ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

丘の上の聖者の町アッシジ…早春のイタリア紀行(11)

2021年03月21日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

      (春の午後の立ち話)

藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から 

 「アッシジは静かな聖堂の町である。… 市庁舎横の望楼からは、絵のように美しいウンブリアの野の景色が一望に見渡せる」。

 「…… やがて日が傾き晩鐘の時刻が来て、数多い聖堂の鐘がいっせいに鳴り始める。

 胸の底まで響くように低音で鳴るのは、この広場のすぐ近くにあるサン・ルフィーノ大聖堂の鐘である。

    歌うように清らかな高音を響かせるのは、これも近くのサンタ・キアーラ聖堂、すなわちあの聖女キアーラの名を冠した聖堂の鐘だ。

 耳を澄ますと夕日の沈みゆく方角から、サン・フランチェスコ聖堂の鐘の音が何事か語りかけるように静かに響いてくるのを、聞き分けることができるだろう」。

   ★   ★   ★

<アッシジへ>

 3月12日。晴れ。

 朝、フィレンツェのホテルで、7時に朝食。

 今日はイタリア鉄道のストライキを避けて、早い列車に乗ってアッシジまで行かねばならない。

 8時7分発のR(日本で言えば、快速、或いは各駅停車の列車)は、時間どおりにフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ駅のホームを滑り出た。もう安心だ。あとは2時間半ののどかな汽車旅である ……。

       ★

 列車もすいていたが、ウンブリア州のローカルな駅「アッシジ」で降りた人も少なかった。

 駅の構内で、翌朝のローマ行きのチケットを購入しておく。

 券売機の操作がうまくいかず困っていたら、日本人の青年がやって来て「この機械、自分も困ったんですけど」と言いながら、一緒にやってくれた。

 イタリアのこんなローカルな駅で、日本人の若者に出会うとは思いもよらなかった。

 聞けは、イタリアの2部リーグのサッカーチームに所属し、オファーがあってセリエAのチームのテストを受けに行く途中だという。こんな所にも、たった独りで頑張っている日本の若者がいる

 「幸運を 」と心から願った。

 タクシーで、ウンブリアの野の丘の町・アッシジへ。

  (丘の町アッシジ)

 「アッシジは高い丘の斜面に築かれた城塞都市だ。どの方面から行っても、緑野のかなたに盛り上がるように高い丘が現れ、その最高地点に城塞が見えてくる。ロッカ・マッジョーレだ」(紅山雪夫『イタリアものしり紀行』)。

 もともとアッシジは城壁に囲まれた城塞都市だった。ローマ帝国時代初期には城塞が築かれていた。いまは周辺部を合わせて人口1万8千人の小さな町である。

       ★

<ウンブリアの春>

 ホテル「SUBASIO」は小さな三ツ星ホテルだが、立地は100点満点だ。

 (ホテル「SUBASIO」とウンブリアの野)

 2階建てのホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野の眺望が素晴らしい。

 (ホテルのテラスからウンブリアの野)

 早春のイタリアの旅に出て、初めてお天気は晴れ。ぽかぽかと暖かい早春の日差しに、ウンブリアの野はやや春霞にけむって長閑かである。しばらくはベンチに座って、異国にいることも忘れ、陶然となる。

 ホテルは、アッシジの丘の西端に建つサン・フランチェスコ聖堂のすぐ横。世界遺産の聖堂を見学するのに、これ以上の立地はない。もともと巡礼者の宿だったのかもしれない。居ながらにして聖堂が見え、玄関を出て数歩歩けば、そこはすでに「境内」だ。

 (サン・フランチェスコ聖堂)

     ★

<聖フランチェスコのこと>

 聖フランチェスコは、12世紀の終わりごろ、中世自治都市アッシジの豊かな商人の家に生まれた(1182~1226)。フィレンツェがルネッサンスの最盛期を迎えるより200年ほど前のことである。

 普通の快活な青年だったが、突然、神の啓示を受け、父親の反対や友人たちの説得も聞き入れず、全ての私物を捨てて、修道生活に入った。

 西ヨーロッパでは、11世紀には一般民衆も含めてほぼキリスト教化がなされたと言われる。民衆の中にもマリア信仰や聖人崇敬が興り、聖遺物を求めて聖地への巡礼も盛んになり、遺言によって死後、全財産を教会に寄進するという人々も増えていった。

 信仰が深まり、純粋化していくと、福音書の中のイエス・キリストや使徒行伝に描かれた弟子たちのように生きたいという希求も生まれてくる。

 修道院は既に古代末期に設立され、中世の時代を通じてカソリックの権威の一つであった。修道院では私有財産を共有し、日々(ラテン語で書かれた)聖書を読解・研究し、瞑想と思索と労働の規律ある生活の中から神の啓示を得ようとした。

 フランチェスコの新しさは、そういう権威主義的な修道生活ではなく、いきなり1着の僧衣と数枚の下着、1本の帯縄以外の全ての私物を他者に与え、ただキリストを模範とし、日々、キリストのように生きることを目指すというラジカルさにあった。

 歴史家の中には、13世紀の聖フランチェスコの考え方、生き方こそ、ルネッサンス的なものの最初だと言う人もいる。意識せずにではあるが、一人の青年が、中世的・カソリック的な権威を打破したのである。

 彼のあまりの純粋さに最初は戸惑っていた人々の中から次第に共感が生まれ、フランチェスコとともに生きようという人々によって修道会が生まれた。その会員は年々ふくらんでいき、ついに5千人の組織になる。組織ができれば対立が起き、あれこれの宗教論争も生じる。

 彼は自分の修道会を離れ、孤独な隠棲生活に入った。

 「ウンブリアの山や森の中の洞窟や小屋を転々と移動しながら、彼はしだいに自然の中にのめり込んでいった。… 弟子たちは、彼が小鳥に説教しているのを見た。小鳥たちは木の枝から地上に下りてきて、さえずりを止めて彼の言葉に聞き入り、祝福を与えてもらうまで動かなかった」(藤沢道郎『物語イタリアの歴史』)。

 1226年にフランチェスコが死去すると、その2年後、バチカンは彼を「聖人」として聖別した。彼のような行動は、100年前なら、バチカンは異端裁判にかけた。聖別は一種の大衆迎合である。

 フランチェスコ修道会も、同年、「開祖が生きていたら決して承認しなかったであろう事業に着手した」(同)。フランチェスコを慕って西欧各地からやってくる巡礼者たちのために、彼の名を冠した大伽藍建立に着手したのである。

 聖堂の献堂式は1253年に行われた。

 こうしてフランチェスコ修道会はキリスト教界を代表する修道会に発展し、ローマ教皇も出すようになる。

 なお、映画『薔薇の名前』のショーン・コネリーが演じた主人公も、フランチェスコ会の修道士である。

<閑 話>

 キリスト教という一神教の教えをつき詰めていけば、結局、フランチェスコのような生き方になっていくのだろう。私も、「野の百合を見よ」という30歳の青年イエスが好きだ。

 だが、思想の純粋化は、原理主義となり、思想の先鋭化は、排他主義につながる。

 フランチェスコのような生き方からすれば、この世のあらゆるもの、科学技術も、政治も、経済活動も、美術、音楽、文学なども、人間の社会と歴史、人間存在そのものも、すべてが不純となり、非キリスト的となる。

 私は「人間」として旅をしている。聖なる大伽藍は人間が作った偉大な文化遺産であり、キリスト教の絵画や彫刻は言うまでもなく偶像であり、聖フランチェスコという人も含めて、すべてが人間の営みの一環、人間の歴史、人間の文化の一部であって、そう思うからこそ、すべてがいとおしく、美しい。

 融通無碍がこの世の真実である。

 Let it Be。

      ★

<サン・フランチェスコ聖堂を見学する>

 ひととき、ホテルのテラスのベンチに腰掛けて、ウンブリアの春のぬくもりに浸ったあと、見学に出た。まずは、目の前のサン・フランチェスコ聖堂である。

 聖堂は丘の西端の傾斜地を利用して建てられ、上の聖堂と下の聖堂の2層構造になっている。どちらからでも入れるが、ホテルの前の石畳の道は下の聖堂の回廊に囲まれた広場に続いていて、その先に下の聖堂の扉口がある。

  (下の聖堂の入口)

 入口を入ると、窓が少なく、暗く、ここが地下聖堂であることがわかる。

 身廊の周辺には幾つもの礼拝堂が並び、ほのかな明かりが灯されている。そのほの暗さの中、天井も、壁面も、フレスコ画で覆いつくされていた。イエスの受難、聖フランチェスコの生涯などの連作で、色彩はなお鮮やかである。

 身廊の奥の内陣も、袖廊も、フレスコ画の饗宴で、あたりの暗さと絵画の宗教的な重々しさで、圧迫感があり、少々息苦しい。

 身廊の中ほどに、さらに地下に降りる階段があった。そこを降りると、聖フランチェスコの遺骸を納めた石櫃がある。石櫃は頑丈な鉄格子で守られている。中世の時代、聖遺物の奪取はよくあることだ。イエスやマリアや12使徒にかかわる聖遺物は、十字軍が異郷の地から奪ってきた物だ。

 (身廊の礼拝堂)

 ありがたさより、不気味さが勝り、もとの身廊に戻って、さらに翼廊の階段を上がると、上の聖堂の内陣脇に出た。

 上の聖堂は、天井が高く、窓が大きく、採光はずっと良い。

 身廊の壁面には一面に、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画が並んでいる。1290年から95年にかけて制作されたと言われ、色彩が豊かで、清澄で、美しい。この絵を見るために、古来、多くの巡礼者が訪れ、今も世界中からキリスト教徒たちがアッシジにやってくる。

 ジョットの30歳頃の最初の大仕事とされてきたが、最近はジョットの作品ではないという説もある。

 ジョット(1267?~1337)はフィレンツェの生まれ。イタリア各地で仕事をし、その後、故郷のフィレンツェに工房を開いた。「花の聖母大聖堂」に付属する「ジョットの鐘塔」は、まちがいなく彼の晩年の作である。ゴシックの終わりごろ~ルネッサンスの前夜に活躍した人である。

 上の聖堂から外へ出ると、広々とした緑の広場だ。ファーサードが清々しい。

  (上の聖堂のファーサード)

       ★

<アッシジの町を散策する>

 石造りの建物の洞窟のようなレストランに入って、昼食をとった。テーブルに色ランブが置かれ、ちょっとロマンチックなレストランだった。

 ヨーロッパの人は、こういう穴倉風のレストランを好む。しかし、私は外気を感じ、青空を見るテラス席が好きだ。

 聖堂の見学を終えると、もう、これを見なければいけないというほどの特別な文化遺産はない。ただ、アッシジの旧市街の雰囲気を感じようと、メイン通りであるサン・フランチェスコ通りを東へ歩いた。

 マップを見ると、小さなアッシジの旧市街の中で、サン・フランチェスコ聖堂は西の端にある。メイン通りを東へ進めば、町の中ほどに旧市街の中心・コムーネ広場。そこをさらに東へ歩けば、サン・ルフィーノ大聖堂やサンタ・キアーラ教会があって、その先は、東の城門になる。

 (サン・フランチェスコ通り)

   メイン通りと言っても、車がぎりぎりすれ違えるぐらいの狭い石畳の道だ。カーブしたり、登り坂・下り坂になったり、車社会を予想して造られた街並みではない。

 建物の下のアーチをくぐる所もある。

 あちこちの石の壁には、聖人の彫像や絵がはめ込まれている。

 瀟洒なショウウインドウの小さな土産物店は、十字架や小さな天使や馬小屋と聖母の人形など、クリスマスに家庭で使うような品ぞろえだ。

 表通りから一歩横道に入ると、ローマ風のレンガに漆喰の壁が古びて、時間が止まったよう。

 丘の町だから、坂道が多く、石段もある。そうした家並みの中に立派な庭があったりする。

 (静かな横道)

 コムーネ広場は、古代ローマ時代にはフォロ(公共広場)だった所だ。

 (コムーネ広場)

 13世紀のポポロの塔が建つ。その向こうは、かつての中世自治都市であった時代の高官の邸宅。

 そして、塔のこちら側は、古代ローマ帝国初期に建てられたミネルヴァの神殿の跡。

(ミネルヴァの神殿)

 古代ギリシャ・ローマ時代の石柱の太さには、いつも圧倒される。

 広場からさらに東へ、一層狭くなった道をたどると、サン・ルフィーノ大聖堂がある。この町の司教様の聖堂だが、サン・フランチェスコ聖堂と比べるとはるかに小さい。この町は、13世紀の初めに出た聖フランチェスコのよって一変したのだ。ただ、それは本人の意図したところでは全くない。

 サンタ・キアーラ聖堂にも行ってみた。

 聖キアーラはアッシジの名門の娘で美人の誉れ高かったが、フランチェスコの生き方に共鳴し、周囲の反対を押し切って修道女となった。女子修道会をつくり、生涯、信仰と清貧と隣人愛に生きた。

 白とピンクの大理石で建てられた瀟洒な聖堂は、聖女を記念する聖堂にふさわしい。地下には聖キアーラの遺骸が納められ、翼廊にはフレスコ画「聖女キアーラの生涯」が描かれている。

       ★

 夕食の帰り、ライトアップされたサン・フランチェスコ聖堂を撮影した。

  (ライトアップされた聖堂)

   ★   ★   ★

3月13日。晴れ。

 気持よく眠り、爽やかな朝を迎えた。

 ホテルの屋上テラスに出ると、ウンブリアの野は今日の晴天を約束するかのように一面に春霞がかかっていた。

 (朝霞にけむるウンブリアの野)

 早朝の観光客のいないサン・フランチェスコ聖堂へもう一度行ってみた。 

 (下の聖堂の扉の前で)

 上の聖堂のステンドグラスやジョットの絵を静かに鑑賞。

 (聖堂へ向かう神職)

 朝の陽ざしを受けて、石造りの街は陰影が濃く、すがすがしい。

 こうして1泊してみないと、その町の雰囲気はわからないものだ。

      ★

 昨日、頼んでおいたタクシーが来た。

 アッシジ駅ではなく、「Foligno(フォリーニョ??)」という駅まで行ってもらった。ここから10時16分発の鈍行に乗れば、乗り換えなしで、ローマへ行ける。これは日本出発前の研究の成果だ。

 ローマ・テルミニ駅には12時23分に到着の予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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