ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ホーエンザルツブルグ城のコンサート … ドナウ川の旅6

2022年12月11日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (夕暮れのザルツブルグ)

      ★

<メンヒスベルクの展望台から>

 ホテルに荷物を置いて、今日の見学は旧市街の北端のメンヒスベルグ展望台から。

 旧市街を眺望できる展望台は3か所ある。

 旧市街を前方から見下ろすカプツィーナーベルクの丘。旧市街を後ろから眺望するのはホーエンザルツブルグ城。どちらも前回のツアーの折、自由時間を利用して上がった。

 今回は横からザルツブルグの街並みを眺望する。

 レジデンツ広場から、モーツアルトの生家のある賑やかなゲトライデガッセを通り抜ける。中国人観光客の多さに驚く。ここ数年、リッチになった中国人観光客の巨大なうねりがヨーロッパに押し寄せてきている。世界が変わってきつつあると感じる。(この旅の当時のことで、その後、日本にもインバウンドの波が押し寄せるようになった)。

 メンヒスベルグの北端の岩山をくり抜いたエレベータに乗って、展望台へ上がった。一般の観光客はほとんどやってこない知る人ぞ知る展望台だ。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中で、マリアと子どもたちが「ドレミの歌」を練習した丘。 

 (メンヒスベルクの丘から)

 この旅で見学したレーゲンスブルグやパッサウは、パステルカラーの色どりが美しい街だった。ザルツブルグは白が目立って清楚な感じだ。

 こうして横から眺めると、尖塔やドームが林立しているのがよくわかる。

 「ロマンチック街道の旅」で訪ねたローテンブルグやニュールンベルグは商工業者(市民)の町。ここは、大司教が君臨し統治してきた一種の宗教都市、「カソリックの町」なのだと、目の前の街並みを眺めながら考えた。

 文化は街並みだと思う。都市の外へ出れば、田園や森や山のたたずまいに文化は表現される。ヨーロッパと日本の違いも、まず、町並みや農村のたたずまいに表れる。

     ★

<オシャレなミラベル庭園>

 次はミラベル庭園へ。

 ザルツァッハ川に架かるマカルト橋を渡れば新市街。その新市街の川沿いにミラベル庭園はある。

 ミラベルとは美しい眺めの意。『サウンド・オブ・ミュージック』の子どもたちの歌声が聞こえてくるようなオシャレな庭園だ。バラが美しい。

(ミラベル庭園から望むホーエンザルツブルグ城)

 ここにはミラベル宮殿もあるが、前回、見学しているので、今回はパス。

 1587年に就任した大司教ディートリヒは、美しい町娘を見初め、聖職者でありながら15人の子をもうけて、愛人のための邸宅を建てた。のちにミラベル宮殿と呼ばれる。市民や信徒の呆れ顔など全く意に介さない大司教様だったが、その後、塩の利権をめぐってバイエルン大公と争い、解任、幽閉されたそうだ。

      ★

<大聖堂はバロック様式>

 大聖堂へ向かう。

 (大聖堂広場へ)

 美しい大聖堂広場には、気品のあるマリア像が立っている。

 (ザルツブルグ大聖堂)

  愛人のためにミラベル宮殿を造った大司教ディートリヒは、イタリアルネッサンスへの憧憬が深く、この町を「北のローマ」にしたいと考えた。ローマは、16世紀にバチカンも、サン・ピエトロ大聖堂も、ローマ市街地も、ミケランジェロやベルニーニの手によってルネッサンス・バロック風に一新されていた。

 ディートリヒ大司教が就任したとき、ザルツブルグ大聖堂は火災で焼失していたから、早速、イタリアから優れた建築家を招いて再建に当たらせた。

 大聖堂が完成し、今、見るような姿になったのは1628年。2代あとの大司教の時である。

 大司教ディートリヒは、大聖堂に隣接して大司教宮殿(レジデンツ)の建設にも取りかかった。完成したのは、やはり2代のちの大司教の時である。

 破天荒な大司教様だったが、こういう人がいなければ、ザルツブルグは世界から観光客が押し寄せる世界遺産の町にはならなかったのかもしれない。

 レジデンツが完成して1世紀以上も後、この町にモーツアルトが生まれた。父は大司教の宮廷楽団の一員だった。周囲を驚嘆させる神童で、少年の頃にレジデンツの広間で、大司教をはじめ並みいる殿方、貴婦人を前にして演奏し、拍手喝采を浴びた。長じてウィーンに出る。

 (大聖堂の身廊)

 大聖堂内は白い大理石がふんだんに使われ、晴朗の感がある。ローマのサン・ピエトロ大聖堂に似ていると感じた。

 円蓋までの高さ71m、身廊の長さ99m。柱や天井はフレスコ画や化粧漆喰で飾られていて、細部は装飾過多のバロック様式。

 晴朗とは明るい空気感。

 「神は光である」という。この晴朗な聖堂にいて、「光」は意識されない。

 分厚い石壁の中、高い窓から差し込む光しかない12世紀のフランスロマネスク大聖堂や、少し遅れて登場した、天を衝く森の暗闇にステンドグラスの輝きしかないフランスゴシック大聖堂の中に入ると、異教徒である私たちでさえ敬虔な思いにさせられる。

 だが、このバロックの晴朗な聖堂からは、名もなき人々の悲しみも喜びも祈りも感じられない。晴朗な美があるのみ。

      ★

<遠い昔の修道院の名残りのサンクト・ペーター教会>

 大聖堂から山(メンヒスベルク)側へ少し歩くと静かな一郭になり、サンクト・ペーター教会がある。

 7世紀、ザルツブルグ地方にキリスト教を布教した司教ルーベルトは、ここにベネディクト会の修道院を創設した。その修道院に付属する礼拝堂がサンクト・ペーター教会。

 中は金箔の装飾で飾られていて、今はすっかりバロックの教会だった。

(サンクト・ペーター教会の墓地)

 教会の庭に墓地がある。映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、ナチスの官憲の手から逃れようとするトラップ一家が、この墓地に隠れた。

 線香の煙が漂うお寺の墓地に慣れた目には、いかにもエキゾチックである。

     ★

<ホーエンザルツブルグ城と室内楽コンサート>

 1077年、西洋史の1頁を飾る事件があった。

 神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世によって、キリスト教から破門されたのだ。(お前は地獄行きだ!!)。 ドイツ諸侯は日頃から皇帝権が強大化するのをおそれていたから、これ幸いとハインリヒ4世から離反した。(キリスト教徒でない皇帝に従う気はない!!)。ハインリヒ4世はやむなく教皇の宿泊するカノッサ城の門の前で、雪の降る中、裸足で、断食して、3日3晩立ち続けて許しを乞うた。「カノッサの屈辱」と呼ばれる。

 もちろん、このあと、ハインリヒ4世の反撃が始まる。聖職者の叙任権はローマ教皇にあるのか、皇帝にあるのか?? この世で一番偉いのは教皇か、皇帝か?? いわゆる叙任権闘争である。

 このとき、ザルツブルグ大司教は教皇を支持し、皇帝支持派の諸侯との戦いに備えてメンヒスベルグの丘の上に城塞を築いた。これがホーエンザルツブルグ城の起源である。

 それから15世紀末まで、歴代の大司教は堡塁、塔、武器庫などを増築し、強固な城塞を造っていった。15世紀末には、城内の大司教用の各部屋も豪華に改装される。

 ホテルに帰って一休みし、日沈みてなお明るい時刻、ホーエンザルツブルグ城へ向かった。

 ケーブルカーで、丘の上の城に上がる。

 城塞の中の部屋は、前回、見学していたから、カット。

 ザルツブルグで私の一押しは、この城塞からの眺望。それも、ザルツブルグの街とは反対方向(ドイツアルプスの方向)の景色。

 小雨が降り出した。ウンタースベルク山はドイツとの国境の山だ。

  (ウンタースベルク山)

 近くを見下ろせば、レオポルツクロン城が見える。

(望遠レンズでレオポルツクロン城)

 これは『サウンド・オブ・ミュージック』の世界。こういう景観を目にすると、ヨーロッパの豊かさに圧倒される。

 「ディナー付コンサート」の「ディナー」はごく庶民的で、美味しかった。

 ディナー会場からコンサート会場へ移動するとき、ザルツブルグの街を見下ろす場所を通った。

 灯(ヒ)点(トモ)し頃の小雨降る旧市街は、昼間の見学のときとは一味違う情趣があった。

 (黄昏のザルツブルグ旧市街)

 コンサート会場は、ホーエンザルツブルグ城の中でも最も立派とされる「領主の間」で。豪勢なねじり柱があった。これもバロック。

 (「領主の間」)

  コンサートは、第一バイオリンとチェロが印象的だった。

  (コンサート) 

 終了したのは午後10時。

 小雨降る中をホテルへ帰った。

 遅くなった。明日は9時1分発の特急列車でウィーンへ。乗車券はネットで既に購入済みだから、遅れるわけにはいかない。

 

 

 

 

 


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