石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

2012-10-07 22:58:04 | 五輪塔

和歌山県 伊都郡かつらぎ町上天野 六本杉の板碑及び高野山町石(136町石)

九度山の慈尊院から高野山に向かう参詣道に六本杉と呼ばれる場所がある。01_4峠のような場所で慈尊院方面から尾根沿いに上ってきた参詣道が尾根の上に達する地点である。03_2高野山への参詣道に沿って設けられた町石でいうと137町石と136町石の間になる。かつらぎ町教良寺(きょうらじ)地区と上天野(かみあまの)地区の境付近にあたり、古くからの往来道が交わる交差点で、かつてはランドマークになるような大きい杉の木があったのかもしれないが現在はそのようなものは見当たらず、単に峠の地名となっている。古道の交差点から高野山の方向に数mいった道の脇に方柱状の石が立っている。これが古い板碑であることを認識する参詣者はおそらくあまり多くはないだろう。花崗岩製で現状地表高は約250cm、正面幅約30cm×奥行き33cmで、全体として概ね尖頭方柱状を呈する。04地表面から約50cm程のところで折損したのを上手く接いである。地面下には1m近く根の部分が埋け込まれていると思われる。正面及び左右側面は丁寧に表面を叩いて仕上げているが、背面と下端付近の仕上げはやや粗い。02上端は山形に左右を切り落とし、約15cm程を残して正面も斜めに切り落とす。その下にやや幅の狭い二段の切り込みを設ける。切り込みは左右側面につながっている。その下は高さ約17cmの額部から約9.5cm下げて碑面とする。額部の向かって左下が少し欠損する。碑面は高さ約193cm、上端幅約29.5cm、下端幅約31.5cmで、上部中央に金剛界大日如来の種子「バン」を力強いタッチで薬研彫し、「奉為前大僧正聖基」とメリハリのある達筆の大きい陰刻銘がある。向かって左側面には「天野路 法眼泰勝」とあり、右側面に「建治二年(1276年)十一月日」と同様のタッチで陰刻されている。05_2碑面下端の入りは約5cmで、下方を少し厚くして安定を図っている。なお、背面の上端近くに幅約9cm、深さ約3cmの楕円形の穴が見られる。この穴の詳細は不明。造立銘により、聖基という大僧正だった師匠?のために、お世話になった泰勝という法眼が作らせた板碑であることがわかる。特に「天野路」という表現に注目されたい。板碑が古道の交差点に位置することから、「こっちにいくと天野方面ですよ」という道標の役目を果たしていたのではないかと考えられており、日本最古の道標とも言われている。大僧正聖基という名前は、丹生官省符神社石段脇にある180町石(文永9年銘)にも刻まれている。01_3この人物は、板碑が作られた建治2年から10年前の文永4年(1267年)に亡くなった高僧で、勧修寺長吏、東大寺別当も務め、文永3年(1266年)に行なわれた京都の蓮華王院(三十三間堂)再興の落慶法要で導師を務めているとのこと。法眼泰勝という人物については未だ定説はないようだが、木下浩良氏によれば高階氏出身の肥前法眼泰勝ではないかとのことである。なお、同じ建治2年銘の板碑が高野山奥の院、燈籠堂前墓地の玉川に近いところにある。02_2やはり花崗岩製でよく似たサイズ、意匠で共通する手法である。これらは、緑泥片岩のようにあまり薄く作れない花崗岩という石材の特性もあってか、幅と奥行きがほぼ等しい方柱状で、全体にかなり重厚感のある形状を呈するが、上部を山形にして二段に切り込みを入れるなど類型的な板碑の特長を備えている。さらに随所に鋭い彫成を残し作風も優秀で、近畿における類型的な板碑のうちでは在銘最古の部類に属する。
六本杉の板碑近くに建てられた町石についても簡単に触れておく。板碑からは、わずか約20数mの道脇の斜面にある。方柱の上端に五輪塔を整形付加した形状から五輪卒都婆、あるいは長足五輪塔などと呼ばれる。慈尊院と金剛峯寺の間には胎蔵界曼荼羅の180尊を各本尊とする町石五輪卒都婆180基が1町(110m弱)ごとに立てられている。これは金剛峯寺壇上伽藍から数えて136番目にあたる。花崗岩製。現高約2.3m、地表下に約1m程の根部があると推定されている。五輪塔部分は概ね高さ80cm程で正面に五輪の梵字を刻む。大きめの風輪下方に火輪上端が食い込んだように見える噛合せ式と呼ばれるタイプ。地輪下方の碑面の正面上方に蘇悉地羯羅菩薩の種子「ヂィ」を薬研彫し、続いて「百三十六町 比丘尼寶道」と達筆な筆致で大きく陰刻する。向かって右側面には「文永六年(1269年)八月 日」の陰刻銘が認められる。願主の寶道については不詳だが鎌倉幕府関係者や貴族等の妻女であろうか。蘇悉地羯羅菩薩はあまりなじみのない菩薩名であるが、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院中の一尊である。この136町石に限らず高野山の町石はどれもだいたい一尺(約33cm)角で長さ3m余の方柱状の花崗岩の石材から加工・彫成されており、この点では先の板碑とも共通している。



写真右上:先端部分の側面はこんな感じ、右上から2番目:天野路の文字、右上から3番目:建治銘のある側面ですが画面中央左に小さく136町石が写っています、見えますでしょうか?(カーソルを写真に合わせてクリックすると少し大きく表示されます)
 
参考:巽三郎・愛甲昇寛 『紀伊國金石文集成』

      木下浩良 『はじめての「高野山町石道」入門』

      川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』


高野山町石道は慈尊院から約20Kmの道のりを高野山まで歩くのがむろん本格ですが、5~6時間はかかるそうです。小生もいつかは挑戦したいと思いますが…。
六本杉まででも慈尊院から歩けばおそらく1時間半以上かかると思われますので、やむを得ず忙しい方は車で県道109号志賀三谷線を進み、教良寺の峠を越え上天野側に抜けてすぐの道路脇から木製の案内道標に従って左手山道に入り、徒歩約20分で六本杉に着きます。普通「道標」というと街道沿いに立つ江戸時代以降のものですが、鎌倉時代の道標というのは超珍しいでしょう。もっとも道標は目的地&方向&距離を示すものなので、この板碑より若干古い町石にも道標としての側面があります。
なお、聖基大僧正(1204~1267)は、殿下乗合事件で知られる松殿関白藤原基房の長男の左大臣藤原隆忠を父に持つ人物だそうです。


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