ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本文化の基層 … 風の音やせせらぎの音を

2012年09月29日 | エッセイ

 遠い日の記憶である。 

 敗戦国の日本は、おそろしく貧しかった。

 岡山市内でも、何軒かに1軒は、米軍の空襲で焼け出されて、バラック小屋に住んでいた。主食は麦飯、時に芋まで混ぜた。卵1個がかけがえのない貴重品である。

 米兵と腕を組んで街を闊歩する若い女性たちだけが、多少とも恵まれているように見えた。しかし、彼女たちも、許嫁が戦死し、或いは、家を焼かれて、こうしなければ親や弟妹が明日食べるものもないのだった。 

         ★

 母親から、これから食事のときは、「いただきます」と言いましょう、と言われた。

 幼児にとって、「いただきます」の相手は、ご飯を作ってくれる母親であった。

 「いただきます」。「はい。いただきます」。

 ある日、ふと思った。母親は子どもにお手本を示しているだけなのか?それとも、誰かに向かって、「いただきます」と言っているのだろうか? 

 「いただきます、は、誰に言っているの?」 

 少し考えて、母は答えた。「お米を作ってくれるお百姓さんに感謝して言うの」。

 「魚を獲ってくれた漁師さんには言わないの?」「それに、お米やお魚を運んでくれる人もいるし、それを売ってくれるお店の人にもお世話になっているよ!」「おカネを払っているのに、ご飯を食べるたびに感謝しなければいけないの?」「お百姓さんは、うちのお父さんの仕事に対して、毎日、感謝はしていないよ」。 

 「食べ物が一番大切でしょう。その中でも一番大切なのはご飯だから、お米を作ってくれるお百姓さんに、代表して言うの」。

 子ども心に、釈然としなかった。 

 ある日。汽車とバスを乗り継いで、父の田舎に行った。山のなかの農家である。囲炉裏を囲んでの晩ご飯のとき、ふと思った。 

 お百姓さんは、誰に向かって「いただきます」と言うのだろう?

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 しかし、いつか、そういう疑問も抱かなくなり、社会に出て、高度経済成長期からバブルの時代を働き、あのころの親の年齢もあっという間に超え、さらに歳月を経て、日本が成長しなくなってから定年を迎え、ある日、気づいた。

 生きとし生けるものとそれらを生み育てるもの。

 太陽や、雲や、四季のめぐりや、霧の沸く山や、風や、稲光や、川の流れや、生い茂る草木や、深い海。

 遠い昔から、この列島にあり続け、生成を繰り返してきたもの。

 その背後にある言葉では言い表せない何かに向かって、或いは、それらを象徴する何か、例えば、おてんとうさまに向かって、「いただきます」と言っているのだと。 

 子どものころ、まだ健在で優しかった祖母に、「誰に向かって、いただきますと言うのか?」と聞いていたら、彼女は即座に「おてんとうさま」と答えただろう。なぜなら、彼女は毎朝、玄関に出て、太陽に向かって柏手を打ち、祈っていたから。

 脳学者の研究によると、せせらぎの音、鳥の声、虫の音、風の音、波の音などを、日本人は言語をつかさどる左脳で聞いているそうだ。たいていの民族は右脳で聞く。

 自然界の音を左脳で聞いているのは、他に、太平洋の島々に住む、ポリネシア人、ミクロネシア人だけ。

 大自然とともに生きる民族が、自然界の声や音を言語の次元で聞くのは理解できる。なぜ、東京や大阪のような、世界屈指の大都会に住む、最も工業化・都市化された日本人が? 

 もちろん、これは遺伝子の話ではない。正確に言えば、人種・国籍に関係なく、ネイティブ・ジャパニーズ・スピーカー、つまり、日本語を母語とする人に生じることである。つまり、日本の文化の問題である。

 かつてアフリカ系の魅力的なおばさん、マータイさんが、この国には良い言葉がある、と教えてくれた。「それは、もったいない、という言葉です」。 

 「もったいない」という言葉も、「いただきます」と同じである。例えば、イネをはじめとするあらゆる生命を育んでくれるおてんとうさまに感謝する気持ちがあり、その気持ちが物を粗末にすることに対して、「もったいない」と言わせるのである。

 言葉は言葉としてあるのではなく、民族の文化を内に含んで意味を成す。

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 さらに、もう一つ、気づいたことがある。

 何に向かって「いただきます」と言うのか、という子どもの問いに対して、母はなぜ答えられなかったのか?

 あの時代、占領軍の「日本民主化」作戦によって、日本的なもの ── 政治、経済、宗教、習慣、歴史、道徳、文化、伝統が、「軍国主義的」の名のもとに、徹底的に否定された。

 例えば、キリスト教国の道徳は神の前における「罪」の文化だから質的に高く、日本の道徳は他人を意識した「恥」の文化だからレベルが低い、などという風に。(ベネディクト『菊と刀』)

 占領軍とその追随者によるこの教化策は徹底していたから、母も、多くの日本人も、今までの価値観を否定されて、わからなくなっていたのだ。それで、何に向かって「いただきます」と言うのかを子どもに問われ、とりあえず、働く農民を登場させたのだろう。

 占領軍の「日本」否定は、彼らが去った今も、この国に色濃く残存している。

          ★

 森元首相は、「この国は神の国」と言って、顰蹙を買った。 朝日新聞などは、鬼の首をとったように攻撃した。

 もちろん、キリスト教の国やイスラム教の国ではないのだから、「神の国」は間違いだ。

 或いは、森氏は、イザナギ、イザナミがつくり、アマテラスの子孫が統治する「神州日本」といった記紀的神話的世界観を思い描いて言ったのかもしれない。とすれば、「この国のかたち」が、わかっていないのである。

 例えば、「社」とは、「土地の神」の意である。私の例で言えば、縁あって住み付いた地に風の神が祀られていたから、初詣をはじめ、風の神の神社に参詣する。

 この神社は、古代から、朝廷の信仰も篤く、「大社」であるが、アマテラスとは何の関係もない。

 イネを大風から守るために祀ったのか、また、鉄が貴重品であった古墳時代に、このあたりの強風を利用して鍛冶集団が活躍したという説もある。とにかくこんもりとした杜もあり、清々しく祀られ、これというほどの「言挙げ」はない(教義や理屈はない)。 

 神名を問うなど、余計なことで、ただ「風神」である。

 この国は、縄文の昔から今にいたるまで、このような神々のおわす「神々の国」であった。それが日本文化の基層にある。

 

                 ( 風の神の社 )

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