石造美術紀行

石造美術の探訪記

五輪塔について

2007-01-23 00:25:13 | うんちく・小ネタ

Dscf2959 五輪塔はもっともポピュラーな石塔である。現在でもたいていの墓地で目にすることができる。川勝博士は五輪塔について、次のように述べておられる。「密教において創始された塔形で、下方から方・円・三角・半月・団形からなる五輪とし、これを地・水・火・風・空の五大を表すものとする。」「下から方形の地輪、球形の水輪、宝形造の火輪、半球形の風輪、宝珠形の空輪を積み上げるのが、五輪塔の一般的形式である。」「方・円・三角・半月・団形から構成されるとは教理上からの説明であって、石造の場合、忠実に三角の火輪にしたのも、まれには存在するが、大概は建築風になって宝形造としている。また、空輪も団形のものが古遺品に間々あるが、これも宝珠形にしたものが多い。~中略~五輪石塔通常の形式にあっては、基礎(地)、塔身(水)、笠(火)、請花(風)、宝珠(空)の如き外観を呈しているわけである。構造としては、風・空輪を一石で作り、残りの各輪をそれぞれ別石で作り、これらを積上げるのが普通であるが、中には~中略~地・水輪を一石、火輪以上を一石に作り、二石構成のものや、全部を一石彫成にした例もある。」ここで“通常の形式”というのは、空風輪、火、水、地各輪の四石構成のものをいう。他にも空風火を一石で作り、地水輪を各別石とした三石構成もあり、構成石材数を冠して“四石五輪塔”とか“三石組み合わせ式の五輪塔”などと呼ぶこともある。また、特に一石からなるものは、室町時代以降に流行する小型のものを“一石五輪塔”とい03い、鎌倉時代以前の大型のものは便宜上“一石彫成五輪塔”と呼んで区別する。五大とは、宇宙の万物を構成する5大元素である地・水・火・風・空をいい、こうした世界観を説く五大思想の源流は中国・インドまで遡るが、五輪塔としての明確な形態を持つ古遺品はインドや中国で発見されていない。したがって五輪塔は我国で独自に発展を遂げたものとの説が一般的である。また、五輪塔形は密教における胎蔵界大日如来の三昧耶形を表し、五輪塔形そのものが大日如来を象徴するとされる。各輪四方に五大の種子をそれぞれ、東方発心・南方修 行・西方菩提・北方涅槃の四門、すなわち「キャ・カ・ラ・バ・ア」、「キャー・Dscf2906_1 カー・ラー・バー・アー」、「ケン・カン・ラン・バン・アン」、「キャク・カク・ラク・バク・アク」を刻むものが本格的とされる。四門種子の省略形や別パターンの種子を刻むものなど、いろいろなバリエーションがあるが、基本的に大日如来信仰を示す種子になっている。その後宗派を超えて広く受容され、弥陀信仰や地蔵信仰などを示すパターンもみられるようになる。なお、漢字で空風火水地と刻むものは比較的新しく、室町時代後期以降に一般化し、江戸時代に流行する。造立年がわかる五輪塔では、いずれも石造ではないが、慶長11年に醍醐寺円光院跡から出土し埋め戻された応徳2年(1085年)銘の石櫃内から発見された銅製五輪塔、康治元年(1142年)銘の静岡県鉄舟寺錫杖頭に小さく鋳出されたもの、兵庫県常福寺の天養元年(1144年)銘の瓦経とセットで出土した瓦質の土製五輪塔が古い。平面的な図像では、京都市の法勝寺跡から出土した軒瓦の瓦当文様として表現された永保3年(1083年)九重大塔造営時のものと推定されるもの、保安3年(1122年)の小塔院建立時のものと推定されるものが古い。長寛2年(1164年)銘の神戸市徳照寺梵鐘や仁安2年(1167年)の厳島神社平家納経にも塔形の図像がみられる。一方、記事としては東寺新造仏具等注進状の康和5年(1103年)に五輪塔と水晶五輪塔が作られた旨の記事、仁安2年(1167年)平信範の日記「兵範記」の近衛基実墓の記事がある。何でも「最古」はキャッチーなので興味は尽きない。ともかくこの種の遺物や史料は今後も発見される可能性があり、さらに年代が遡るかもしれないが、要するに平安時代後期、11世紀終わりごろから12世紀前半ごろには、既に五輪塔の形状についての一定の概念があったと考えてよいことを示している。実際に残る石造五輪塔の最古のものは、仁安4年(1169年)銘の岩手県平泉中尊寺釈尊院塔で、嘉応2年(1170年)と承安2年(1172年)銘の大分県臼杵市中尾塔2基、治承5年(1181年)銘の福島県玉川五輪坊塔が続く。このほか、無銘では奈良県当麻北墓塔、伝・福岡県宝満山出土の京都北村美術館塔などが平安時代終わりごろの作とされる。だいたい平安時代後期(11世紀ごろ)から現れた五輪塔は、他の塔婆同様、もともと功徳を積む作善のための塔であって、必ずしも個人の墓標として認識されていたわけではなく、石造としては鎌倉時代中期(13世紀後半)ごろデザインや構造形式の整備統一が進み(とりわけ奈良市西大寺奥の院の叡尊塔(1290年ごろ造立)は、デザインや構造形式がひとつの完成をみたエポックメイクな五輪塔である)、上流階層や高僧の個人墓塔や惣墓(共同墓地)の総供養塔(墓地の中心に据えられる墓地全体の供養塔や共同納骨塔)のスタイルとして多く採用され、やがて中世を通じて次第に大衆化し、墓塔として大いに流行したと考えられる。

写真は上から

湖南市永照寺塔(延慶4年 典型的な「鎌倉」五輪塔)

東近江市瓦屋寺の一石五輪塔(無銘・室町時代末頃)

東近江市極楽寺塔(無銘・南北朝時代 四門の種子が刻まれる)

参考

川勝政太郎 『石造美術』

薮田嘉一郎編 『五輪塔の起源』

  同 『宝篋印塔の起源続五輪塔の起源』

元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

  同 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告


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