京都府 綴喜郡宇治田原町奥山田字岳谷 遍照院無縫塔
旧茶屋村地区は宇治田原町でも奥まった所で、信楽方面に通じる谷あいの山村である。岳谷の集落の南、集落を見下ろす小高い山腹に真言宗遍照院がある。天正10年6月、本能寺の変の報を受けた徳川家康が堺から本国三河へ急いで引き返す途中ここで休息したと伝えられる。お寺の背後の尾根上に墓地があり、墓地の入口近くに立派な重制の無縫塔が立っている。高さ約90cm弱、石材は表面的な観察では特定しかねる。花崗岩かもしれないがきめの細かい砂岩ないし安山岩の可能性もある。この点は要確認、後考を俟ちたい。平らな切石の基壇を2重に備えているが、一番下にある前後2枚からなる基壇は、手前に供花用と思しき穴が左右にあって、恐らく近世の後補と思われる。その上の平らな方形の切石は幅・奥行とも約42cm、高さ約11cmの一枚石で、幅が基礎とそろえてあることから、当初からの基壇ではないかと考えられる。どちらの基壇も装飾は何ら施されていない。重制無縫塔というのは、基壇、基礎、竿、中台、請花をしつらえて卵形の塔身を載せる手の込んだ無縫塔で、遍照院塔もこの構造形式を備えており、基礎、竿、中台、請花、塔身が各別石となる。基礎は平面八角形で幅約41cm、高さ約20cm。各側面を枠取して内部に格狭間を入れ、上面には小花付複弁反花を配して上端に高さ約1.5cmの低い竿受座を刻んでいる。反花は各辺中央に主弁が、各コーナーに小花がくるようになっており、構造上小花は裾が開く大振りなものとなっている。主弁は覆輪部分を幅広にとって、弁央部分の立ち上がりを比較的急に仕上げて抑揚感がある。また、基礎下端は平坦で持ち送りの脚部は見られない。各側面は幅約17cm、高さ約12.5cmで割合高さがある。 竿は高さ約23cmの八角柱で、西側と南側を除く各面中央やや下寄りに開敷蓮華のレリーフがある。西側と南側だけは光線の加減もあり、採拓もしていないのではっきり確認できないが、恐らく蛇行して立ち上がる2ないし3本の茎部を伴う開敷蓮花ないし蕾の蓮華文と思われるレリーフになっている。中台も平面八角形で、幅約37cm、高さ約13cm。下端に高さ約1cmの受座を設けて竿を受け、そこから単弁の請花で側面につなげており、各辺中央と左右のコーナーに主弁を配し、間に小花を置く。側面は各面とも二区に枠取し、輪郭内に格狭間、斜連子、斜十字、花菱文をそれぞれ1面ずつ、散蓮華、開敷蓮花を各2面ずつ飾っているというが、肉眼では全てを確認することができない。中台上面は中央の円形の低い受座を囲むように複弁反花を丸く平らに彫り出している。さらにこの受座の上に平面円形の鉢状の請花を載せている。請花は径約30.5cm、高さ約10.5cm。沈線で輪郭を縁取った覆輪付の大振りな単弁で、主弁の間には小花を添えている。請花上端には低い受座を設け塔身を置く。塔身は径約27cm、高さ約15cmで下端を水平にカットした卵型で裾のすぼまり感も適度で全体に直線的なところのない整った曲線を描く。無銘。もっともこの種の古い重制無縫塔に紀年銘があることはむしろ稀である。造立時期については、整った塔身の形状は古調を示すものの、基礎側面の高さ、中台側面に見られる斜十字文などの直線を用いた文様意匠、反花や請花の意匠表現などを考慮すると、概ね14世紀後半頃の造立と推定される。古い重制の無縫塔は石燈籠などと並び最も手の込んだ細かい意匠と構造を持つ石造物で、近世以降に増加する単制の無縫塔のようにポピュラーなものではなく、禅宗系の高僧の墓塔として採用されるものである。総じて丁寧な彫成と凝った細部を持つ本塔の出来映えを考えれば、さぞかし名のある開山クラスの高僧の墓塔であったことは想像に難くない。ただし遍照院は元亀年間の創建とされることから、その前身寺院の遺物か近隣の古い寺院からの搬入品と思われる。町指定文化財。
参考:嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』NO.83
この種の無縫塔としては一般的なサイズですが、1m足らず小さい石塔ながら、細かいところまで凝った意匠表現は流石です。それにしても塔身を受ける請花の覆輪沈線は弁形の側線から弁先の尖りに向かう曲線のふくよかさを打ち消して、何というか、粗野で剣呑な印象を与え、本来あるべき塔全体の温雅さを損なっているように感じられます。いかがでしょうか?