ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

熊野本宮大社、そして融通無碍な日本の神々 … 紀伊・熊野の旅 6

2012年09月22日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

 温泉宿に一日くすぶっているわけにもいかず、昨日は熊野那智大社と熊野速玉大社を巡った。

 こうなったら熊野三山すべてにと、今日は熊野本宮大社へ向かう。

 新宮までは、昨日走った太平洋に沿う国道42号線。その先は、熊野川に沿って、上流へ上流へと、国道168号線を走った。

 十津川を越えて奈良県に出ようというダンプカーが多く、彼らには慣れた道だがこちらは初めて。川沿いのカーブの多い対向1車線の道路を、結構追い上げられながら走る。 

 平安時代から鎌倉時代にかけて、院や、貴族や、宮廷女官、或いは平氏一族らが、紀伊田辺から中辺路を経て熊野本宮大社まで歩き、そのあと、この熊野川を舟で下って、熊野速玉大社、そして熊野那智大社を参詣した。

 山深く、豊かな川幅である。

 瀞峡への道と分かれて、新宮から約1時間車を走らせると、本宮町に入った。

 国道の脇は静かな門前町のようになり、やがてこんもりした山の麓に鳥居が見えた。熊野本宮大社である。

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 白木の大きな鳥居の前に立つと、両側には高く茂った樹木。

 その間を、石段がまっすぐに上へと伸びている。白地に黒々と「熊野大権現」と書かれた幟(ノ ボリ )が並ぶ。

 石段の中央は神様の通る路。参詣者は、上りは右端、下りは左端を歩くと、作法の貼り紙があった。

            ( 熊野本宮大社の鳥居 )

 しんとした静謐な空気。時折、木々の梢を見上げて一呼吸し、そこから差し込む木漏れ日の陰影を踏みながら、158段の石段をゆっくりと登っていった。

 少し息切れし、脚に疲労を感じ出したころに、手水舎がある。

 そこを少し上がると、ヤタガラスの幟や、高々と伸びた枝垂桜の古木があり、その横の門をくぐると、…… 砂利を敷き詰めた空間の正面に、第1殿から第4殿までの社殿が、どっしりと連なっていた。

 19世紀初期に造られた社殿だが、その様式は古くから伝えられてきたものだという。「更新」による「継続」は、日本の文化の特徴である。

               ( 本 殿 )

 昨日の二社と異なり、朱はなく、白木である。それ故、前二社の華やかさや、みやびやかさはない。しかし、いかにも熊野の山奥にしんと鎮まって、鄙びて、静謐の風情がある。

 堂々と並んだ社殿の背景の杜の巨木が、ここが神々の在す神域であることを表しているかのようだ。

司馬遼太郎『この国のかたち五』から。

 「神々は論じない」。

 「感ずる人にだけ、隠喩(メタファ)をもって示す」。                          

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 平安末期に「熊野御幸」が繰り返されたのは、末法思想や浄土信仰の隆盛による。

 それが神仏習合の考え方と溶け合った。

 仏教が伝来するより前の時代から、人々に崇敬されてきた日本の神々は、実は仏や菩薩が仮に形を変えて日本に顕現したものである、ということにした。仏や菩薩の仮の姿が権現( ゴンゲン )である。

 熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神( ケツミミコノオオカミ )に形を変えて現れていたのは、阿弥陀如来であり、それがすなわち熊野大権現である、という。

 こうした神仏習合の考え方は、明治政府によって、神仏分離・廃仏毀釈が行われるまで続いた。 

 いかにもご都合主義の教義のようだが、新しく入ってきた仏教を徐々に日本化しながら、神道と一つものとして受け入れたのは、それがこの列島にすむ人々にとって、自然な心情であったからに違いない。

 今でも、七五三や結婚式は神道で、お葬式は仏教で行うことが多い。年の暮れには除夜の鐘を聞き、新年には神社へ初詣に行く。

 フランシスコ・ザビエルは敬意をもって迎えられ、人々の中にキリスト教の小さな芽も出たが、結局、表層のロマンチックな異国情緒の部分だけが受け入れられ、「クリスマス」や「サンタクロース」が俳句の季語になったが、「天にましまして」、「神を信ずる者(善)か、信じぬ者(悪)か」の二元論をふりかざす唯一絶対神は、敬して遠ざけられた。

 キリスト教より遥かに早く入ってきた儒教についても、同様である。各時代に渡って、日本の知識階級は儒学の書物を山のように輸入し、(日本語化して)これを読んだが、それは学問・教養としての儒学であって、ついに宗教・習俗としての儒教の国にはならなかった。

 「神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない」(ラフカディオ・ハーン『日本の面影』) 。

   「空気のように捕らえることのできない神道」(同) は、融通無碍である。融通無碍が、日本の文化の基盤にある。

 この列島では、神は高き天にあって人間を裁く神ではなく、山や、谷や、木々や、川のせせらぎや、風や、目を閉じれば、どこにでも存在する。田にも、竈にさえも。死を思う人には阿弥陀如来となって心に安らぎを与え、生きることをともに喜び、死は父祖の土に帰ることである。神は多にして一、一にして多。人に寄り添い、人とともに生きる。

 ユーラシア大陸の東の果てのこの列島に、西から、北から、南から、あらゆる雑多な文明・文化が、人をも伴って、黒潮とともに流れ着いた。そこには、山や、谷や、森や、川や、海に、融通無碍な神々がおわして、すべてを受け入れ、長い歳月をかけて、この列島の風土に合うものにしていった。 

 これが旧石器時代以来数千年の、この列島の歴史である。

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 話は熊野本宮大社に戻る。

 今、参拝した社殿は、この地が移されて、まだ120年ほどにしかならない。1889年(明治22年)の洪水で流されるまで、本宮大社の杜と社は、熊野川の中洲にあった。

 国道を横切り、川のほうへ下っていくと、中州があり、畑が作られている。その畑の向こうに、天を衝く鳥居と、こんもりした杜が見える。

  ( 桜と大斎原の大鳥居 )

   訪れるなら、春がいい。

 菜の花畑の向こうの黒っぽい大鳥居は、日本一の高さを誇って印象的である。

 その大鳥居の先のこんもりした大きな木々のなかに、原っぱがある。

 その昔、ここに社殿があった。「大斎原」( オオユノハラ )と呼ばれる。原っぱのあたりにも桜が幾本かあり、石祠があって、いかにも「神域」という感じがする。

 洪水による流出を免れた4つの社殿は、ここから、先ほどの山の杜に移された。

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 車で山の中の道路を少々下ると、湯の峰温泉がある。素朴な湯宿が何軒かあり、湧出する湯の温度は90度を超える。

 その一軒に泊まって、木々に囲まれた露天風呂に入ると、ここもまた神域のような気がし、神々の里に抱かれているような安らぎを覚えた。

 2004年の旅のことを書いてきたが、以後、熊野本宮大社と湯の峰温泉には、毎年、桜の春、蝉の夏、うっすらと雪景色になる冬と、多いときには年3回も訪れるようになった。(この稿、もう1回つづく)。

 

 

 

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