石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

2008-05-15 01:46:15 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市伊香立途中町 勝華寺の石造美術

途中トンネルを向け、国道367号と477号が交わる地点、急カーブと立体交差のある複雑な三叉路の北側、途中集落の小高い場所に勝華寺がある。「途中」は、古来途中越、竜華越とも呼ばれる京都の大原方面から葛川を経て北国に抜けるルート、さらに堅田方面との交通の結節点にあたる場所である。27石段を登ると本堂前右手、直接地上に置かれた石造宝塔がある。花崗岩製、相輪を失い現存高約120cm。基礎側面四面ともに輪郭、格狭間を配し、格狭間内には近江式装飾文様のレリーフが見られる。本堂側北面と南面に開敷蓮花、西面に宝瓶三茎蓮、東面だけははっきりしないが弁2枚の散蓮であろう。基礎は幅約57cm、高さ約35cm。輪郭の彫りが深めで上下より左右がやや広い。格狭間は花頭中央の横張りが弱く、カプスの尖りが目立つ。側辺の曲線も少し直線的なところがあって硬い感じが現れている。脚部はやや外に開く。開敷蓮花は格狭間内に大きく配され、その意匠はややデフォルメされて張り出し気味になっている。三茎蓮は上半だけの宝瓶から立ち上がる。中央に直立する蕾を、向かって右にやや下向き加減の巻葉ないし蓮葉の側面観を、左は外向きの、恐らく散花後の花托を表現していると思われる。塔身は軸部、縁板(框座)首部を一石で彫成し、首部は3段となる。軸部は下すぼまりの樽状で、突帯というよりは沈線刻に近い扉型を三方に刻む。笠裏には2段の斗拱型を有する。軒口はさほど厚くなく、隅の軒反は穏やかなものとなっている。頂部には方形の露盤を彫りだし、四注は断面凸状の突帯で隅降棟を表現し露盤下で左右の突帯が連結するが、隅降棟側の突帯が上に出て重なる形をとる。屋根の勾配はやや急で四注には若干照りむくりが認められる。相輪は亡失、代わりに五輪塔の空風輪とおぼしきものが載せられている。三茎蓮の面、輪郭束部分の左右と南側面の向かって右の束部分に各一行、合計3行にわたり肉眼でも概ね判読できる刻銘がある。19「貞和二二年/三月廿九日/願主二十五人」とある。北朝年号で貞和4年(1348年)、南朝年号では正平3年に当たる。何故か「廿」と「二十」の異なった書き方をしている。表面の風化が少なく、亡失している相輪を除けば、典型的な近江の石造宝塔の意匠ディテールを完備している。一方、厚みの足りない軒口、隅に偏った軒反りの様子、照りむくり気味の四注と勾配の急な屋根、あるいは肩の張った樽型の軸部と細い首部、格狭間の形状、さらに笠裏や首部の段形や隅降棟などに見るシャープさに欠ける彫りの鈍い感じは、石造美術の意匠表現が最盛期を迎える鎌倉後期の優品と比較すれば、時代が降る特長をよく示している。年代指標となる在銘の石造宝塔として貴重。さらにもうひとつ勝華寺には忘れてはならない石造物がある。22本堂の右手、一段下がった生垣の脇にある大きい水船である。約215cm×130cmの楕円形で高さは約75cm。良質な花崗岩製で、上2/3程は丁寧に丸く整形し内側を約152cm×72cm、深さ約48cmの楕円形に大きく抉り、縁を平らに仕上げている。下方は埋めて使用したのであろうか不整形のままで、北側面には4個の鏨の痕が並んでいる。南東側の外側下端を大きく打ち欠き、内底面から貫通する水抜孔がある。さらに南側の外側面に亀の肉厚な陽刻がある。古い水船でこのような動物意匠を施す例は他に知らない。亀と水抜孔の間の縁部分に「弘長二年(1262年)十二月・・・」の刻銘がある。(弘長3年説もある。)これはサイズ的にも石風呂と考えてよいと思われる。保存状態もよく、珍しい亀のレリーフに加え、鎌倉中期の在銘遺品として貴重。水船としては近江では在銘最古、全国でも屈指の古い水船である。

参考:川勝政太郎 『近江 歴史と文化』 57ページ

   田岡香逸 「近江堅田町の石造美術」『民俗文化』45号

   田岡香逸 「近江葛川の宝塔など(後)附勝華寺の弘長二年石湯船補記」

        『民俗文化』173号

   滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 107~108ページ

   瀬川欣一 『近江 石の文化財』 155ページ

 ※ 写真下:わかりますでしょうか、亀です亀、おもしろいでしょ。

  それから「水船」という呼称の適否について、いろいろ議論もありますが、あまり難しく考え過ぎず、定義付にそんなに拘泥しなくてもいいのではないかなというのが現在の小生のスタンスであります、ハイ。


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