石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府南丹市園部町若森庄気谷 普済寺宝篋印塔

2017-01-13 00:01:06 | 宝篋印塔

京都府南丹市園部町若森庄気谷  普済寺宝篋印塔(3基)
普済寺は平安時代に天台寺院として創設されたとも足利尊氏の妹の千草姫が夢想疎石を開山に招いて延文21357)年に創建された臨済寺院とも言われるが明らかではなく、戦国期には退転していたものの、江戸時代初めに領主の援助もあって再興され曹洞宗に改宗したとされる。今に残る禅宗様式の仏殿(重文)の建立が南北朝時代とされることを考えあわせると、臨済・延文2年説に説得力があるように思われるが、千草姫や夢想国師云々は残念ながら伝承の域を出ない。農芸高校に向かう道路で分断された北東側の谷筋に仏殿があるので間違えてしまうが、寺の正面は反対側の南側で、墓地のある旧道から山門をくぐるのが本来の参道と考えられる。「天下太平」「万民普済」の文字がある石柱の立つ参道の左右の石積の上と山門をくぐって左手すぐの天神社の北側に宝篋印塔がある。北側のものは、石積の上に建ち、基礎は上端をむくりのある複弁反花とし、各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。塔身は蓮座上の月輪を伴う金剛界四仏の種子で、種子は小さい。笠は上6段下2段、二弧輪郭付の隅飾には平板陽刻の円相を置く。円相内に梵字は確認できない。相輪は、上請花が覆輪付単弁、下請花は複弁。塔身がやや大きい印象。完存。計測しなかったが目測6尺塔。基礎側面の格狭間は形が整い輪郭内いっぱいに広がって古調を示す。基礎上端のむくり反花はメリハリが効いてよくシェイプアップされている。塔身の種子に力がなく、笠の段形の彫り込みがやや甘くシャープさが足りない印象。石材はキメの細かい花崗岩のように見えるがよくわからない。14世紀中葉から後半頃の造立と思われる(川勝博士『京都の石造美術』によれば塔高188cm、南北朝初期と推定されている)。
参道途中の2基は北側のものより一回り小さく目測5尺塔。どちらも笠が上6段下2段で二弧
輪郭の隅飾で、基礎はむくりのある複弁反花式、塔身は蓮座月輪の金剛界四仏。花崗岩製と思われる。東側のものは、切石基壇を備え、基礎側面の三面は輪郭格狭間。うち一面の格狭間内に開敷蓮華のレリーフらしいものが見られた。これを正面とすると背面は素面。相輪は九輪の4段目を残して折損し、先端は傍らに置かれている。西側のものは、本来一具のものか否か怪しいが、上端に扁平な複弁反花を三方に刻み出した一石作りの厚い基壇に載り、北西の隅飾が欠損する。基礎は四面とも輪郭格狭間。塔身は天地逆になっている。相輪は上請花の下で折損するが上手く継いである。どちらも無銘だが、小型で彫整もやや粗く、造立は14世紀末頃か15世紀前半頃まで降るかもしれない。
参考:川勝政太郎『京都の石造美術』


北側のもの。保存状態良好。塔身がやや大き過ぎるように見える。隅飾内の円相はずいぶん上の方にある。


基礎の格狭間はなかなかいい形。


東側のもの。基礎に開敷蓮華のレリーフと思しいものが見られた。西側のよりこっちの方がやや古いかもしれない。


西側のもの。隅飾の外傾が目立つ。塔身天地逆。台座というか基壇というか何これ?


これが重文の仏殿。禅宗様式の瀟洒な建築。花頭窓と優美な軒先が印象深い。改修工事で面目を一新し、創建当初の外観に戻ったといいます。


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