cmと薄い。隅飾は、軒と区別してほぼ垂直に立ち上がるが、軒先からの入りは0.3cm程度でごく小さい。各面とも輪郭内には蓮華座と円相を平板に陽刻し、円相内にはアの梵字を陰刻する。笠最下部幅は約49cm、笠頂部幅約24cm。全体にシャープな印象で、各部のバランスも良く、素晴らしい出来映えを示す。基礎東側束部に「正安三年(1301年)辛丑二月廿七日(一説に五月十七日)□□/願主平?茂?氏」の刻銘があるとされる。光線の加減もあり肉眼でははっきり判読できない。近江の在銘の壇上積式の基礎としては日野町北畑八幡神社宝篋印塔(正安元年銘)、竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔(正安2年銘、2007年12月5日記事参照)に次ぐものである。紀年銘のある宝篋印塔の遺品を見る限り、東近江市柏木正寿寺塔(正応4年銘(1291年))、同市妙法寺薬師堂塔(永仁3年銘(1295年))などでは、細部にプリミティブな意匠を残し、なお発展途上とみられ、米原市清滝徳源院の京極氏墓所の氏信塔(永仁3年銘(1295年))あたりで概ね整備されてきた関西形式の宝篋印塔のデザインアイテムが、弓削阿弥陀寺塔や本塔で壇上積式基礎を加え、フルスペックとなり、いちおうの完成をみるとの趣旨のことを川勝博士、田岡香逸氏ともに述べておられる。そうした意味においては画期的な宝篋印塔のひとつである。

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展」(二)『史迹と美術』357号

   〃 新装版「日本石造美術辞典」

   田岡香逸「石造美術概説」

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』

とにかく素晴らしい宝篋印塔です。いつまでも見飽きません。それにしても相輪の亡失が惜しまれますが流石の市指定文化財です。地元の方のお話では金鶏伝説があって、以前積み直した際に地下を掘ったが何もなかったとのこと。さらに今の基壇は積み直す前からあったらしいとのこと。どうも原位置から移動している可能性があるように思われます、ハイ。