滋賀県 東近江市山上町 霊感寺宝篋印塔
山上町は町役場(現在は東近江市役所の支所)のある旧永源寺町の中心地区で、東近江市役所の永源寺支所の北北西、直線距離にして約500mのところにある霊感寺は臨済宗永源寺派。江戸時代前期の寛文年間、永源寺第81世如雪文巌禅師の中興という。それ以前は天台宗で中居寺と称したという。現在の堂宇はごく新しいものだが、境内西側に墓地があり、その中央に宝篋印塔が立っている。延石を方形に組み合わせた基壇の上に立ち、基礎から相輪まで完存している。全て花崗岩製。延石の基壇は一辺約87cm、大小3枚の石材からなる。当初からのものか否かは不詳だが、風化の様子や石材の質感に違和感はない。塔高は約167cm、五尺五寸塔か。基礎は壇上積式で葛と地覆の幅約54cm、束部分で幅約52.5cm。高さ約41cm、側面高約30.5cm。側面は北側を除く3面に格狭間を入れ、格狭間内いっぱいに孔雀文のレリーフを配している。孔雀文は長い首と脚、尾羽があり、背面と脚の前後に開いた羽を表現し、日野町比都佐神社塔の孔雀文と共通する意匠で全体にやや稚拙ながら伸び伸びとして闊達な印象を受ける。対向孔雀文の比都佐神社塔と異なり各面とも1羽づつで南面は頭を向かって左に、東西の2面は右に向けている。基礎北面だけは格狭間はなく羽目に陰刻銘があるのが確認できる。銘文は5~6行程あるように見えるが肉眼での判読は厳しい。浅学の管見では今のところこの刻銘の判読文を全文載せた文献を知らないが、瀬川欣一氏によれば乾元二年(1303年)の紀年銘があるという。基礎上は反花式で一辺当り両側隅弁とその間に3枚の主弁を置き各弁間には小花がのぞいている。塔身は幅約27cm、高さ約28cm弱でやや高さが勝る。側面には金剛界四仏の種子を直接薬研彫している。種子は端正なタッチで近江では雄渾な部類に入る。笠は上5段下2段。軒幅は約51.5cm、高さ約37.5cm。軒から少し入ってから直線的に外形する隅飾は基底部幅、高さともに17.5cm。二弧輪郭式で下の弧に比べ上の弧が大きい。輪郭内は素面。笠上の各段の高さに比べると笠下がやや薄い。相輪高は約60cm、上下とも請花は単弁八葉、九輪部は太めの沈線で区切り、宝珠はやや縦長な印象がある。近江における孔雀文を持つ宝篋印塔では在銘最古例となる。各部のバランスも良く保存状態も良好で、全体によくまとまって典雅な宝篋印塔である。孔雀文は近江式装飾文様の一つだが蓮華文に比べればその数は甚だ少なく、近江でも残欠も含め20~30例程しかない珍しいもので、そのうえ基礎から相輪まで完存し、鎌倉時代後期の紀年銘を有するとなれば石造美術の宝庫である近江にあっても稀有な例で、もっと注目されて然るべき宝篋印塔である。
参考:瀬川欣一『近江 石の文化財』
滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』
写真下左:壇上積式基礎&格狭間内の孔雀文です。下右:刻銘のある面です。格狭間がなく、何やら刻銘があるのがお分かりいただけると思いますが、ちょっと判読は困難です。画像が小さめですのでわかりにくいかもしれませんが、画像にカーソルを合わせてクリックしていただけると写真が少し大きく表示されます。
例により文中法量値はコンベクスによる実地略測によりますので多少の誤差はご容赦ください。なお、基礎から相輪まで各部完存、孔雀文で乾元二年銘となれば市指定はおろか国の重文指定でも不思議でない逸品ですが、無指定との由、事実ならば信じ難いことです。たしかにこの辺りは鎌倉時代の石造美術がごろごろしてる地域ですが、その中にあっても本塔は一際価値の高いものと断言できます。灯台下暗しといいましょうか、こうした石造物たちがどれほど貴重な地域の文化遺産であるか、地域の皆さんにもっと認識して欲しいと思います。そしてその価値を発信していただくとともにしっかり後世に守り伝えていただきたいと痛感します。近江人ではない小生ごときが申し上げることではないかもしれませんが、それが亡き近江の石造研究の先達であった瀬川先生や池内先生の御遺志だと信じます、ハイ。
追伸:無指定というのは誤りでした。どうもすいません。どうやら昭和48年3月に当時の永源寺町の文化財に指定されていたようで合併で引き継いだ東近江市でも平成4年3月に指定されている模様です。