滋賀県 長浜市小野寺町 賢明院宝篋印塔
旧浅井町小野寺の集落の東端、山寄りの最も高い場所にある神明神社の南に隣接するのが真言宗豊山派賢明院である。小堂があるだけの小寺院で、無住のようだが、境内はよく手入れされており、特に前庭はなかなか趣のある造作を示し、神明神社の杉の大木を背景にしてひきしまった佇まいを示す。西方遥かに琵琶湖を望むロケーションもまた素晴らしい。この小さな本堂の北西側、庭の片隅に1.7m四方高さ60cm程の小さな自然石積みの方形壇があり、その上に宝篋印塔が立っている。高さ約187cm、キメの粗い花崗岩製。基礎下には幅約81.5cm、高さ約16cmの二石からなる切石基壇を備えている。この切石の基壇が当初から一具のものか否かは不明だが、石の質感や風化の程度から違和感はない。基礎幅約61cm、高さ約41.5cm。側面高は約30.5cmで、各側面とも束部の幅約10cm、地覆厚さ約5cm、葛石厚さ約5.5cmと束部の幅がかなり広い輪郭を巻き、幅約40.5cm、高さ約20cmの輪郭内には格狭間を配する。輪郭内は、彫り沈めは2cm弱と深め。格狭間内は素面で幅約36cm、脚間は約12cm。高さは約18cm、近江式装飾文様は見られない。東側側面の向かって右側の束部に刻銘があって、佐野知三郎氏は「元亨二(1322年)壬戌□」と判読されている。かなり読みにくいが肉眼でも何とか元亨の文字は確認できる。基礎上面は複弁反花式で、左右隅弁は小花にならず、主弁が2枚で隙間に小花を挟んだ勾配の緩いものである。主弁はこれだけの規模ならば普通3枚から4枚で、1枚の場合でも幅広の小花を間に挟む。2枚というのはあまり例がない。勾配は緩く花弁のむくりは目立たない。塔身受座は幅約36cm、高さは1.5cmとかなり扁平。塔身は幅約30.5cm、高さ約30cm。月輪は入れず、種子を薬研彫する。種子は北面「バイ」(薬師)、西面「バク」(釈迦)、南面「キリーク」(阿弥陀)で、東面は通常であれば「ユ」(弥勒)となるところを代わりに「バン」とした変則的な顕教四仏となる珍しいパターンである。本来の方角から90度ずれている。「バン」は一般的には金剛界大日如来で、他に法界虚空蔵菩薩、孔雀明王などが考えられるが、この場合何を意味するのか儀軌的なことは詳しくない。笠は上6段、下2段で、軒幅約55.5cm、高さ約42cm。軒は厚みが約9cmあって厚く、笠下の段形が笠上に比べ低い。隅飾は軒と区別し直線的に若干外傾する三弧輪郭式で、基底部幅約18cm、高さは約22cmと、どちらかというと長大な部類に入る。隅飾の輪郭内は素面。笠頂部の幅は約20cm。相輪は一見完存しているように見えるが上請花の上下で折損したものを接いでいる。先端宝珠はやや小さく別物の疑いがある。伏鉢は側線がかなり直線的で、下請花は径約19cmで複弁八葉、上請花が径約16cmで素単弁の八葉。九輪はやや逓減が目立つが凹凸はしっかり刻んでいる。相輪高約73.5cm。粗いざらついた石材の性質にもよるだろうが全体に風化が進み、格狭間、種子、反花や請花の花弁、刻銘など細部の観察が困難になりつつある。しかし、各部概ね揃い総じて遺存状態は良好といえる。以前にも書いたが、①キメの粗い花崗岩製、②基礎は輪郭格狭間式で彫りが深い、③塔身上下の段形ないし反花が低い(薄い)、④笠の軒が厚い、⑤長大な三弧輪郭付の隅飾、⑥格狭間内は素面で近江式装飾文様がない、⑦隅飾内も素面で装飾的なレリーフがないといった特長を有するスタイルの宝篋印塔が長浜市や米原市などにしばしば見られる。徳源院の京極家石塔群の秀麗ないわゆる関西形式の典型とされるものは別格として、こうしたややローカルな作風の江北型ともいうべき宝篋印塔には紀年銘があるものがなく、メルクマルとなる鎌倉末期、元亨2年(1322年)の紀年銘を有する点で本塔の存在は貴重である。
参考:佐野知三郎 「近江の二、三の石塔」『史迹と美術』407号
佐野氏の報文では元明院となっていますが、賢明院でも元明院でも読み方はいずれも“げんみょういん“のようです。近くの素盞鳴神社宝篋印塔(2007年5月8日記事参照)に意匠、サイズともによく似ています。このほかにも、境内には室町時代と思われる小石仏、石塔残欠がいくつか集積されています。