滋賀県 栗東市蜂屋 蜂屋共同墓地宝塔
名神高速道路栗東インターチェンジと国道1号線、8号線の合流点の北方にあり、さすがに昔も今も交通の要衝でならす栗東だけあって周辺は国道沿いに開発が進み、昔ながらの田園風景は急速に失われつつある。済生会滋賀県病院の大きい建物の北側にひっそりと小さい墓地がある。隣地は病院の駐車場となっているが、西側から北側にかけて水田が広がり、田んぼの中にポツンと墓地があった様子がよくわかる。墓地は蜂屋と大橋にまたがっており、両集落の共同墓地だという。墓地の中央、葬送儀礼を行なう棺台と香花台のある覆屋根施設の北東側に接続する小祠内に目を見張るような立派な宝塔がある。 花崗岩製で、現高目測約2m。輝くような白っぽい石質が魅力をいっそう際立たせている。手前に立つ方柱状の献花立一対と六字名号碑、それに塔身下の基礎は近世から現代のものである。後補の基礎の下にあるのが本来の基礎と思われ、背面(確認できない)を除いて素面で、幅に対する高さの比は小さく安定感のある形状で、下方にやや欠損がみられる。塔身との間に後補の基礎が挟みこまれ、コンクリートで上下の隙間を固めてある。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)や匂欄はない。軸部は背が高く、上下がすぼまり中央が太い胴の張った円筒形で、側面の描く曲線は実にスムーズで直線的なところは全くない。軸部上端はほぼ水平に切って饅頭型部を設けず首部に続く。軸部側面の絶妙な曲線を断ち切って対照的な直線で首部につなげていく造形は秀逸で、肩の縁の角はシャープで美しい。首部は比較的太く立ち上がり、上にいくに従ってかなり急に太さを減じていく。塔身のフォルム、特に軸部上端から首部にかけての処理は守山市の志那惣社神社塔によく似ている。軸部正面に舟形光背を彫り沈め、その中に蓮華座に座す如来像を大きく半肉彫している。摩滅が比較的少なく、肉髻はハッキリ確認でき首の辺りには三道らしき線も見える。 胸のあたりに差し上げた両手先は離れ、定印や合掌印でないことも見て取れる。転法輪印と思われる。釈迦ないし阿弥陀如来であろう。笠は全体に平べったく、屋根の勾配、軒の反りともに緩く伸びやかな印象で、軒先はやや厚く全体に反って真反に近い。笠裏は素面で垂木型は認められない。露盤や四注の隅降棟も明確でない。降棟は狭く低いそれらしい突帯のようなものがあるようにも見える。相輪は摩滅が激しく、祠外からの観察では確認できないが九輪の上部2輪と上請花、宝珠ではないかと思われ、宝珠は下半を切り落とした蕾状で、本来のものか否か不明だが、祠外からのこの観察が正しければ基礎から相輪まで、どの部分をとっても古風で、造立年代は、紀年銘が確認できない以上不詳とするしかないが、鎌倉後期に下る要素はない。平らで低い笠の伸びやかな軒、真反に近い軒先、 背の高い塔身の形状、素面で低い基礎、押しつぶしたような宝珠の形状などから鎌倉時代中期、建長3年(1251年)銘の大吉寺塔や志那惣社神社塔と相前後する13世紀半ばから後半の造立と推定したい。近江の宝塔の中でも屈指の古さと美しさを併せ持つ素晴らしい宝塔である。とりわけ塔身から笠にかけて醸し出される雰囲気には石造宝塔ならではの格別の味わいがある。なお、笠は五輪塔の火輪の可能性も否定できないが、田岡香逸氏の報文によれば、「屋根の上端も水平に切り枘穴の痕跡もとどめていない」とのことであり、火輪にしては背が低く過ぎることも考慮すれば田岡氏もおっしゃるように、宝塔のものと見るほかないだろう。また、田岡氏は、露盤を造りつけた相輪を載せていたものと推定され(相輪を除く古い部分の残存高は約153cm)、元は8尺塔であろうとされる。ちなみに軸部の胴張り形状、笠の屋だるみがやや反転すること、如来坐像の像容から1295年ごろのものと推定されている。弘安8年(1285年)銘の最勝寺塔の構造形式の整備化が進んだ細部意匠と比較して10年も新しいものとは考えにくいがいかがであろうか。
蜂屋集落の東寄り、西方寺前の小川べりには仁治2年(1241年)銘の石仏があり、ぜひあわせて見学されることをお勧めしたい。
参考:田岡香逸「近江野洲町・栗東町の石造美術(後)」『民俗文化』115号