ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ウィーンでオペレッタを観賞する … ドナウ川の旅7

2022年12月26日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シュテファン大聖堂周辺)

※ [お断り]   ウィーンのことは2012年11月に「遥けきウィーン」と題して3回に渡って書いています。今回も同じ旅を踏まえて書くことになりますので、写真も内容も一部重複することをご了承ください。

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<遥かなるウィーン>

 オーストリアの国土は横(東西)に長く、上下(南北)の幅は狭い。それでも中央部あたりより右(東側)は、少し南北にも広がっている。右を向いた鯉に少し似ているかも。

 周りに海はない。

 左(西)はチロル地方で、スイスに接する。下(南)側はアルプス山脈を隔ててイタリアとスロベニア。上(北)は左からドイツ、そしてチェコ。右(東)側はスロバキアと、その下(南)にハンガリー。

 自然が美しい国だ。

 歴史的には、西欧の辺境の地だった。

 中世の前期、ドイツ王は、東から侵攻してくる騎馬遊牧民のマジャール人に対して、東方辺境伯を置いた。「東方の国(オスターリキ)」がオーストリアの名の起源である。

 その後、ハプスブルグ家の美しい都となった首都ウィーンは、国土の右端(東)の上端(北)にあり、チェコにも、スロバキアにも、ハンガリーにも近い。

 美しい帝都だが、歴史の中では様々な経験もした。

 1529年と1683年の2度に渡って、北上してきたオスマン帝国の大軍に首都は包囲された。

 もっとも2度目のときはオスマン帝国を敗走させ、逆にハンガリーまで併合してしまった。

 ナポレオン軍には敗北し、帝都への入城を許した。ナポレオンが敗北した後は、ウィーンのシェーンブルン宮殿で戦後処理の国際会議が開かれた。歴史の時間に、1814年「会議は踊る」と習った。

 1938年、オーストリアはナチスドイツに併合された。このとき、映画『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ一家は、かっこよくオーストリアを脱出した。

 ドイツ側で第二次世界大戦を戦ったオーストリアは、敗戦後、ソ連、米国、英国、フランスによって分割統治された(1945年~1955年)。瓦礫の残る戦後のウィーンを舞台にした映画『第三の男』は、この時代の話だ。

 地図の上で、日本からウィーンは、パリよりも少し近い。しかし、心理的にはより遠く感じる。異郷。遥かなるウィーン。

 この旅の目的であるドナウ川は、ドイツのレーゲンスブルグ、パッサウを経て、横に長いオーストリアの中央部の北方から流れ入り、オーストリアの北部を右(東)へ、リンツ、メルク、デュルンシュタインなどの景勝の町をつくりながら、ウィーンへと流れていく。

 シュトラウス作曲のワルツ「美しき青きドナウ」は、第2の国歌と言われるそうだ。

 ウィーンを出たドナウ川は、すぐに国境を越えてスロバキアの首都プラチスラヴァに入り、さらにハンガリーへ入って、ハンガリーの首都ブダペストの直前で流れを南に変え、滔々たる大河としてブダペストを流れていく。

 ウィーンもブダペストも、ローマ帝国の防衛線を成すドナウ川沿いの軍団基地に起源をもつ町であった。 

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<文明の交錯するウィーン>

5月27日 曇り、時々小雨。

 ザルツブルグ駅から9時1分発の特急に乗り、ウィーン西駅に11時44分に到着。

 今までの普通列車(鈍行)の旅は、春の陽だまりの中にいるようなのどかさがあった。車両の中は空いていて、乗客の多くはローカルな旅を楽しむヨーロッパ系の旅行者だった。

 特急(新幹線)に乗ると、座席はかなり埋まり、清潔でコンパクトな車内に話し声はなく、展開する車窓の景色を眺める人も少なかった。乗客の半分以上は、旅人というよりもビジネス或いは何かの所用があって、所在ない「移動」の時間を過ごす人に見えた。

 ウィーン西駅は行き止まり駅だ。

 ウィーン。英語でVienna。ドイツ語でWien(ヴィーン)。いずれの響きも美しい。響きがまだ見ぬ都市のイメージをつくり、人々のイメージが都市をそのようにつくっていくのかもしれない。

饗庭孝男『ヨーロッパの四季』から

 「このところ私は毎年のようにウィーンに来ている。パリとは趣が異なるが、心の落ち着く町である。

 かつてはよく汽車で西駅に着いた。パリとウィーンは汽車で15時間、1日に1本通っている。西駅に着くと西ヨーロッパをはるばる横切って、半ばスラヴ圏に入ったという印象を与える。ザルツブルグから東へ向かうにつれて、風景のなかにチェコスロヴァキアやポーランドで見うけるような農家や倉庫が牧場の間に見うけられるからである。窓の花々も少なくなってくる。

 またあちこちに見られるロシア正教会風の教会尖塔を眺めていると、他方でビザンチン圏に入ったとも感じられる。

 一方、不思議なことに北から入る暗いフランツ・ヨゼフ駅に着くと、スラヴ圏から西ヨーロッパの文化圏に帰ってきたという感がつよい。

 このことは、結果としてウィーンが完全に西欧でも東欧でもなく、また宗教がカトリックとしても、必ずしもイタリアやフランスのようなラテン的性格をもたず、ゲルマンとスラヴにビザンチン文化の混融する複合的な性格をもっていることを意味しよう」。

      ★

 地下鉄駅で24時間券を買う。U3で旧市街の中の「ヘレンガッセ」駅へ。

 予約していたホテルは、地下鉄駅のそばだった。旧市街の中だが、近代的なスマートなホテルで、部屋も広く快適だった。

 ホテルに荷物を置き、早速、街歩きに出る。

 前回のツアーの時、シェーブルン宮殿はガイドツアーで丁寧に見学した。その翌日はフリーの1日で、現地のツアーに参加する人も多かったが、こういう自由は私にはありがたかった。朝、ホテルを出て、晩までかけて、1人で旧市街とリンク(環状道路)沿いを歩き、見て回った。

 たいていの見どころはすでに見て回っていたから、今回は何か見学しなければいけないという強迫観念からは解放されている。ウィーンという街を味わえればよい。ただし、今夜はフォルクスオーパーにオペレッタを見に行く。新しいことに挑戦しなければ、旅の意味はない。

 小雨が降ったりやんだりしていた。ザルツブルグでは30度を越えるような暑さだったが、今日は肌寒く、上着を着て、折りたたみの傘を持って歩いた。

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<華やかなウィーンの旧市街を歩く> 

 ウィーンは人口160万人の大都市である。

 だが、旧市街に限れば、南北約1キロ、東西約1.5キロ。旧市街の周りを「リンク」と呼ばれる環状道路が巡り、19世紀に建造された華麗な建造物や公園によって彩られている。その範囲の中を、世界からやってきた老若男女の観光客が歩くカラ、観光客の密度は相当に高い。

 ホテルからヘレンガッセを歩いて行くと、王宮前のミヒャエル広場は指呼の間だった。前回訪れたとき、王宮(ホーフブルグ)はこの広場から眺める姿が一番素晴らしいと思った。だが、観光客が多く写真は撮りにくい。

 13世紀から20世紀の初めまで、600年以上に渡ってハプスブルグ家の王宮だった。その間に、次々と建造物が建て増しされた。いくつもある博物館は有料だが、敷地内(庭園)は市民にも観光客にも開放されている。

 ミヒャエル広場から、トンネルのような宮門の中を潜り抜けて、王宮の敷地へ入った。

 すぐ右は皇帝の居館。左手に最も古い建物のスイス館と王宮礼拝堂。ウィーン少年合唱団はこの礼拝堂のミサで天使の歌を歌う。その横を通って、広々と開けた英雄広場に出る。

 左手に新王宮の大きな建物。広場の向こうの樹木の先に新市庁舎の尖塔がのぞいていた。

  (王 宮)

 一度、王宮の南の門であるブルグ門を出て、そのままブルグ公園を通り抜ける。絵葉書にも登場するモーツアルト像が立っている。写真右下にのぞく赤い花はト音記号。とにかくオシャレな街なのだ。左手には新王宮が見える。

 (ブルグ公園のモーツアルト像)

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 ブルグ公園の東隣にはオペラ座(ウィーン国立歌劇場)。

 (オペラ座)

 音楽の都ウィーンを象徴するオペラ座の石造りの建物も、この前までわが小澤征爾氏が活躍していたと思うと、ちょっと親しみがわく。

 オペラ座の北側には、映画『第三の男』の舞台になった「カフェ・モーツアルト」がある。そのテラス席で軽い昼食をとった。

 (「カフェ・モーツアルト」)

 連合国軍に占領された敗戦国の首都ウィーンは瓦礫が残り、夜は街灯もない。「カフェ・モーツアルト」の暗く狭い店内に主人公のアメリカ人(ジョセフ・コットン)が座っている。占領下のウィーンで警察権を持つ英軍将校(トレヴァー・ハワード)に協力し、かつての友人、今は凶悪犯の男(オーソン・ウェルズ)をおびき出そうとしているのだ。多くの子どもの命を救うためと説得されたが、一方で友を売る行為でもある。

 今はオペラ座や王宮が目と鼻の先の一等地のカフェ。

 だが、ウィーンは瓦礫の残る光と陰のウィーン、そして軽やかなツィターの音色の似合う街だと思う。

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 オペラ座の角を北へ向かう道はケルントナー通り。ウィーンを代表する高級ショップ街だ。

 (高級ショップ街を歩く)

 ケルントナー通りを行くと、グラーベン通りと交差する。その角に、司教座聖堂のシュテファン大聖堂が聳えている。

 グラーベン通りのグラーベンは堀のこと。ローマ軍の軍団基地は四囲を石壁と堀で囲っていた。その南側の堀の跡が今は高級ショップ街のグラーベン通り。

 軍団基地の東側はケルントナー通りの延長線上のショップ街。西の端はTiefer Grabenという名のショップ街で、北側はドナウ川(今は「ドナウ運河」)が堀の代わりをしていた。ドナウ運河の手前には石壁の一部が今も残っている。

 ウィーンの起源は、レーゲンスブルグなどと同じく、ローマ軍団の基地だった。1軍団6千人。軍隊は食料、衣類その他いろんな物を消費する。だから、商人たちも住み着く。辺境の地ドナウ川の沿岸地域にあって、これはもう立派な町である。

 5賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスは、寒い冬をこの地で越し、もうすぐ春を迎えようとする時季に、59年の生涯を終えた。在位中は、資質から言って得意とは言えない戦争に明け暮れた日々だった。

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 (シュテファン広場)

 大聖堂前の広場には地下鉄の駅やタクシー乗り場があり、客待ちする観光用の馬車もいて、観光客でいっぱいだった。

 大聖堂は12世紀に建設されたが焼失し、現在の聖堂建築はハプスブルグ時代に入った1304年に着工され1523年に完成した。外観はゴシック様式だが、中の祭壇はバロック様式。南塔は世界で3番目に高いとか。ハプスブルグ家の歴代の君主の墓所であり、モーツアルトの結婚式も葬儀もここで行われた。

 北塔にはエレベータで上がれるというので、ウィーンの街並みを上空から眺めてみようと、聖堂の中へ入った。ところが、折しも雨が激しくなり、雨宿りを兼ねた観光客で聖堂の中はあふれ返って、人いきれと湿度で息苦しくなる。早々に退散した。

 付近の個性的なアクセサリー店やインテリア雑貨のオシャレな店をのぞいて、雨宿りをした。

 グラーベン通りから南へ曲がるとコールマルクト通り。このショップ街を南へ抜ければ、また王宮前のミヒャエル広場に出る。オシャレなコールマルクト通りの向こうに、クラッシックな王宮が少し覗いて、いい感じだと思ったが、人が多く写真は撮れなかった。

 ホテルに戻って、服を着替えた。

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<オペレッタを見に行く>

 今夜は遅くなる。オペレッタに出発する前に夕食。

 「天満屋」で久しぶりに和食を食べた。天満屋は私が生まれ育った岡山市の一番の目抜き通りにある百貨店。その系列のウィーンの和食店だ。前回のツアーのとき、添乗員に教えてもらった。

 ヨーロッパは和食ブームで、たいていの町に和食店はある。だが、そのほとんどは中国人の店で、日本の寿司の味ではない。

 天満屋は正統な寿司の味。店員の中にウィーンの音楽学校で勉強中という日本人のアルバイト学生もいた。

 (ウィーンの「天満屋」は2014年に営業を終了したようです)。

  オペラ座の前からタクシーに乗ってフォルクスオーパーへ。

 席は一番前の端の席だった。

 (開幕前)

 (開幕を待つ楽団)

 フォルクスオーパーは、音楽の都ウィーンでオペラ座に次ぐ大きさと格式をもっている。

 今日の演目は「こうもり」。シュトラウスが「美しく青きドナウ」で成功を収めたあと作曲したオペレッタ。

 ウィーンでは、大晦日はオペラ座で「こうもり」を上演し、新年には楽友協会のホールでウィン・フィルの「ニューイヤーコンサート」というのが恒例行事になっている。「こうもり」は喜劇だから、大晦日に観賞するのに良いのだろう。

 7時開演。途中、一度休憩が入り、10時15分に終わった。

 言葉はわからないが、おおよそのストーリーは分かり、面白かった。主人公は二枚目でも英雄でもない。真面目そうな銀行家の中年のおじさん。そのおじさんの欲望、嘘と誤魔化し、その発覚が面白く描かれる。主役の男優は、風貌も演技も山崎努にとても似ていると思った。

    (フィナーレ)

 (フォルクスオーパー)

 帰りはタクシーを拾えないから、トラムを乗り継いで帰った。

 トラムの車窓から見るリンク(環状道路)の建物のライトアップが美しかった。

 

 

 

 

 


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