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石造美術紀行

石造美術の探訪記

各部の名称などについて(その2)

2008-10-16 01:22:07 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて(その2)

次に格狭間(こうざま)について、石造物に限らず、木造の建造物や金属工芸品、特に仏堂などの須弥壇などによく見られます。11_2川勝博士によると「曲線の集合より成る装飾彫刻で、原則として物の台座に付けられる」とされ、起源についての確実な説はないようですが「台座の束の両側に付けられた持送りの上部が伸びて連絡し、二つの持送りによって包まれた形が格狭間を生み出したと考えるのが自然」とされています。古くは法隆寺の玉虫の厨子や正倉院の器物などの下端に見られるようなものが祖形だと考えられています。石造物というよりは工芸品類の台脚の補強材ようなものが発展した意匠と小生も理解しています。ちなみに奈良国立博物館の正倉院展目録の用語解説では「机の脚部や器物の床脚等では、しばしば脚を固定するための持送りという材がつけられるが、この持送りには牙状の突起が刳られることが多い。この突起付きの持ち送りが作る間を格狭間と12_2称する。」とあります。石造ではありませんが有名な中尊寺金色堂の内陣須弥壇の側面を見ると、壇上積み基壇と同じ形になって、羽目には豪壮な格狭間があって、格狭間の内側には孔雀のレリーフがあしらわれています。格狭間に囲まれた部分は本来は空洞であるべきですが、羽目板によって塞がれ、すでに台の脚とその補強材という意味合いは失われ、一種の装飾になっています。石造美術にみる格狭間も同様に、側面の装飾としての意匠と考えることができると思われます。恐らく木造建造物や工芸品の装飾からヒントを得て石造物にも導入された意匠表現ではないかと思います。基礎側面だけに限らず、台座の側面や露盤の13側面などさまざまな場所に大小にかかわらずしばしば見られます。格狭間の形状を見ると、上部は花頭曲線と呼ぶ曲線(=弧)と「牙状の突起」つまり茨(=カプス)と呼ばれるとんがった部分が組み合わさり左右の側線がカーブしながら脚部につながっています。古い格狭間は、曲線にたわんだようなところがなく、茨のとんがりがあまり顕著でないものが多く、側線がスムーズで角14張ったりふくらみ過ぎるところがなく上部の花頭曲線の中央が広くまっすぐ水平に伸びて肩が下がらないものが古く、新しくなるにつれてこうした部分がくずれていく傾向があります。(あくまで傾向で絶対ではありません。)戦国時代頃には子どもが描いたチューリップのような「模様」になってしまいます。さらに、格狭間の内側は彫り沈め、しかも微妙に膨らみをもたせ丁寧に仕上げるものが本格的で、次第に彫りが平板になっていき最後は線刻になってしまいます。大雑把にいうと脚と持ち送りという祖形に近いものが古く、それをきちんと踏まえた装飾であったものが次第に元の意味が忘れられ、単なる模様になっていくと考えると理解しやすいかもしれません。(続く)

写真左上:14世紀後半の例、写真右上:滋賀県蒲生郡日野町比都佐神社宝篋印塔に見られる14世紀初頭の美しい格狭間。さすがに中尊寺金色堂の優美な孔雀には比ぶべくもありませんがここにも格狭間内に孔雀のレリーフがあります。三茎蓮花や開敷蓮花に代表される近江式装飾文様にあって、まさに真打といったところでしょうか。いいです、ハイ。ちなみに比都佐神社に近い伝蒲生貞秀塔の基礎下に組み込まれてしまった宝塔と思しき基礎の孔雀文はさらに一層の優れモノです、ハイ。一方くずれてきた格狭間、写真左下:15世紀後半、写真右下:15世紀中頃、ブロッコリーみたいな変な「模様」になって元の意味がわかってないんじゃないですかといいたくなります。子どもが釘か何かででカリカリ削って落書きしたチューリップじゃないの!といいたくなるようなもっとひどいのもあります。


各部の名称などについて

2008-10-14 00:47:35 | うんちく・小ネタ

各部の名称などについて

五輪塔を例に説明します。五輪塔本体は上から空輪(くうりん)・風輪(ふうりん)・火輪(かりん)・水輪(すいりん)・地輪(ちりん)の各部から構成されています。五輪塔の場合は基づくところの五大思想から通常このように呼ぶ場合が多いですが、塔としてこれを見る場合、地輪は基礎、水輪が塔身、火輪は笠、風輪は請花、空輪は宝珠に相当するわけです。01_4また、五輪塔では、ほとんどの場合、空輪と風輪が一石彫成されているのであわせて空風輪(くうふうりん)と呼んだりします。石燈籠などでもそうですが、請花と宝珠が重なって上に載る場合、たいてい一石彫成されています。この五輪塔では本体以外に台座と基壇を備えています。しかも基壇の地下には埋納施設があります。台座や基壇は必須のものではなく、基壇まで備え付けているはむしろ稀です。この種の手の込んだ基壇は壇上積み基壇とか壇上積式の基壇と呼ばれます。上部を葛(かずら)、下端を地覆(ちふく)、地覆の上で葛を縦方向に支えるのが束(つか)、葛と地覆、束石に囲まれた面を羽目(はめ)といい、木造建築にも多く石造りの基壇が見られますが、石で出来ているので、いちおうそれぞれ葛石(かずらいし)、地覆石(ちふくいし)、束石(つかいし)、羽目石(はめいし)といいます。この例では見られませんが、羽目石には格狭間が入れられていることもあります。このほかに単に延石を井桁に組んだものや切石を方形に組んだものは特定の呼称はないようで、単に切石積みの基壇とか延石を組んだ基壇などと呼びます。台座は塔本体の基礎を受けるものです。特に奈良県とその周辺では多く見られるものです。側面と受座と傾斜面の3部構成でたいていは複弁の反花(かえりばな)で傾斜面を飾っています。この場合は反花座(かえりばなざ)というようです。反花は主弁と間弁(小花)からなり、4隅の弁(隅弁)が主弁になるものと間弁(小花)になるものがあります。奈良県では隅弁が間弁(小花)になるものがほとんどで、京都や滋賀県では隅弁が主弁になる場合が多く見られます。このほか、傾斜面に蓮弁を刻まず、素面のものが稀にあり、これは繰形座(くりがたざ)といいます。02関東では台座の側面を区画して格狭間を入れたりして塔本体との一体感がより強いものになる場合が多いようです。03こうした概念や呼称は基本的に建築史学から来ています。石造美術の泰斗である川勝政太郎博士が師事されたのが古建築史の権威、京都帝大教授の天沼俊一工学博士(1876~1947)だったこともあるようです。天沼博士は明治の終りから大正時代に奈良県技師として古建築を広く調査されましたが、石造物の重要性についてもいち早く着目され、九州の国東半島付近に分布する独特の形式をもった宝塔を国東塔と名付けられたのも天沼博士でした。また特に石燈籠について、初めて学問的な体系づけを試みられました。八戸成蟲樓(「はちのへせいちゅうろう」ではなく「やっといまごろう」と読むようです)というおもしろいペンネームを使われることもありました。0406 石造物が建造物として扱われることが多いのも、こうした戦前の建築史からのアプローチが今でも生きているからといえます。重要なことは、石造美術、特に石塔の場合、塔本体はいうまでもなく台座や基壇にしてもそうですが、構造的に不可分な付帯物や地下の埋納構造なども含め一体的に捉えなければならないという点、さらに塔本体の形のおもしろさや美しさだけではなく、さまざまな情報を提供してくれる資料としての役割や信仰の対象であることを忘れず、なるべく総合的に扱うことだと思います。(続く)

写真上、中右:山添村大西極楽寺五輪塔、写真中左:天理市長岳寺五智墓五輪塔、写真下左:奈良市西大寺奥の院五輪塔、写真下右:桜井市粟殿墓地五輪塔(いずれも奈良県)

石造物が建造物として扱われることから生じる不都合を耳にすることがあります。特に石塔の場合、構造的に不可分なものも含め一体的に捉えなければならないものです。モノ的な扱いをすればそうした一体構造から本体だけを切り離して扱えるわけですが、それを許せば、高値で取引され、売り飛ばされて古美術収集家の庭に並べられるようなことを是認することにつながります。しかし、そうしたことが断じて許されないのは古建築だって同じです。極端な例かもしれませんが、法隆寺の五重塔は、塔本体の重要性だけでなく、それが現に法隆寺に建っているからこそ、その価値が高いのではないでしょうか。対象を理解し分析検討し情報発信していく上で大切なこと、そして保護保存を考えていく上で大切なことが何かを踏み外さないということが重要で、物を言わない石造美術は扱う側の心得次第でどのようにもなってしまう。その意味からは制度の問題というよりも運用の問題のような気がしています。門外者が軽率のそしりを免れないかもしれませんが、そういう気がします。

はじめてから記事がまもなく150に達するわけですが、基本的な用語など、一般にはわかりにくいこともあると思われます。いまさらながらですが、念のためご説明しておこうと決めました。その道のエキスパートな諸兄には一笑に付されると思いますが、お許しください。参考図書は後でまとめて記載します。また、錯誤や勘違い等があればご叱正をお願いする次第です、ハイ。(写真中の文字が少し小さいですが、画像をクリックすると少し大きく表示されます。)


近江には五輪塔が少ないのか?

2007-09-15 07:59:32 | うんちく・小ネタ

近江には五輪塔が少ないのか?

近江は石造美術の宝庫である。中世の石造宝篋印塔や石灯籠、石造宝塔がたくさんあることについては、京都や奈良を凌ぎ全国随一といっても過言ではない。一方、一般的に古く立派な五輪塔は少ないとされている。しかし、このことは、ともすれば近江に五輪塔は少ないという誤解を招きかねない。結論、近江には五輪塔が多いのである。鎌倉様式の大形の五輪塔が、宝篋印塔や宝塔などに比べると多くないというのが正しい。22_2 「多くない」=「少ない」ではない。また、小形の五輪塔や一石五輪塔は、千や万の単位で集積された、旧蒲生町の石塔寺や旧愛東町引接寺、大津市の西教寺はいうに及ばず、近江の寺や墓地などを巡ると至る所に数多く見られる。その数はまったく奈良、京都にひけを取らない。いくら近江に宝篋印塔や宝塔が多いといっても絶対数では五輪塔にはるかに及ばないのである。01_13少ないとされる鎌倉~南北朝時代の大形五輪塔にしても、実際に歩いてみると残欠も含めればその候補は案外多いことがわかるし、在銘にしても5指に余るだろう。 13世紀~14世紀代の在銘の五輪塔がいったいどのくらいあるか府県単位や旧国(摂津、尾張など昔の行政区分)単位で指折り考えてみればわかる。近江は十分にアベレージをクリアしているだろう。要するに石造美術最盛期の宝篋印塔や宝塔に比べ五輪塔が相対的に少ないというに過ぎない。宝篋印塔や宝塔、石灯籠が段違いに多いため、五輪塔も平均以上に存在しているにもかかわらず埋没して捉えられているのである。(層塔も似たような状況)

五輪塔を例に述べたが、結局こうした数量的な地域特徴も含め、石造美術の種別や構造形式、石材といった各属性を把握分析し、その上で地理的・時期的分布の濃淡や重なりぐあい(位相とでもいうのだろうか)を解明しその背景を考察することが、単に美術史にとどまらず祖先たちの精神面や経済面も含めて中世日本の社会構造を理解することにつながるのだろう。

写真(いずれも大形の優品ながら紀年銘はない)

左:西浅井町大浦観音堂五輪塔(13世紀前半~中頃)近江最古の五輪塔のひとつとして知られています。近江の五輪塔を語る場合これは外せないでしょう。

右:東近江市勝堂墓地(14世紀中頃)こっちはそれほど有名じゃないけど結構いけてます。


宝篋印塔について(その3)

2007-05-04 12:05:50 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について(その3)

この宝篋印陀羅尼経と銭弘俶が作らせた金属製小塔を結びつけるものとして道喜という僧侶が康保2年(965年)に書いたとされる「宝篋印経記」をあげなければならない。これは経典ではなく体験談的なエピソード記録文で原文漢文体。扶桑略記に記載があり、京都栂尾高山寺や河内長野の金剛寺など各地に伝わる宝篋印陀羅尼経の本文に付属してワンセットで書写されたものが残されているようで、薮田嘉一郎氏はこれらを元に定本化を試みられている。それによると「去応和元年、遊右扶風、干時肥前国刺史称唐物出一基銅塔示我。高九寸余、四面鋳鏤仏菩薩像、徳宇四角、上有龕形如馬耳、内亦有仏菩薩像、大如棗核。捧持瞻視之頃、自塔中一嚢落、開見有一経、其端紙注云。天下都元帥呉越国王銭弘俶国王揩本宝篋印経八万四千巻之内安宝塔之中供養廻向已畢顕徳三年丙辰歳記也。文字小細老眼難見、即雇一僧令写大字一往視之。文字落誤不足眈読、然亦粗見経趣。…中略…問弘俶意。於是刺史答曰、由无願文其意難知、但当州沙門日延、天慶中入唐、天暦の杪帰来、即称唐物付嘱其塔之次談云。…中略…爰有一僧告云。汝願造塔書宝篋印経安其中供養香華、…中略…于時弘俶思阿育王昔事、鋳八万四千塔、揩比経毎塔入之。是其一本也云々。…後略」とあり、応和元年(961年)に今の佐賀県で、中国からの招来品という銅製の塔を国守から見せられた時の記録であることがわかる。戦いに明け暮れ残虐行為にも手を染めた銭弘俶が心身耗弱状態に陥り、僧の勧めに従い阿育王の故事に倣って宝篋印経を納めた八万四千の塔を鋳造、功徳により救われたというエピソードとともに、天暦年間の終わりごろ(957年ごろ)中国から帰った日延なる僧がその塔の一部を招来し、国守がもらったのだというのである。四角い屋蓋部に馬耳の如き龕形があるという旨の記述の内、隅飾を示すものと思われる「如馬耳」という言葉が早くも使用されていることは実におもしろい。(続く)


宝篋印塔について(その2)

2007-04-18 23:27:47 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について(その2)

宝篋印塔(今更ながらですがホウキョウイントウと読みます)の「篋」は小箱のことである。宝篋とは宝の小箱(七宝の貴い小さい方形の容器)を意味するが、この変わった名前はどこから来ているかというと、宝篋印陀羅尼経(「陀羅尼」と「神咒」は同義)という密教系の経典から来ている。正式には「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」というらしい。宝篋印塔とは、つまりこの経典を納める塔ということになる。この宝篋印陀羅尼経は遅くとも9世紀初頭までには唐に伝来し有名な不空が漢訳しており、早く空海や円仁・円珍により東密、台密ともにわが国に招来していた密教経典である。それは石造宝篋印塔が成立したとされる13世紀前半よりもずっと古く平安前期にまで遡る。では、宝篋印陀羅尼経と「宝篋印塔」と呼ばれるあの隅飾をもった四角い塔がどのように結びついたのだろうか。キーワードになってくるのが阿育王の故事、そして銭弘俶の八万四千塔なのである。一方、隅飾をもった四角い塔形は、実はずっと古く、中国でも北斉ごろから、日本でも法隆寺金堂の多聞天が捧げ持つ小塔や長谷寺の銅版法華説相図など飛鳥~白鳳時代に見ることができる。これらは「原始宝篋印塔」として扱われるが、石造宝篋印塔との直接の関連はいまひとつ明らかでない。(続く)


宝篋印塔について

2007-04-15 23:50:30 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について

宝篋印塔は五輪塔に次いで最もポピュラーな石塔のひとつである。鎌倉時代から中世を通じ盛んに造立され、江戸時代以降も衰えることなく各地で造立されている。 現代の墓地でも凝った墓石に採用されているのをよく見かける。

01_6 宝篋印塔について、川勝政太郎博士は『石造美術入門』で次のように説明されている。「宝篋印塔は、平面方形の一重の塔で、笠の4隅に隅飾の突起を作り、笠上部には数段の段形とする。密教系の塔で、鎌倉前期から石造の遺品が出現し、やがて宗派を越えて、わが国石塔の主流のひとつとして、五輪塔と並んで流行した。この塔形のもとは、わが国平安中期のころ、中国の呉越王銭弘俶が作った8万4千塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)にある。塔身にはやはり密教の四仏をあらわすものが多い。宝篋印塔という名称は鎌倉時代から行なわれている。これは塔中に宝篋印神咒経を納めることから出た名であるが、法華経などを納めた場合もある。…後14略」 

現在知られている在銘最古のものは、杉浦丘園氏から譲られ川勝博士が所蔵されていた鎌倉市某ヤグラ出土の宝治2年(1248)塔で、大形のものでは奈良県生駒市有里輿山墓地の正元元年(1259)塔が最古である。無銘では、京都梅ヶ畑栂尾町の高山寺明恵上人廟所の高山寺塔が暦仁2年(1239)の造立で最古とされ、 また旧久我妙真寺塔をわが国石造宝篋印塔の初現とする説も有力である。

わが国の石造宝篋印塔の起源については、古くから諸説があり、近年再び議論が活発化している。詳しくは追って説明したいが、確かに言えるのは、奈良時代の遺品が残る層塔や平安後期に出現した宝塔や五輪塔に比べ、その初現は鎌倉時代であり、ポピュラーな石塔の中では比較的新参者であるという点である。(続く)

写真上:完存する中世の宝篋印塔(滋賀県多賀町高源寺 南北朝)

写真下:高山寺式宝篋印塔(京都市右京区梅ヶ畑栂尾高山寺 鎌倉中期)


五輪塔について

2007-01-23 00:25:13 | うんちく・小ネタ

Dscf2959 五輪塔はもっともポピュラーな石塔である。現在でもたいていの墓地で目にすることができる。川勝博士は五輪塔について、次のように述べておられる。「密教において創始された塔形で、下方から方・円・三角・半月・団形からなる五輪とし、これを地・水・火・風・空の五大を表すものとする。」「下から方形の地輪、球形の水輪、宝形造の火輪、半球形の風輪、宝珠形の空輪を積み上げるのが、五輪塔の一般的形式である。」「方・円・三角・半月・団形から構成されるとは教理上からの説明であって、石造の場合、忠実に三角の火輪にしたのも、まれには存在するが、大概は建築風になって宝形造としている。また、空輪も団形のものが古遺品に間々あるが、これも宝珠形にしたものが多い。~中略~五輪石塔通常の形式にあっては、基礎(地)、塔身(水)、笠(火)、請花(風)、宝珠(空)の如き外観を呈しているわけである。構造としては、風・空輪を一石で作り、残りの各輪をそれぞれ別石で作り、これらを積上げるのが普通であるが、中には~中略~地・水輪を一石、火輪以上を一石に作り、二石構成のものや、全部を一石彫成にした例もある。」ここで“通常の形式”というのは、空風輪、火、水、地各輪の四石構成のものをいう。他にも空風火を一石で作り、地水輪を各別石とした三石構成もあり、構成石材数を冠して“四石五輪塔”とか“三石組み合わせ式の五輪塔”などと呼ぶこともある。また、特に一石からなるものは、室町時代以降に流行する小型のものを“一石五輪塔”とい03い、鎌倉時代以前の大型のものは便宜上“一石彫成五輪塔”と呼んで区別する。五大とは、宇宙の万物を構成する5大元素である地・水・火・風・空をいい、こうした世界観を説く五大思想の源流は中国・インドまで遡るが、五輪塔としての明確な形態を持つ古遺品はインドや中国で発見されていない。したがって五輪塔は我国で独自に発展を遂げたものとの説が一般的である。また、五輪塔形は密教における胎蔵界大日如来の三昧耶形を表し、五輪塔形そのものが大日如来を象徴するとされる。各輪四方に五大の種子をそれぞれ、東方発心・南方修 行・西方菩提・北方涅槃の四門、すなわち「キャ・カ・ラ・バ・ア」、「キャー・Dscf2906_1 カー・ラー・バー・アー」、「ケン・カン・ラン・バン・アン」、「キャク・カク・ラク・バク・アク」を刻むものが本格的とされる。四門種子の省略形や別パターンの種子を刻むものなど、いろいろなバリエーションがあるが、基本的に大日如来信仰を示す種子になっている。その後宗派を超えて広く受容され、弥陀信仰や地蔵信仰などを示すパターンもみられるようになる。なお、漢字で空風火水地と刻むものは比較的新しく、室町時代後期以降に一般化し、江戸時代に流行する。造立年がわかる五輪塔では、いずれも石造ではないが、慶長11年に醍醐寺円光院跡から出土し埋め戻された応徳2年(1085年)銘の石櫃内から発見された銅製五輪塔、康治元年(1142年)銘の静岡県鉄舟寺錫杖頭に小さく鋳出されたもの、兵庫県常福寺の天養元年(1144年)銘の瓦経とセットで出土した瓦質の土製五輪塔が古い。平面的な図像では、京都市の法勝寺跡から出土した軒瓦の瓦当文様として表現された永保3年(1083年)九重大塔造営時のものと推定されるもの、保安3年(1122年)の小塔院建立時のものと推定されるものが古い。長寛2年(1164年)銘の神戸市徳照寺梵鐘や仁安2年(1167年)の厳島神社平家納経にも塔形の図像がみられる。一方、記事としては東寺新造仏具等注進状の康和5年(1103年)に五輪塔と水晶五輪塔が作られた旨の記事、仁安2年(1167年)平信範の日記「兵範記」の近衛基実墓の記事がある。何でも「最古」はキャッチーなので興味は尽きない。ともかくこの種の遺物や史料は今後も発見される可能性があり、さらに年代が遡るかもしれないが、要するに平安時代後期、11世紀終わりごろから12世紀前半ごろには、既に五輪塔の形状についての一定の概念があったと考えてよいことを示している。実際に残る石造五輪塔の最古のものは、仁安4年(1169年)銘の岩手県平泉中尊寺釈尊院塔で、嘉応2年(1170年)と承安2年(1172年)銘の大分県臼杵市中尾塔2基、治承5年(1181年)銘の福島県玉川五輪坊塔が続く。このほか、無銘では奈良県当麻北墓塔、伝・福岡県宝満山出土の京都北村美術館塔などが平安時代終わりごろの作とされる。だいたい平安時代後期(11世紀ごろ)から現れた五輪塔は、他の塔婆同様、もともと功徳を積む作善のための塔であって、必ずしも個人の墓標として認識されていたわけではなく、石造としては鎌倉時代中期(13世紀後半)ごろデザインや構造形式の整備統一が進み(とりわけ奈良市西大寺奥の院の叡尊塔(1290年ごろ造立)は、デザインや構造形式がひとつの完成をみたエポックメイクな五輪塔である)、上流階層や高僧の個人墓塔や惣墓(共同墓地)の総供養塔(墓地の中心に据えられる墓地全体の供養塔や共同納骨塔)のスタイルとして多く採用され、やがて中世を通じて次第に大衆化し、墓塔として大いに流行したと考えられる。

写真は上から

湖南市永照寺塔(延慶4年 典型的な「鎌倉」五輪塔)

東近江市瓦屋寺の一石五輪塔(無銘・室町時代末頃)

東近江市極楽寺塔(無銘・南北朝時代 四門の種子が刻まれる)

参考

川勝政太郎 『石造美術』

薮田嘉一郎編 『五輪塔の起源』

  同 『宝篋印塔の起源続五輪塔の起源』

元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

  同 『五輪塔の研究』平成6年度調査概要報告