石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 天理市山田町中 蔵輪寺無縫塔

2007-01-15 22:30:08 | 五輪塔

奈良県 天理市山田町中 蔵輪寺無縫塔

Dscf0789 旧街道沿いの山裾に建つ蔵輪寺は、筒井順慶の母方の祖父で、東大寺大仏の補修や書画で知られる異色の戦国武将、山田道安ゆかりの古寺。石段を上がり、向かって左手の真新しいお堂の裏手に墓地がある。墓地の中央に目だって大きい単制の無縫塔が2基並んでいる。山田道安父子の墓碑である。向かって左の小さい方は、高さ140cm、方形の台座に半球形の請花台を載せ、その中央に大きく天真と陰刻し、判読しづらいが右に元亀2年、左に8月4日の銘があるようである。塔身は下が細く、上にいくにしたがって徐々に太くなり、先端はやや先の尖ったラウンドヘッドの縦長の棒状。台座、請花座、塔身ともに無地。32歳で討ち死にした道安の子息、岩掛城主山田太郎左衛門藤原順清の墓である。一方、右の大きい方は高さ160cm。基礎は円形で半球形の請花台に上方が太く、下が細いラウンドヘッドの棒状で、小さい方と同じ形だが、先端の丸みがやや強い。台座、請花、塔身ともに無地。請花座の中央に月輪を陰刻し、中央に大きい字で道安と刻む。右に天正元年、左に10月21日の銘があるようだが記年銘は見づらい。これが馬場城主雲外道安大居士山田民部大輔藤原順貞つまり道安の墓である。江戸時代の卵塔のように先端の尖りが顕著でなく野趣がある。同寺には父子の位牌もあるという。(※)山田道安こと順貞は永禄6年、井之市城主の福住宗永と交戦して敗れ、落飾して引退、当寺に入って絵画彫刻に勤しみ、松永久秀の兵火で焼け落ちた東大寺大仏の頭部の仮修復に尽力したという。天正元年没。一方、山田太郎左衛門順清は道安の嫡子で、辰之市にて戦死、父道安により当寺に葬られたという。(辰市合戦は元亀2年8月4日、松永久秀軍を筒井軍が撃破した、大和最大の野戦として知られる。戦いの舞台となった辰市城は現在の奈良市西九条町付近にあったとされる)Dscf0809_4

無縫塔の周辺には多数の宝篋印塔や五輪塔などが立ち並び壮観である。これらは山田一族の累代の墓碑と思われる。どれも小型で、ほとんどが複弁反花座を持ち、いずれも室町~江戸初期のもの。無縫塔の傍らには笠上7段の宝篋印塔笠残欠が転がっており、無縫塔のすぐ背後にある宝篋印塔の基礎の残欠には文明3年(1471年)銘がある。宝篋印塔の基礎の格狭間はどれも退化形式。そのほか、墓地には、ざっと見渡しただけでも、文明15年(1483年)銘の宝篋印塔基礎や天文5年(1536年)銘の一石五輪塔、天文18年(1549年)、大永2年(1522年)、大永7年(1527年)、弘治3年(1557年)銘を地輪に刻んだ五輪塔など、有銘の石塔がかなり目に付く。詳しく調べればさらに多くの銘が見つかると思われる。ただ、惜しむべきはその多くが寄せ集め状態と思われる点で、中には宝篋印塔と五輪塔が混積されているものもあり、何度か倒壊して積み直されたのであろう。組み合わせ式の五輪塔の数が多いが、宝篋印塔のパーセンテージもかなり高い。ほかにも舟形板碑形五輪塔、半裁五輪塔、一石五輪塔、箱仏など15世紀代から16世紀代にかけての石塔や石仏のオンパレードの様相を呈しており、しばし時が経つのを忘れさせる。静かな境内に野鳥の声が響き、戦国の異才、山田道安を偲び、その謎に満ちた波乱の生涯に思いをはせるのである。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 369~370ページ

そのほか、現地案内看板も参考にしました。


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