京都市 左京区大原大長瀬町 大長瀬町公民館宝篋印塔
大原大長瀬町に入り、国道367号と平行する旧街道を北の来迎院町に向かうと、著名な三千院の方に上がっていく道が、梅宮神社のところでY字状の三叉路で東に分かれる。その少し手前、観光客向けの店が並ぶ間の狭い坂道を東に20mばかり登ると大長瀬町の公民館がある。大原郵便局の南、直線距離にして約100mのところ、街道からは高低差もあり、目立たない場所で、土地の人に尋ねないとちょっと分からない場所である。南面する公民館の東側、法面の下に石積で区画し周囲より高く整形した一画があり、その頂に宝篋印塔が2基南北に並んでいる。 石積の南側には、隣接して高さ1m余りの平べったい自然石の広い面に、線刻した蓮華座上を舟型にくぼめ地蔵菩薩立像を薄肉彫りにした室町時代風の石仏がある。周囲にはほかにも小形の石仏類や五輪塔の残欠が何点か集積されている。ここにはもともと無住の旧堂があり、川勝博士は『拾遺都名所図会』や『山州名跡志』にある真光寺ではないかとされている。廃寺となったのはそんなに昔のことではないようである。件の旧堂はとうに撤去され、今は真新しい公会所に建て替えられている。宝篋印塔は南北ともに花崗岩製で、各々基礎の下に、当初からのものかどうかは不明だが切石を方形に組んだ基壇があるのがわかる。南塔は高さ約157cm、基礎は上2段式で、幅に対する高さの比率は小さい方で、側面は、背面にあたる東側のみ素面とし、残る3面は、輪郭を巻かず直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は側線の曲線にふくよかさにやや欠け、肩がさがり気味の形状で、下端は水平に切り離し糸底となる。格狭間内は平らで素面とする。正面(西側)の格狭間の左右に「元亨元年(1321年)辛酉三月十五日/一結衆等敬白」と刻銘があるのが肉眼でも容易に観察できる。塔身は西側に蓮華座と月輪を陰刻し、月輪内にキリークを薬研彫する以外素面である。種子の書体はしっかりしているが、文字が小さく、力強さがない。笠は上6段下2段で、笠下の2段が薄い。軒と区別しほぼ直立する隅飾りは二弧輪郭付きで輪郭の幅がかなり狭い。輪郭内には種子「バ」を、東側を除く6箇所に直接陰刻するようだが、肉眼でははっきり確認できない。「バ」の意味するところについては川勝博士も考え及ばないとされている。「バ」は水天、破軍星を示すが、儀軌的に考えにくく、よく似た金剛界大日如来を示す「バン」の可能性もある。不明とするしかなく、拓本をとるなど詳細な検討を待ちたい。相輪は後補とされている。後補のわりに風化が進んでおり、宝珠と上請花は異形だがそれ以下の部分にあまり違和感はない。途中で折れており、相輪上部のみが後補の可能性もあるかもしれない。北塔は、高さ約144cm、基礎の幅に対する高さの比率は小さく、非常に低く安定感がある。上端は単弁反花式で、その蓮弁は傾斜が緩く抑揚感のないタイプ。弁先が側面からかなり入っている。平べったい印象の反花で、上端の塔身受も薄い。側面は背面に当たる東側を除いて3面に輪郭を設けずに直接格狭間を彫りくぼめている。格狭間は南塔より大きく描かれ、いっそう肩が下がり加減だが側辺の曲線はむしろややふくよかである。格狭間の脚部は基礎の下端に続いており、糸底にならない。塔身は側面に月輪や蓮華座を刻まず直接胎蔵界四仏の種子を薬研彫する。文字は南塔よりも小さく一層力強さに欠ける。笠や基礎の塔身受座に比してやや小さ過ぎるように見え後補の可能性も残る。笠は上6段下2段で、軒と区別し直線的に外反する隅飾は二弧輪郭付き。南塔に比べ輪郭の幅が太い。南塔と同様に輪郭内に「バ」を陰刻し、こちらは東側二面にも刻まれ、しかも各面とも左右を鏡面対称にしているらしく、向かって右側が通常、左側を裏文字とするようだが、肉眼でははっきり確認できない。相輪はやはり後補とされ、南塔同様折れた先端部分が異形で、南塔の相輪より風化が進んでいる。基礎背面には「享保十五/初冬勧化/本邑男女/再興両部/宝塔荘厳/覚地者也/幻住無光/雷峯叟記」の8行の刻銘があり、1730年、無光という住職が村人に寄付を勧めて両塔を再興した趣旨の後刻である。川勝博士のおっしゃるように、相輪など後補の可能性のある部分がこの時整えられたのだろう。南塔は、輪郭のない格狭間、笠下の薄い2段と、塔身の一面にのみキリークを刻む点が珍しい。元亨元年、一結衆による造立銘がある点は貴重。北塔は隅飾の種子の意匠が珍しい。基礎、笠の低さを古調と評価すれば北塔の方が古いが、川勝博士は隅飾の外反度合が南塔よりきつい点や、塔身の弱い種子、基礎の反花などに新しい要素を指摘され南塔より後出で南北朝初期ごろと推定されている。
参考:川勝政太郎 「大原大長瀬町と福知山観興禅寺の宝篋印塔」 『史迹と美術』400号
川勝政太郎 『京都の石造美術』 116~119ページ