石造美術紀行

石造美術の探訪記

あけましておめでとうございます

2015-01-02 02:29:48 | ひとりごと

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。さて、去年は講演会等のオーディエンスの一人としてならまだしも、小生など直接お話しするのもはばかられるような、さる板碑研究の権威の先生と偶々ご一緒する機会に恵まれました。大勢で見学に訪れた片田舎の小さな墓地で、集積された中世石塔の残欠をひとしきりご覧になられた後、なぜか独り近現代の戦没者慰霊碑に足を向けられ、しげしげと眺められながら「こういうものがだんだん失われていくんですよね、ほんとはもっと大事にしないといけないんですがねぇ」とつぶやくようにおっしゃった言葉に感銘を受けました。その時小生は、土地の人々の様々な活動の歴史や思いを伝えるモニュメントとしての石造物いう意味において、中世の板碑も近現代の戦没者慰霊碑もほとんど同じだということなのかなと感じました。何も戦没者慰霊碑に限らず、あまり注目されることのない近現代の石造物の中にもその時代をリアルに語る資料性が色濃く存在していることがあります。板碑など中世の石造物の多くが近世以降本来の意義を失い忘れ去られていったように、近現代の石造物も今日では忘れ去られ失われる運命にさらされているわけです。そういう意味において、近現代のものが見向きもされないという現実に警鐘を鳴らされる「つぶやき」だと勝手に理解しました。つまり、特定の時期や塔形ばかり追い求め、関心のない範疇は全く顧みないというようなことではダメだということ。リスペクトする川勝博士のおっしゃられた「奥行のある鑑賞態度」にも、そういう含蓄があるんだということを改めて感じた次第です。かといってあまり風呂敷を拡げ過ぎてもなかなか首が回りませんが、その精神は肝に銘じ、なるべく鳥の目虫の目で石造というものを見つめていければという思いを強くしました。まぁ所詮、余暇を利用したマニアックな道楽ですが、常歩無限、本年もボチボチとやっていきますのでどうかご愛顧・ご贔屓賜りますようお願い申し上げる次第です。恐惶謹言 六郎敬白。


暮れのご挨拶

2014-12-31 10:44:09 | ひとりごと

暮れのご挨拶
今年はブログ人のサービスが強制終了になり、goo様に御厄介になることと相成りまして、不慣れなこともあって、本格的な記事のアップがおろそかになり、あれ、今年ももうおしまいっていう感じです。慣れ親しんできたこれまでのブログと違って、どうもこの新しいブログの仕組みには戸惑いを隠せません。多少苦しみつつも続けていけば追々慣れてくるとは思います。新しいブログの仕組みや機能はこれから覚えていきますが、体裁はどうも前のとおりとはいかないようです。仕組自体がどうやら文章よりも画像を中心にしたユーザー向けに組み立てられているようです。小生的には写真のキャプション解説ではものたりません。ウーン…困った…。しかしまぁ何とかめげずに続けていきます。それにしても、今年は記事のアップが史上最低になり申し訳次第もありません。ウイークリーペースが理想でしたがマンスリーになり、ほとんどシーズナリーになってます。この春、転勤になりはじめの頃は公私とも多忙だったこともありますが、石造探訪は続けています。まぁそこそこ落ち着いてきたので来年こそはもっとがんばって記事を書きたいと思います。常歩無限、ぼちぼちと行きますのでご贔屓くださいますようお願い申し上げます。それでは皆様よいお年をお迎えください。六郎敬白


古典などに登場する石造(その1)

2014-11-19 00:28:25 | ひとりごと

古典などに登場する石造(その1)
石造物は、石造美術や考古学など学術的な書物や市町村史類のほか地誌などに紹介されていることがあり、石造物を調べ、考えるうえで目を通しておきたいものですが、さらに進んで古典文学あるいは絵画資料に登場する石造物にも注目したいと思っています。鴨長明の『無明抄』に“一丈ばかりの石の塔”として長安寺の石造宝塔と思しい記述があるそうです。一級資料を用いた具体的な事実の立証ということはもちろん大事で、それがストライクゾーンですが、そこから一歩離れ、もっと肩の力を抜いていろんな書物などに登場する石造をつれづれに追いかけるのも楽しいかもしれないと思っています。もちろん、ばかげた話も多いのであまり真に受けない姿勢は保ちつつですが、少なくとも石造物がその書物の中でどのように扱われ、著者や読者にどのようにとらえられていたかを知ることができます。
…とは言うものの、ことさらに書物を漁っているわけでもないのですが最近偶然手にした『江戸怪談集』上・中・下(岩波文庫 高田 衛 編・校注)という三冊の文庫本は、文字どおり江戸時代の怪談奇談を集めたなかなか面白い本で、お化けには墓地がつきものということからか、墓地や石仏や卒塔婆など石造がらみの言葉がけっこう出てきます。ここにひとつ「五輪より血の出る事」というのがありました。高田氏の解説によると出典は『善悪報ばなし』、編著者不詳。元禄年間板行だそうで享保年間に『続御伽ばなし』に改題されたそうです。江戸前期の成立ということでしょう。越前敦賀の近郊の浄土宗の寺で、明暦元年(1655年)、「五輪の台の合せ目」より血がおびただしく流れ出たことがあったといいます。被葬者は難産で死亡した女性らしく、平常はそういうことがないのに命日になると血が流れたそうです。寺は噂を聞きつけた野次馬でごった返し、困惑した住職が近くにいた「たいをう」(不詳)という修業者に頼み込んで加持祈祷か供養かわかりませんが、何か措置をしてもらったところ血は流れなくなったということです。簡潔な記述で具体的なことはほとんどわかりません。この話自体に特段考察すべき内容はありませんが、五輪塔が寺にあり墓塔と認識されていたこと、五輪塔に台座があったらしいということはわかります。医療水準が低く、難産で死亡する妊婦は少なくなかった時代、そういうことをモチーフにしたウブメと呼ばれるお化けがいるという話は聞いたことがあります。難産で多量の血が流れるという点からの付会なのかもしれません。ひと気のない陰鬱な雰囲気の墓地で五輪塔を一人訪ねたりしますが、そういう場面で五輪塔から血が流れ出すなんて想像するとゾっとする話です。
 
石造美術の探訪記が基本ですが、最近ちょっとサボっており、目線を変えてこういう路線も取り入れてみました。連続ではなく随時のシリーズとします。


福澤邦夫先生のご逝去

2014-09-04 16:44:59 | ひとりごと

去る7月25日、福澤邦夫先生がお亡くなりになられたそうです。86歳。寡聞にして知りませんでした。親しく謦咳に接する機会こそありませんでしたが、ご存命の斯道の先達の中では、おそらく誰よりも高い経験値をお持ちで、小生などから見れば、現人神のような存在と思っていました。最近まで、これまでの膨大な拓本を集成した拓本集、『甲賀市史』、『民俗文化』へのレポートなどを著されておられました。誰よりも豊富な経験値を蓄積された先生のご逝去は、石造美術の世界にとっては、国家的損失といって過言ではないかもしれません。また、「石造美術」最盛期の川勝・田岡時代を実体験された世代の大先達のご逝去は寂しい限りです。謹んでご冥福をお祈りいたします。


あけましておめでとうございます

2014-01-01 12:59:31 | ひとりごと

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。余暇を利用したマニアックな道楽も、もうかれこれ10年余りになろうかという今日この頃です。拙ブログも2007年1月に開始して8年目に突入しました。しかし、まだまだ駆け出しものの域を出ませんのでもっと経験値を上げていかないとダメだと思っています。
昨年、小生から見れば雲の上の仙人のような斯道の大先達にお話しをうかがう機会がありました。いわく「おや、〇〇をまだ見ていないのか」とか「これを見て〇〇〇に気が付かないとは石造美術のイロハも知らぬようじゃ」というようなことで「まだまだ修業が足らぬぞ、フォフォフォ…」とたしなめられることがありました((注)小生が感じたニュアンスを強調するため発言内容に脚色あり…)。いやはや、日ごろの不勉強と情報不足に頭を抱える次第でした。どこまでも突き進んでいくと底知れぬディープな世界、所詮小生のごとき余暇を利用した道楽者は仙人の境地には程遠いことを思い知らされました。しかし、めげてばかりもいられません。石造との関わりは人夫々、小生には小生の仙人たちには仙人たちの関わり方があり、是非もないことです。当の石造たちはあいも変わらず山野にあって涼しい顔をしているのですからね。とはいっても独善や一人よがりは禁物、それから「俺が俺が…」も禁物、これからもできるだけ情報を収集し、また幅広くお教えを請いながら「奥行のある鑑賞態度」で謙虚に石造たちに接していきたいと思っています。むろん余暇を利用した道楽の域を出るものではありませんが、等閑視されがちな石造の価値や魅力を顕彰・発信していきたいという気持ちに変わりはありません。なかなかUPのペースも上がりませんが「常歩無限」今年もぼちぼちとやっていきますので何卒ご贔屓くださいますようお願い申し上げる次第です。
六郎敬白


石造関連サイト(ひとりごと)

2013-08-21 23:51:23 | ひとりごと

石関連造サイト(ひとりごと)
所詮石造はマニアックな世界、残念ながら、なかなか陽の当たる分野にはなりえていないのが実情です。それを反映してか同好の士が運営される関連サイトも決して多くありません。それでもキーワード検索にヒットするサイトをいくつかお気に入りに追加し、胸を躍らせながら毎日のようにチェックしています。ある時は貴重な情報を提供いただき、また目からウロコのお話を教えられ、うっかりや不勉強を痛感し、あるいは美しい写真を堪能しながら、何より同好の士の存在に心励まされています。時々はそうしたサイトを運営される先達からコメントを頂戴することもあり、たいへん嬉しい限りです。
インターネットは便利なツールで、斎藤彦松氏や若い頃の服部清五郎氏がそうであったように、昔なら手書きガリ版刷りで関係者だけにペーパー配布していたようなことも、一定の環境下で誰もが見られるネット上でやろうと思えば出来なくはないわけです。(まぁ、このお二人はあまりにも偉大で例えとしてはふさわしくないか・・・)
まぁ、石造のようにマイナー路線の情報や価値を発信していくために、ネットを活用するのも手だと思います。
また、関係する団体や機関のHPもお気に入りに入れています。むろん会員になって機関紙の購読というのが本筋ですが、ネット上でも会の活動そのものを発信される公式HPの存在は、小生などからすれば実に心強いものです。
そういえばお気に入りに入れてあった「史迹美術同攷会」のHP、最近つながらないのですがどうされたのでしょうか?気になります。


追伸
この記事のUP後、程なく無事につながるようになりました、「史迹美術同攷会」のHP。
ひと安心です、よかった、よかった。


フィールドワークにおける機動力-昔の人はよく歩かれたという話-(ひとりごと)

2012-12-31 17:38:01 | ひとりごと

フィールドワークにおける機動力-昔の人はよく歩かれたという話-(ひとりごと)

川勝政太郎博士は、『歴史と文化 近江』昭和43年刊(社会思想社教養デラックスシリーズ)という本のはしがきに「小学校に入る前から、年に一度は草津北方にある穴村の墨灸へ、父につれられていった。穴村の帰りには石山寺や三井寺へつれていってもらった。比叡山にはじめて登ったのは、小学校4年生のころである。父につれられて白川越で歩いた。ずいぶん遠かったが、眼下に琵琶湖の雄大な風景を見下ろした感激は、今も忘れられない。」と書かれています。また、天沼俊一博士は、「村社志那神社本殿」という報文を『史迹と美術』第164号に載せられていますが、その中で「京都からだと三条大橋を起点とする京津電車で終点の浜大津まで、下車して湖岸にでるとそこから船がでる。その船で志那中まで行くのである。何でもそこへ上陸する人の大部分は、穴村というところに、病気によくきく灸を据える家があるそうで、そこへ行くため、時によると、ことに先方の休日の前後は大変な人であるから、解纜後約50分、そこへ着くまでは混雑を覚悟しなければならない。…中略…私どもの乗った船は9:10に大津を解纜した。たまたま灸點に行く子ども連れの人で非常に混雑したせいもあろうが、一時間以上を費やし、志那に上陸したら10:15であった。」と書いておられます。報文の内容から、この天沼博士の調査行は、昭和19年5月30日のことと知られます。Photo今日では想像できないくらいに子ども向けの穴村のお灸というのが京滋方面で非常にメジャーであったことがわかります。ここで天沼博士が「京津電車」とされるのは、この路線がかつて京津電気軌道株式会社であったことからそう呼ばれたのでしょう。大正元年に三条大橋から札ノ辻まで開通し、大正14年に札ノ辻から浜大津まで延伸、同じ年に京阪電鉄に合併され今日に至っています。昭和19年当時は既に京阪電鉄の路線となっていたはずです。また、「船」というのはおそらく、現在の琵琶湖汽船の前身で、昭和4年に京阪系列となった太湖汽船のことと思われます。
ところで、6歳に満たない"まさ坊"が京都の上京から現在の草津市穴村町までお父さんに手を引かれて徒歩で行ったのでしょうか。明治38年生まれの川勝博士が小学校就学前といえば明治の末頃になります。また、小学校4年生が10歳であれば大正3年です。上記のとおり明治の末年時点では、まだ京津電車は開通していません。第一、小学校就学前の幼児の脚でいくらなんでもその距離を徒歩というのはちょっと考えにくい。石山寺や三井寺に立ち寄ったとあるから、おそらく既に開通していた国鉄の東海道線を利用してのことと思われますが、詳細はわかりません。ただ、明治末期には既に汽船はあったはずです。また、10歳頃に京都から白川越で歩いて比叡山に登ったというのはまったく驚きです。『日本石造美術辞典』を著されるほど各地でたくさんの石造物を調査された川勝博士ですが、『史迹と美術』の記事や報文などを見る限り、調査は公共交通機関と徒歩が基本だったようです。自動車免許は持っていらっしゃらなかったようで、この世代ではむしろ普通だと思います。(博士と同世代の小生の祖父も持ってませんでした。)モータリゼーション普及以前の交通手段は、当然ながら徒歩や鉄道だったわけです。人力車や馬車などというのはハイヤーやリムジン的で、ちょっと非日常的な交通手段と考えるべきかもしれません。交通手段ひとつとっても昔の人のフィールドワークはたいへんだったことが想像できます。その労苦のうえに胡坐をかいているのが今日の我々なのかもしれません。
一方、天沼博士は、奈良県に赴任されていた30代の頃、当時はまだ珍しかった最新の交通手段であった自転車を駆って大和の古建築や石塔の調査を行なっておられたようです。明治末期から大正初め頃のなので、かの三浦環女史よろしくハイカラさんのイメージでしょう。パリッとした洋装で撮影機材を小脇に抱え、颯爽と長閑な大和路の田舎道をペダルをこいで行く天沼青年の姿は、農作業にいそしむ地元の人々の眼にはさぞかし奇異に映ったことでしょう。また、考古学者の末永雅雄博士もまだ若い20代の頃、大阪の騎兵第4連隊に入隊されましたが、訓練の合間や除隊後、愛馬「初雪」号に跨って大和の古墳や博物館をめぐり歩かれたそうです。それから池内順一郎氏も昭和40年代、バイクを駆って地元近江の石造調査を敢行されていたと仄聞しています。石造の調査・見学に限ったことではありませんが、フィールドワークに機動力は重要です。こうした偉大な先達が機動力の高い移動手段を早く取り入れていたことは注目していいと思います。
天沼博士や川勝博士の時代のことを思えば、自動車という文明の利器によりフィールドワークは格段に便利になりました。まして小生のように限られた余暇を利用しての石造見学を趣味とする者にとって、その恩恵は計り知れません。先達の調査の苦労を思うにつけ、つくづくそのありがたみを感じます。その一方で自動車による石造見学にも弱点があります。駐車場がない、大渋滞、道が狭過ぎて進入できないなどで、時間の浪費や不自由さを感じることが少なくありません。時間に追われながらもこれまで数年石造見学をしてきた、わがままな感想ですが、例えば寺院であれば門前まで自動車で行ければむろん言うことなしです。それが無理なら最寄の駐車場のあるところまでは自動車、そこからは自転車か原付というのが理想です(実際には小生の小さい車にはそんなものは積めないのでムリ)。また、乗せてもらったことがありますが四駆の軽自動車も走破性が高くかなり狭い道でもクリアできるのでとても便利です。最近では、季節がよい時候は大・中型のバイクというのもいいかもしれないと感じています。しかし、どのような場面にもオールマイティに対応できる完全無欠の移動手段というのは…まぁ無いんでしょうね。
さて、今年もとうとう大晦日です。本年もご愛顧いただき有り難うございました。なかなか時間がさけない場面も増えてきましたが、それなりに機動力を駆使して来年も引き続き可能な限り余暇を見つけて石造行脚を続けたいと思います。六郎敬白

※ 勝手ながら引用文中の漢字・仮名遣い等の一部修正しました。

写真:滋賀県草津市志那町の志那神社の石造宝塔と社殿。本殿には永仁6年(1298年)の棟札があったとのこと、上記天沼博士の報文に詳しい。宝塔について報文中でさらっと触れられているだけですが、基礎の一側面に二茎蓮プラス如来坐像のレリーフのある非常に珍しい意匠。鎌倉時代末から南北朝初め頃の造立でしょうか。基礎から相輪まで揃った典型的な近江の石造宝塔です。


川勝博士と文章

2011-12-25 13:09:30 | ひとりごと

川勝博士と文章

12月23日は川勝政太郎博士の命日に当たります。1905年のお生まれなので今年で生誕106年、亡くなられたのが1978年なので没後33年になります。

博士が編集主幹として生涯を費やして手がけられた『史迹と美術』誌の古いバックナンバーをめくっていると、面白い記事を目にすることがあります。先に紹介した伊行末を偲ぶ会を催された件もそうですが、こうした記事からは川勝博士の人となりを垣間見ることができ、たいへん興味深いものがあります。

川勝博士は、石造美術をはじめ多様なテーマで多くの著作を残されています。本格的な内容を啓蒙的にわかりやすく、しかも簡潔に書かれた博士の文章を読むにつれ、よく練られた文章だと感心しています。

昭和16年9月発行の『史迹と美術』第130号に載せられた「編後私記」に川勝博士自身の言葉で面白いことが書かれています。「…それから次に谷崎潤一郎の「盲目物語」、「芦刈」、「春琴抄」を又引つぱり出して読んだ。この文豪の近年の物語風な著作は不思議に心を捕らえるものがある。あの風格のある文章の力は大きい。我々の書くものでも、こう言う風に人の心を捕らえるようにならないものかと、つくづく思う。文章にもいろいろある。読んでも何を言っているのか判らぬ文章、判るが面白くもない文章、人を引き付ける文章、再三読み返したい印象を受ける文章。原稿紙を汚すこと幾許かを知らない我々だが、さて文章とは難しいものである。琢磨し尽してしかも平凡な文章が書けるようになりたいものだと思うが、残念ながらその十が一も及びつかない。文芸作品と論文とは別なものだが、谷崎のものなどを読むと何か一考すべきものを感じる。」(仮名遣等を一部改変)とあります。川勝博士が谷崎を評価し、人の心を捕らえる文章の表現力に着目し、「琢磨し尽してしかも平凡な文章」を志向しようとされたことがわかります。一方、昭和40年8月発行の『史迹と美術』第357号に「谷崎文学と石造美術」というコラムを書かれています。前月に亡くなった谷崎へのオマージュ的なコラムで、それによると谷崎の『瘋癲老人日記』という小説の文中に、川勝博士の実名が出てくるんだそうです(…小生はまだ読んでません)。さらに京都の著名な石造美術品に関する記述もあるそうで、登場人物のセリフの中などに間接的に登場し、内容から昭和23年発行の『京都石造美術の研究』が元ネタになっているらしいとのことです。谷崎と直接面識はなかったとのことですが、知らない人が読めば「川勝なる人物も架空のものとする人も多いだろうと思うと苦笑を禁じえない」と述べておられます。面白いですね。

それにしても文章の力、表現力というのは大切なことだと思います。読み手にうまく伝わらなければ何も言ってないのと同じだし、人の心をつかむことができなければ広く共感を得ることはできません。むろん博士もおっしゃるように論文と文芸作品は違いますが、言葉の定義の空虚な議論、難解な論文等を読むと、単なる論者の自己満足じゃないか、誰のため何のための議論なのかを忘れてないか、と思うこともあります。

何もこのことに限ったわけではありませんが、ことに等閑視される石造物の価値を顕彰していくうえでは、その重要な方便として文章や言葉の問題はよくよく考えなければならないことだと思います。

ちなみに、平成2年11月の史迹美術同攷会の創立60周年記念祝賀会での記念講演における、三歳年下の盟友であった佐々木利三氏の証言によれば、川勝博士は若い頃、小説を書いておられたことがありペンネームは「東条元(とうじょうもと)」といったらしいです。いや面白いですね。

 

参考:   川勝政太郎 「編後私記」 『史迹と美術』第130号

      川勝政太郎 「谷崎文学と石造美術」 『史迹と美術』第357号

      佐々木利三 「史迹美術同攷会六十年の歩み-故川勝主幹と私-」

         『史迹と美術』第612号

                   史迹美術同攷会創立六十周年記念祝賀会記録


五輪塔の記事について

2011-11-02 19:04:52 | ひとりごと

五輪塔の記事について

福井県越前町で60年以上前に見つかっていた五輪塔の地輪部に織田氏の祖先の名が刻まれているのが確認されたとの記事を見ました。

五輪塔がメディアで取り上げられ記事になるのは珍しいことで、石造ファンとしてはたいへん嬉しいことだと思います。

記事によると、織田信長の祖先とされる織田親真(ちかざね)という人物の墓だということです。縦横20㎝程の地輪側面に「喪親真阿聖霊/正応三年庚刀二/月十九日未尅」と陰刻されているようです。親真は平清盛の孫に当たる資盛の子息だといわれているようです。

ただ、記事にある銘文の解釈について、いささか疑問を感じましたのでコメントしたいと思います。

こういう場合に故人の俗名を刻むことは稀で、たいていは法名だと思います。おそらく「親真阿聖霊」というのは、親(おや)である「真阿」(しんあ)という阿弥号の人物の霊魂…という意味ではないかと思います。「孝子七月吉日」と別の面に彫られているとのことですが、孝子というのも親の菩提を弔う石造物によく見られる慣用句です。(つまりこれは真阿という念仏者の供養をその子が行なった石塔で、親真、まして織田氏との関係を示すようなものではない。)

この地方の五輪塔について詳しくありませんが、没後間もない造立とすれば13世紀末になります。一般的にこの頃の五輪塔にしては非常に小さく、基礎の背がやや高いように思いますがどうなんでしょうか?

織田信長平氏ルーツ説否定!ということの是非はさておくとしても、石造物の価値や意味を改めて考える機会を世間に発信してくれた関係者に敬意を表したいと思います。

川勝博士は実物を見ないで論ずることを戒められています。これくらいにしておきます。お聞き流しください。


石造美術のシチュエーション・見学者のわがまま(ひとりごと)

2011-04-12 22:52:20 | ひとりごと

石造美術のシチュエーション・見学者のわがまま(ひとりごと)

 

石造美術は、歴史を秘めた石の造形であり、祖先の祈りや思いを現代に伝える貴重な遺産です。ほとんどがPhoto元々は信仰上の必要から作られたもので、そもそも鑑賞的な美術品ではありませんが、人間は本質的に美しいものを志向するため、美術的要素は石造物の造形や装飾のうえに多少を問わずに表れているというのが川勝政太郎博士のお考えです。さらに、展示ケース越しにしか見ることができない美術品ではなく、身近にあって、親しく陽光の下で観察できるのも石造美術の大きな魅力と言えます。幾百年の風雪に耐え、自然の風景と融合して四季折々の姿を見せてくれます。青空の下で散る桜と層塔、あるいは苔むした石仏の傍らに南天の赤い実ある風景、竹林の緑に映えるのは宝篋印塔でしょうか…。Photo_2むろんあくまで歴史的な資料として渇いた眼で見つめることも重要ですが、こうした情景を楽しむことも石造美術を訪ねる際の醍醐味のひとつとして決して否定されるものではありません。ここからは小生のような石造マニアのわがままな放言としてお聞き流しいただきたいのですが、我々見学者にとっては、石造物が置かれた条件や環境は、基本的にそのまま受け入れるしかないわけです。しかし、狭い祠内などに祀られていたり、植栽や保護措置のための柵などで見えにくいのは困ります。現地を訪ねてがっかりしてしまうことがしばしばあります。小生などは美しい情景も楽しみたいし、全体像をいろんな角度から見たいし、細部の様子も近づいて見たい。加えて保護措置も大切だと思うし信仰の対象としてのあり方も否定しない。あれもこれも全部満足させるのは難しいとわかっていてもそうあって欲しいと願うわけで、これをわがままというんでしょうね。しかし、こうした見学者のわがままを高いレベルでクリアしてこそ石造物の魅力を最大限発揮できるし、等閑視されがちな石造物の価値の発揚につながると思うわけです。

じゃあどうすればいいのか具体的にあれこれ考えてみると、樹木草花は情景を構成する要素としてあった方がよいが、極端に近接しては植えない。観察の妨げになるし、枯葉などは酸性ですので表面に堆積すると保存上よくないんじゃないかなと思います。Photo_3柵や覆屋を設置する場合も工夫が欲しい。Photo_3酸性雨、結露や雨水の浸透と凍結による剥離や亀裂を防ぐためには覆屋はあった方がいいし、柵は盗難防止やたくさんの人がみだりに触れたり擦ったりして摩滅を進行させるのも防げる。しかし、覆屋は万一の火災や倒壊した場合には被害が拡大するおそれがあり、柵は地震などで石造物が倒れ、柵も倒れた場合に互いが交錯して破損を助長する可能性があります。覆屋を作る場合は、しっかりした構造で燃えにくい材料が望ましい。ただし、屋内でも全体像を把握でき、少なくとも人ひとりがしゃがんで観察できる程度の壁からの離隔が欲しい。また、暗がりでは細かい部分が見えないので、十分な自然光を四方から取り入れる工夫も欲しい。また柵などは少なくとも石造美術の背丈と柵の長さを合わせた以上の離隔をとるべきと考えます。案内看板もあまり間近に立てない。案内看板の陰になって肝心の石造物が見えないという本末転倒も時々見受けられます。こうして考えてみると、ちょっとした工夫さえあれば小生のわがままもある程度はクリアできそうに思えます。

 

写真:背景のツツジが美しい京都府木津川市岩船寺十三重層塔、桃の花と奈良市般若寺の笠塔婆、去年の写真ですがちょうど今のシーズンがお薦めの春の情景です。雪の一石五輪塔群の寒々とした侘しい情景は東近江市の瓦屋寺です。鮮やかな緑のじゅうたんが敷かれたような苔に映える京都市今熊野墓地の宝塔です。無粋な柵や植栽に囲まれ、窮屈な覆屋に監禁された石造物ではこうした季節感のある情景は期待できません。なお、視界を遮る無粋な邪魔者があるといい写真も撮れないので(腕の問題はさておくとして…)ご紹介もできないわけです。心に残る情景に接した時、立ち去りがたく、何度も訪れたくなります。逆に何度も訪れることによって、はじめて四季折々さまざまに表情を変える石造の魅力に気が付く場合もあります。