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石造美術紀行

石造美術の探訪記

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水

2010-02-14 14:22:18 | ひとりごと

和歌山県 有田郡湯浅町栖原 白上明恵上人遺跡笠塔婆(続き)付:京都市 右京区梅ヶ畑栂尾町 高山寺石水院笠塔婆

笠塔婆について、文字どおりに解釈すれば、蓋屋となる笠石を備えた塔婆類は全て笠塔婆である。宝塔や層塔はもとより五輪塔や宝篋印塔などの石塔類の大部分は広義の笠塔婆であり、蓋屋付石仏龕である笠仏や箱仏もその範疇に入る。02_3こうして考えると、その概念を厳密に定義付けることはなかなか困難である。このため、広義の蓋屋付の石造塔婆から他に分類立てができるものを排除していき、残った分類しづらいものを笠塔婆として理解する程度に考えておいてもいいのかもしれない。ただ、「塔婆」は本尊ないし本尊に相当する真言や題目などを中心部分に配する点で単なる「碑」と異なる。京都栂尾の高山寺の境内にも旧蹟に建てられた木製のモニュメントが朽損したため、石造で再建した例がある。こちらも有田郡のものと同様にその旨が笠塔婆に刻まれ、現に残っている。03_4石水院門前に立つものは花崗岩製で、後補の可能性がある基礎と合わせた現高約170cm。塔身上方に小さく「バク」、その左右に「タラーク」、「ウーン」の三尊種子を配し、中央に大きく「石水院」、その下に「建保五秊丁巳/以後数箇秊/住此處後山/号楞伽山」、向かって右側面に「天福元秊癸巳十月三日造立之」、背面に「天福秊中所造立板卒都婆朽損/元亨二年壬戌十二月一日以石造替供/於梵漢之字者任古畢願主比丘尼明」の刻銘があるとされる。注目したいのは、モニュメントとして最初に採用されたものが木製であったという点、そしてその耐久年数、それからより耐久性の高い石造で作り直している点である。高山寺の場合、天福元年(1233年)に建てた木製のものを元亨2年(1322年)に再興している。その間89年、有田郡の場合は嘉禎2年(1236年)と康永3年(1344年)で108年である。この実例を踏まえれば、木製の場合、ある程度大切にされたとしても、だいたい百年くらいが耐久限度のようである。木製品はそのまま朽ち果ててしまうと残らない。ここで述べたのは石造で再建された明恵上人関連のモニュメントに関しての事例であるが、石を使ってこうしたものがたくさん作られるのは、全国に残る石造物の紀年銘に鑑み、やはり従前からいわれてきたように鎌倉時代の後半以降と考えるのが妥当であり、それ以前の鎌倉時代前半以前に石造のものはあったにせよ、仏教信仰に関連したこうしたモニュメント、経塚の標識や、墓標などには木製品がかなり採用されていたと類推することが可能ではないだろうか。平安末期と推定される餓鬼紙子に描かれた昔の墓地にも木製と思われる塔婆が描かれているのが見られることなどもその証左である。01_5そして、その内には明恵上人旧蹟のモニュメントの実例のように、木製から石造に作り直され置き換えられたこともいくらかはあったと思う。仮にそうだとすると無銘の石塔の造立推定年代が蔵骨器などの年代と合わない場合、器の伝世ということも考慮されるべきであるが、木製品の朽損による再建ということも可能性としてありうるということになる。古い時代には、造立対象物のあり方に即して、造立主(施主)の嗜好性と耐久性や経済性などが勘案されて木製、石造が併用されていたのであろう。それがやがて人間が生きた記憶や記録を後世に伝えたいという思いや考え方に基づいて作られる場合に、そこに永遠性を付加したくなるのは当然であるから耐久性ということが重視され始める。そして、中世から近世初期にかけて造塔思想そのものの普及とともに次第にそういう考え方も平行して、あるいは相互に助長し庶民層にまで拡大し、その最たるものである墓標や墓塔として、石造品の量的な需要をますます高める一つの要因になったとは考えられないだろうか。その結果、供給サイドが量的な需要に応えていくために、個々の作品のクオリティに費やすエネルギーを量産の方向に向けざるをえなくなっていき美術的な観点からは「退化」と称されるような特性となって表面化してくるのである。つまり「作品」は「製品」になり、量産化によって品質がどんどん低下し「廉価品」へと変化していくのであろう。一方、木製品は今日でも見られるように盆や年忌などのたびに立てる卒塔婆のように簡便性や経済性という属性が一層クローズアップされた用途に特化され、結局、石造、木製ともにそれぞれの特性に応じてその用途が細分化していくと考えるのである。

写真:高山寺石水院門前の笠塔婆。こちらは花崗岩製で、少し笠が小さい感じです。同様のものがいくつか境内の山中深く残っている由です。写真左下:明治時代に現在の場所に移築された石水院が元あったとされる場所。現在は何もない平坦地になって石段だけが残っています。なお、付近には同じような子院跡と思われる平坦地がたくさん残っています。樹下で座禅を組む有名な明恵上人の姿を描いた絵の舞台がまさにこの山中だったことを考えると感慨深いものがあります。明恵上人は夢記を残され心理学の方面でも有名な方です。そのストイックな信仰の姿勢はもとよりですが、反面何というかちょっとシニカルなところがあって非常に人間的な魅力に溢れる人物です。貞慶上人と並ぶ南都系仏教界のエースで東大寺華厳宗の学頭。密教に加え、禅と戒律にも造詣深く、光明真言の土砂加持を研究されたりしています。また、専修念仏を痛烈に批判されたことでも知られています。一方歌心豊かで短歌も多く残された容姿端麗な方だったらしいです。小生などは「あかあかやあかあか・・・月」の歌が気に入っています。かの時代にこんな歌を作られる感性に驚きを禁じえません。それから高山寺といえば有名な「高山寺式」宝篋印塔を忘れるわけにはいきませんが、上人廟所の一画にあり、残念ながら立入が制限されて至近距離までは近づけません。


川勝博士の学恩に感謝し合掌

2009-04-01 09:26:39 | ひとりごと

川勝博士の学恩に感謝し合掌 (ひとりごとです)

京都市上京区寺町通今出川上ル2丁目鶴山町の本満寺を訪ねました。清浄感のある落ち着いた雰囲気のお寺で、日蓮宗の本山。近衛家との縁が深く、元々は今出川新町付近にあったとされ元本満寺の地名も残っているとのことです。天文法華の乱による回禄の後復興、天文8年に現在地に移転したとも天正年間末頃の豊臣秀吉による都市整理で移転したとも言われているようです。01本堂の脇には江戸初期の石造廟屋、境内東側の墓地には、有名な戦国武将山中鹿之介幸盛の墓所や室町時代の石造宝塔群があります。03実はお寺に来た目的はこれらの石造物の見学ではなく、川勝政太郎博士の墓所へのお参りにありました。石造美術の価値を世に広めるとともに体系的な研究分野として切り拓かれた川勝博士のお墓は、こじんまりとした風雅な五輪塔でした。基礎の銘によれば生前に家のお墓としてご自身が設計・造立されたようです。さすがにそこいらでよく見かける五輪塔形の墓標とは異なり、その古雅な佇まいは平安末期から鎌倉前期頃の風を感じさせるものです。ご存命であれば100歳を超える方ですので、生前に親しく馨咳に接する機会はありませんでしたが、書物を通じて石造美術の魅力について大いに啓発を受け、その学恩に与かる端くれですので、かねてよりお参りしたいと考えていました。感謝の気持ちを込めて合掌いたしました。昭和53年没、享年74歳。瑞光院石洞日政居士。せっかくですので本満寺さんの石造美術関係にも簡単に触れておきます。本堂脇の石造廟屋は結城秀康の正室で、秀康没後烏丸光広に嫁いだ蓮乗院鶴姫の廟です。02元和7年(1621年)の没後間もなく造立されたものと考えられ、越前産の笏谷石を使った建築的な構造を見せる見事なものです。近年修復されたようで内部には宝篋印塔があるようです。基壇部にある格狭間の形状は04よく時代を表しています。高野山にある最初のご主人である結城秀康の廟もよく似た立派な笏谷石製のものです。近江清滝の徳源院の京極家墓所にも同様の石造廟屋があります。江戸時代初期に一部の大名家等にこうしたスタイルが流行したのでしょうか。また、墓地の東端に石造宝塔が並び立つ一画があります。中央にある一際造形に優れた塔は、近衛家出身の日秀上人の開山塔で、宝徳2年(1451年)の示寂年月の刻銘があり、没後間もない頃の造立と考えられるようです。花崗岩製で基礎に輪郭・格狭間を配し、塔身は首部と軸部を一石で彫成、首部と軸部の間に縁板(框座)を回らせ、軸部の四方に開いた扉型を薄肉彫りし、各扉型内の長方形にくぼめたスペースに法華三尊などの刻銘が見られます。笠裏に二重の垂木型と隅木を薄く表現し、隅降棟、二重の路盤を刻みだす本格的なもので、惜しくも相輪先端を欠いています。笠裏の垂木型が薄く軒下が割合平らで軒反の力が弱いこと、格狭間の形状に室町時代の特徴がよく表れています。この開山塔の外にもほぼ同規模のよく似た歴代の石造宝塔4基がありますが、いずれも時代相応の細部表現が見られ、やはり開山塔が最も優れた造形を示しています。鎌倉時代の石造宝塔との違いを見て取ることができます。法華経の教義に端を発する石造宝塔が、日蓮宗の開山塔として採用されている点は注意しておく必要があります。ただ、寺歴を考慮すると、これらの石造宝塔群もお寺といっしょに移転したと考えるべきなのでしょう。

ちなみに川勝博士は奈良興福寺東金堂前の石燈籠を設計されています。設計川勝政太郎と刻銘があります。注意してご覧になってみてください。菩提山正暦寺の一番大きい宝篋印塔の笠下の別石の段形部分、京田辺市普賢寺の観音寺の層塔や伏見稲荷の石燈籠の復元も博士の設計によるものです。写真上右:七難八苦を与えたまえと月に祈ったかの尼子十勇士、鹿之介さんのお墓がこれです、ハイ。

なお、この写真に限らず、当ブログに掲載の全ての写真は、クリックしていただくと少し大きく表示されますのでご参考までに…。


灯台下暗し

2009-02-28 02:16:37 | ひとりごと

灯台下暗し(ひとりごとです)

日頃から有益な情報をもらったり助言をしてくれる知人と話していて、そうそう、そうだよねぇって話しが合って首肯することがありました。いろいろな地域の石造物を見て歩いているとだんだんと理解されてくることとして、石造物には地域地域の特色が割合強く出るんだなぁということ。確かにそうです。例えば種別。宝塔の割合が多い近江、阿弥陀の石仏が多い京都、五輪塔や層塔が多い大和などというように地域性が比較的ハッキリ出ます。それから使用されている石材。流紋岩や溶結凝灰岩が多い地域、花崗岩が多い地域、たいていは地元産の石材を使うことが多いのですが、搬入品と思しきものが混ざったりする地域もあります。さらに格狭間や蓮華座などといった細部の意匠表現にしても地域によって違いが出ます。もちろん例外もあれば、同じ地域内にも濃淡があったり、微妙に傾向が異なることもあります。同じ地域であっても、経年変化というか、傾向や嗜好が変化しながら石造物の属性となって重層的に重なり合うように、現にそこに表れている。一事が万事でこの地域はこうだと一概に言えないところが奥深いところであり、また面白いところでもあるわけです。それから、こうした地域の特性というものは、その地域ばかり見ていると気付きにくいということ。そこにいたらあたり前過ぎて気付かない、つまり灯台下暗しというやつです。なるほどそのとおりだと思います。さらにこれは、それぞれの地域に残された石造物の種別、意匠表現、構造形式、石材などの個々の属性だけのことにとどまらず、石造物の有る無しという最も根源的な部分も含めていえることだと思います。中世に遡るであろう石塔の残欠や箱仏が集落内の辻やお堂の脇などいたるところにゴロゴロしているような地域では、案外に省みられることがない。それがいかにすごいことなのか正しく理解されていないように思います。逆にそのような古い石造物が稀な地域では、例え一残欠であっても価値が認められているというようなこともあります。まずはこういうことに気付くことが第一歩だと思います。それからさらに進んで、石造物の地域性を理解していくうえで、フィールドとする地域だけでなく、いろんな地域を見ておく必要があると思います。少なくとも自分の守備範囲と考えるフィールドに隣接する地域はなるべく見ておくと何らかの気付きがあると思います。地域外に通じる街道に峠があれば、峠の一方だけでなく両側を見ておくときっと面白いと思います。それから、さまざまな種別の石造物を作るのはどれも石工だということを考えるとき、石造物の種別にかかわらず、そこにある通有の特性というものを理解することが大切だというような趣旨のことを川勝政太郎博士は説かれています。だから、あまり扱う石造物の種別を限定し過ぎない幅広い視野を持つことが大事だと思います。これからも、こうしたことに気をつけて虚心坦懐に、時に渇いたクールな眼で、時に祖先の心に思いを致す余裕のある視点で石造物を見つめ直していければと改めて感じた次第です。

どうも最近ひとりごとが多いですね。すいませんです、ハイ。


伊行末と川勝博士

2009-02-09 20:20:03 | ひとりごと

伊行末と川勝博士(ひとりごとです)

川勝政太郎博士は昭和14年8月25日(旧暦7月11日)、伊行末忌を催されています(もっともこの当時はまだ博士号を取得されていませんが…)。行末の嫡男行吉が建てた奈良般若寺の笠塔婆の銘文から、正元2年(1260年=文応元年)7月11日に亡くなったとされる伊行末忌の集まりを開かれたわけです。金曜日の夕刻、京都市内某欧風料理店の一室を借り切り『史迹と美術』誌上での公募に応じた参加者が壁にかけられた東大寺三月堂燈籠の写真や銘文の拓本、伊派系の石大工の著名な作品の拓本を見ながら夕食を共にし、伊行末や石工に関する川勝博士の講演を聞いて、伊行末を偲びいろいろ話し合ったということです。石工としての伊行末の事跡に初めて光をあてられた博士ですが、こういう催しを開かれるあたり、センスというか、何とも発想がユニークですよね。時局厳さを増す折と推察され参加者は川勝ご夫妻を含め8名と多くはなかったようですが、さすが川勝博士と改めて感心してしまいます。小生も参加したかったなぁ…。

参考:『史迹と美術』105号、106号


東大寺大仏殿の石材について

2009-02-08 23:33:17 | ひとりごと

東大寺大仏殿の石材について(ひとりごとです)

石造美術を考える上で鎌倉時代は最も華のある時代です。後世につながる主だった石造物の種類が出揃ってくるとともに、意匠表現が完成されてくる時代だからです。それは大陸からの石彫技術やさまざまなノウハウが新たに導入されたことによる影響と考えられています。01具体的には奈良東大寺の復興に伴って来日した宋人石工達の存在があります。複数人がいたらしいのですが、詳しいことはよくわかっていないようです。唯一、奈良市般若寺の笠塔婆に刻まれた刻銘により、同じ東大寺の三月堂前の石燈籠や大蔵寺の層塔に名を残す石工「伊行末」という人物だけが個人名や若干の事跡が知られています。02ちなみに全国の石造美術を広く調査され、石に刻まれた石工名を整理し、仏師に院派、慶派などの門閥・系統があるように、石工にも伊派、大蔵派など同様の系統があることを明らかにされたのは川勝政太郎博士です。そして伊行末を始祖とする「伊派」こそはその後の石工の系統の主流となっていくことを解き明かされたのも川勝博士です。伊行末以外にも京都二尊院の空公行状碑に名を残す「梁成覚」という石工が中国から来たらしいことがわかっていますが、東大寺との関係や石工としての系統などは明らかではありません。さて、東大寺大仏殿は、周知のごとく創建以来二度にわたって建て替えられています。平安時代末に平重衡の兵火で天平創建時の大仏殿が焼失、その後、俊乗坊重源上人の活躍などにより鎌倉初期に再興されました。01_3この鎌倉初期の再建時に、中国から石工たちが渡来してきたわけです。そしてこの建物も戦国時代に松永久秀による兵火で焼失、江戸前期の再復興で現在の姿になりました。大仏殿を訪ねると、現在も床や大仏の台座などに使用されている花崗岩系の石の建築部材が少なからずみられます。現在の大仏殿は天平期、鎌倉期のものに比べると幾分規模は小さくなっているにしても、世界最大の木造建築とも称される豪壮な建築であり、そこに使用される部材としての石材を考えると、その量は相当な量になります。石材の切り出しや運搬、加工にかかる労力と費用は、石塔や石仏などの比ではないことは明らかです。江戸時代の復興にしても幾多の紆余曲折を経て着工から相当の年月を要しており、たいへんな難事業であったことは疑いありません。したがって、さまざまな工夫によりコストをなるべくカットしようとしたと考えるのが自然ではないでしょうか。Photoそうしたコストカットの工夫のなかに、石材の再利用や転用ということは果たしてなかったのでしょうか。十分考えられるのではないでしょうか。花崗岩など堅固な石材も火中すれば熱によって表面が崩れるように剥がれボロボロになります。鎌倉期の復興では石造の四天王像が安置されたとされています。その詳細は不明で、舶来石材説が取りざたされる南大門石獅子と同様に砂岩っぽい凝灰岩系(凝灰岩っぽい砂岩…?)のものだったのか、花崗岩系であったのか、現物が残らない今日では確認できません。現在の大仏殿内には鎌倉復興期の四天王石像はむろん跡形もありません。平板な反花を刻みだした巨大な礎石も江戸期に取り替えられたものでしょう。それでは床板や須弥壇などの石材はどうでしょうか?金銅の大仏が溶解する程の熱を受けたのだから、全部そのまま残っていることはありえないと思います。使用に耐えないものは当然廃棄されたでしょうが少しくらいは残っていないのでしょうか。大仏にしても蓮弁などに天平期の部分を残しています。あるいは、表面の熱の影響を受けた部分を打ち掻いて再利用したりしてはいないのでしょうか。廃材を搬出するだけでもたいへんなエネルギーを要するはずです。今日も雨落などに見られる地面に埋め込まれた割り石などは、ひょっとすると鎌倉期や場合によっては天平期の大仏殿の石材の成れの果てなのではないでしょうか。大仏を見上げながら小生の頭にそういう疑問が沸いてきます。そこで注意して床や須弥壇を眺めると、須弥壇の西側、はめ込まれた石材表面の色合いが不自然な箇所があります。いかにも一度焼けて表面がめくれているように見えます。江戸期の復興や、昭和の大修理に伴ってそういったことに関する記録があればはっきりするのかもしれませんが、あいにく不勉強で承知しておりません。また、地質学的な観点で石材の産地を特定できるのであれば、鎌倉期の復興時に一部の石材は大陸から請来されたとも伝えられることから、雨落ちの割り石などに、もし舶来石材が混ざっていれば実におもしろいと思いますがいかがでしょうか。

写真上左右:東大寺南大門石獅子です。この意匠表現はまさに大陸風。鎌倉初期と推定されるものです。仁王さんの裏側にあり目立ちませんが石造に興味ある者は見落とすべからずです。写真下左:大仏殿の雨落ち。はめ込まれた割り石。ひょっとして伊行末たちが精魂込めた四天王像たちのなれの果てが混ざってるかも???。写真下右:大仏の須弥壇にあった焼けたように見える怪しい石材。


お墓と「病気」

2008-04-24 21:37:15 | ひとりごと

お墓と「病気」

石造美術は多くが仏教系の所産なるがゆえか、お寺やお墓にあることが多く、石塔や石仏を求めて各地を徘徊していますと、次第に墓地への忌避感が薄らいでだんだん慣れっこになってしまった自分に気付くことがあります。子どものころは、墓の脇を通る狭い路地が近道だとわかっていても、一人の時などはその道は避けて通ったものでした。まして夜道の墓地の横などはあまり通りたくないというのが普通の人の感覚だと思います。ところが、近年慣れっこになったせいか、あまりお墓が苦になりません。それどころか、通りがかりにお墓があれば古そうな石仏や石塔類がないか、進んで目をやってしまいます。そのうち、放置された三角形のケンチブロックや物干台のコンクリ基礎までが火輪に見えてくるようになるとかなり重症、病気ですね。たぶん、ほとんどの同好の士が同じ病気に罹っているのではないかと思います。墓地をうろつく疾行餓鬼ならぬ石造餓鬼といったところでしょうか。いやはや・・・。そんな小生でも、真新しい土盛がある土葬のお墓や、その土盛が少しくぼみかけているようなところ、無縁塚に打ち捨てられた白い陶器の蓋が半分開いているのを見かけた時などは、さすがにぞっとします。ちょっと怖い話で閑話休題。


「餓鬼草紙」に描かれた墓地の五輪塔

2008-04-20 21:39:01 | ひとりごと
「餓鬼草紙」に描かれた墓地の五輪塔
先頃、ある方から、平安時代の終わりに描かれた「餓鬼草紙」に五輪塔が描かれているとのご指摘をいただきました。そういえば確かに描かれています。「餓鬼草紙」は東京と京都の国立博物館に1巻ずつ所蔵されているようで、東京のものは、旧河本家蔵本とも呼ばれ、その第四段、疾行餓鬼が墓場にたむろして死屍を食う場面に五輪塔をはじめ、いくつかの塔婆が描かれています。概ね12世紀後半に描かれたものとされています。平安時代の終わりごろの、鳥辺野や船岡山など当時の葬送地の実際の情景を彷彿とさせ、墓制や葬送史の研究に、しばしば引き合いに出されるものです。この絵を見る限り、平安時代の終わりには、既に墓塔の一種として建てられた五輪塔の存在を知ることができます。しかも、五輪塔は石造に見えますよね。しかし、史料はともかく、なぜか確実にこれは平安時代に遡る石造五輪塔だという現物の事例が、京都ではほとんど確認されていないんです。いちおう、この頃の石造五輪塔は風化速度が早い凝灰岩製と推定されており、風化して朽ち果てたり、バラバラになって省みられなくなったりして残っていないのだろうと考えられています。あるいは、今も残る五輪塔の残欠の中には、案外古いものが混ざっているのかもしれませんが、いずれにせよ平安期の五輪塔として実証困難な状況にあるといえましょう。さて、詳しくは失念しましたが、どなたかが「餓鬼草紙」に描かれた墓地を詳しく分析された論文を読んだ記憶があります。「餓鬼草紙」には、筵に放置されたままの死体、棺に入っただけのもの、さらに一つひとつの塚や立てられた塔婆類にもバリエーションがあり、釘貫(柵)の有無、石積や立木の有無などの相違があって、被葬者の貧富や階層の違いを示すものだろうといった大意だったと思います手前に見える五輪塔の塚は、釘貫に加え、石積に石造五輪塔備え、描かれたものの中では、最も手の込んだ墓です。恐らく貴族など経済的に豊かな人か、高僧などの墓だろうと思われます。この絵からは、一部の特殊な階層の墓塔として採用されはじめた頃の石造五輪塔の姿を見ることが出来ます。これが次第に民衆レベルにまで普及し、広く流行するには、なお数百年を要するのかなと考えています。このような昔の墓地の姿は、絵画史料などに加え、中世墓などの発掘調査によっても次第に明らかになりつつあるものと思われます。ご指摘をいただき、石造美術を考えていく上で、こうした幅広い視点が必要だということを、改めて痛感しつつ、不勉強と情報不足に頭を抱える小生であります。(それにしても、何で平安期の五輪塔が京都にほとんど皆無といっていいほど残ってないんでしょうかね?やっぱり謎ですよね。)

おかげさまでまもなく1年になります。

2007-12-28 23:22:03 | ひとりごと

おかげさまでまもなく1年になります。

平成19年も押し迫り、思えば1月11日に記事を載せ始め、まもなく1年になります。なかなか忙しくて記事が書けていないのでダメだぁって感じです。しかし依然マニアックなマイナー路線バク進中といったところでしょうか。もともと写真とあわせて探訪の記録を文字で打ち込んで個人的に保存していたのですが、打ち込むだけなら作業としてそんなに変わらないし、いっそWEB上で公開してみようと思い立ったのがはじまりでした。しかし過去の記録を見直すと、大部分はとてもお見せできるような代物ではなく、文章を改訂し、参考文献も当たり直したりするので結構たいへんだということがわかってきました。「石造美術」をもっぱらに扱うホームページやブログはそれほど多くありませんが、石造物は美術史、建築史、庭園史、金石学、考古学、歴史学、宗教学、地質学、流通史など幅広い拡がりを見せる分野であり、そうした学術的研究の対象としてだけでなく、カメラや拓本といった趣味の対象として、旅行やハイキングの脇役として根強い愛好者がいるのも事実です。マニアックな趣味・嗜好もさることながら、我々の祖先のいろいろな思いが詰まった地域の遺産であり地域の資源として後世に伝えていかなければならないヘリテージだと信じて疑いません。地味な分野ですがコツコツと紹介していきたいという思いは1年を経てなお変わりません。改めて見直すと紹介記事は滋賀が多いです。実は滋賀県に住んでいるわけではありませんが、探訪回数が滋賀が一番多いのでどうしてもこうなります。しかし京都や奈良もちょくちょく探訪していますので記事をもう少し増やしたいと思っています。できれば来年は大阪や兵庫、三重、和歌山なども追々紹介していきたいと思っています。うんちくコーナーでは宝篋印塔に関する雑感的な記事も「続く」のまま放ってありますので近々何とかしたいと考えています。さらに宝塔や層塔、石灯篭なども追々書き進めたいと思っています。同好の皆さんがちょくちょく覗いていただき、博学諸彦のご叱正を賜れば幸甚です。いろんな方がご覧になることを前提に、いきなりマニアックな紹介記事だけでなく、もっと基礎的な説明もできればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。恐惶謹言


記事について

2007-09-04 09:07:27 | ひとりごと

だんだん書きためてきた記事を改めて読み返すと、いろいろ誤字脱字や遺漏があることに気づきます。また、改めて稚拙な文章に嫌気がさすこともあります。誠にトホホな話ですが、誤字脱字などは気づき次第、こっそり訂正して更新をかけています。お許しください。ただし、大勢に影響のない範囲です。大きい訂正ごとがあれば、そう、例えば表明した年代観などが再考の結果、やっぱり誤りでしたというようなことがあれば、それはそれで説明責任を果たすべく新たな記事をおこさなければならないと考えています。もとより不勉強ですので、記事内容に疑義や勘違いが溢れていることは否めないと思います。博学諸兄のご叱正を請いたいと痛感しています。敬白


最近の動向

2007-06-23 00:11:28 | ひとりごと

最近、石造宝塔の記事が続いています。宝塔は、五輪塔や宝篋印塔に比べると絶対数が少なくマイナーな石塔です。初めのころは、石塔といえば五輪塔や宝篋印塔ばかりを追いかけまわして、あまり宝塔については省みませんでした。五輪塔や宝篋印塔に関する研究は近年盛んになってきましたが、宝塔はどうもいまひとつの状況です。しかし、近江の石造美術を訪ねるうち、宝塔の美しさに目覚めました。近江の石造美術を考える上で、宝篋印塔とともに絶対に欠かすことができないのが宝塔です。宝塔は奈良や京都などにもありますが、なんといっても滋賀こそは大分と並ぶ宝塔のメッカ、もっともっと宝塔の素晴らしさを皆さんにお伝えしたい。しばらくは宝塔の紹介記事を多くするつもりですので乞うご期待。