石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

2008-11-13 21:29:48 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔(その2)

先に紹介した同塔について、『石造美術』12号に田岡香逸氏の詳細な報文と拓本が掲載されていたことに後から気付いたので、拙い小生の紹介記事を補足させていただきます。(ただし、法量値はコンベクスによる実地計測によるため、あえて田岡氏の報告値にあわせて改めません。少々の誤差はやむをえないものとご了解いただきたい。)

材質について、田岡香逸氏は花崗岩製とされている。竿のレリーフについては、西側と南側を除き開敷蓮花と書いたが、正面すなわち北東側のみは開敷蓮花上に円相の平板陽刻がある。円相内に梵字などはない。また、西側と南側は蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮華ないし蕾の蓮華文レリーフと見られる旨を記したが、これは南側が二茎蓮華、西側が一茎蓮華で、ともに水平方向に波状に蛇行する突帯(水面を表現したと思われる)からS字状に蛇行しながら立ち上がる茎の表現がおもしろく、先端に一茎蓮華は開花蓮、二茎蓮華は開花蓮と蕾を配している。また、中台側面は二区に枠取りし、西側のみ格狭間を入れ、残りの面は格狭間を入れず、西側から右回りに斜十字文、各輪郭内に2片づつの散蓮華、開敷蓮華、2片散蓮華、外側に向けて上がる七条の斜線、四菱文、開敷蓮華の順に配されている。変化に富む凝った文様であるが、その配置に規則性がない点は注意すべきである。田岡氏は造立年代について、一、二茎蓮華の蛇行する茎、散蓮華の構図などを退化形式とされ、摂津小童寺(未見・詳細不明)無縫塔との類似性を指摘され、室町時代初め、1415年頃のものと推定されている。ただし、小童寺塔について川勝博士は南北朝時代と推定されているようで、見解が分かれるようである。

参考:田岡香逸「南山城の石造美術5―綴喜郡宇治田原町―」『石造美術』12号

いつもながら詳細にわたる田岡氏の調査報文のクオリティの高さには感心します。28年を経た今日もいささかも衰えることがありません。まさに金石のごとき「金字塔」です。欲をいうときりがありませんが実測図があればほとんど完璧です。改めて田岡氏の学恩に感謝するとともに、またしても自らの情報不足と不勉強に閉口し嘆息する小生であります、ハイ。ウーン近々再訪しないといけないですね。田岡氏は15世紀初めに下ると考えられていますが、小生はやはり14世紀後半頃とみています。


京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔

2008-11-13 00:47:02 | 京都府

京都府 綴喜郡宇治田原町荒木字天皇 大宮神社宝篋印塔ほか

宇治田原町の役場がある荒木の集落を見下ろす山腹に鎮座する大宮神社の境内、本殿向かって左手、石柵で囲まれた宝篋印塔が立っている。01切石を組み合わせた基壇上に載せてあるが、恐らくこの基壇は後補と思われる。原位置を保っているか否かは不詳だが、南西にやや下がった場所にある中央公民館付近は「山瀧寺」という寺院跡で創建は白鳳時代に遡り古代から中世を通じて栄えたらしく、近世に入って次第に寺勢を失っていったようで、関連する「大御堂」という大規模な建築物が昭和初期まで建っていた。この寺院との関連も考えられる。02_2花崗岩製で塔高約170cm、基礎は幅約52.5cm、側面高約28cmと高さに比して幅が大きく安定した形状を示す。側面は四面とも輪郭を巻き内に格狭間を入れ、その中を三茎蓮華のレリーフで飾っている。輪郭の彫りは極めて浅く、ほとんど線刻に近い。輪郭の幅は左右の束が約8~8.5cmに対し上下は約4cmと左右が広く上下に狭い。格狭間は全体にやや小さく、脚部が比較的高くほぼ垂直に立ち上がるが形状的には概ね整っている。格狭間内の三茎蓮華は各側面とも格狭間内いっぱいに大きく表され、宝瓶はなく直接脚部の間から立ち上げる茎部は太くしっかりしたもので左右の葉部が若干内向き加減でほぼシンメトリな図案である。基礎上は2段式で側面からの入りが深い。塔身は幅約24cm、高さ約25cm。金剛界四仏の種子を蓮華座上の月輪内に薬研彫している。概ね端正な書体であるが雄渾なタッチという程ではない。笠は軒幅約50cm、上7段、下2段で下2段が少し薄い。軒は厚さ約7cmとやや厚めである。隅飾は軒から垂直に立ち上がり軒との区別は見られない。基底部の幅約14cm、軒上端からの高さは約21cmあって背面は4段目までと癒着して5段目とほぼ同じ高さに合わせている。04全体に縦長の隅飾で側面は薄い輪郭を巻く二弧式。各側面とも輪郭内には蓮華座上の円相を平板に陽刻し、円相内に「アク」種子を陰刻しているというが肉眼でははっきり確認できない。輪郭はこの円相を囲むように枠取りされて上の弧が高くカプスの位置が非常に低い。相輪は高さ約61cm、伏鉢、上下の請花、宝珠の各部ともが低く、九輪の各輪は幅広で凹部の彫りは深い。光線の具合もあり判りにくいが請花は上下とも覆輪付の単弁のように見える。また、相輪は若干色調や質感が異なるようにも見える。昭和47年の川勝博士の「京都の石造美術」に、この相輪は近年発見されたとあるので、そのせいかもしれない。さて、本塔で特筆すべきは基礎の三茎蓮華文である。これはいわゆる近江式装飾文様とされるもので、滋賀県内に普遍的に見られる石造物の意匠表現である。西日本を中心に全国に広くその例が分布するが、数量的には近江03が他を圧倒している。現在のところその在銘最古の遺品は寛元4年(1246年)銘の近江八幡市安養寺層塔であり、川勝政太郎博士や田岡香逸氏らの研究によりその発祥もまた近江に求められることが定説となっている。南山城にあって大津や信楽方面、あるいは大和にも通じる交通の要衝である宇治田原にこの近江式装飾文様を見ることに意義があり、石造物の文化圏やその交わりを考える上で欠かすことのできない事例として早く川勝博士が注目された宝篋印塔である。川勝博士、田岡氏ともに高島市安曇川の田中神社の永仁2年(1294年)銘の宝篋印塔との類似性を指摘されている。確かに両者がよく似ているように思われる。低く安定感があって側面からの奥行きのある基礎、軒から直接立ち上がる縦長の隅飾など総じて古調を示し、鎌倉時代後期初め、13世紀末から14世紀初頭頃の造立として大過ないものと思われる。各部揃っている点も貴重。町指定文化財。なお、境内東側に文殊曼荼羅の石碑と称するものがある。蓮華座上の月輪内を大きく陰刻し中央に同じ大きさの「マン」(文殊?)、左に「サ」(聖観音?)、右に「キリーク」(阿弥陀or千手観音?)を並べて薬研彫りした自然石碑で、何となくたどたどしい彫りの線や表面の風化があまり進んでいない点が少し気になるものの、蓮華座の形状は古調を示すことから中世に遡る可能性がある。このような種子の組み合わせが何を意味するのかよくわからないが、あるいは神社の本地仏を表したものではないだろうか。後考を俟つものである。

参考:川勝政太郎 「京都の石造美術」105~107ページ

   田岡香逸 「南山城の石造美術3―金胎寺・大宮神社・深広寺―」『石造美術』10号

社殿前東側の大きい御手洗石は山瀧寺の塔の心礎と伝えられているようです。真偽は不明ですが肯ける大きさと形状を示すものです。ただし背面にある大同2年…の刻銘は書体から後刻と判断されます、ハイ。