ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

サン・ヴィセンテ岬に立つ…ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅10

2017年01月15日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

   (サン・ヴィセンテ岬) 

沢木耕太郎 『深夜特急 6』 から

 「ふと、私はここに来るために長い旅を続けてきたのではないだろうか、と思った。いくつもの偶然が私をここに連れてきてくれた。その偶然を神などという言葉で置き換える必要はない。それは、風であり、水であり、光であり、そう、バスなのだ。私は乗合バスに揺られてここまで来た。乗合バスがここまで連れてきてくれたのだ……。

 私はそのゴツゴツした岩の上に寝そべり、いつまでも崖に打ち寄せる大西洋の波の音を聞いていた」。

─── 主人公は、「神などという言葉で置き換える必要はない」と言う。「神」とは、キリスト教の神であり、イスラムの神であり、ユダヤの神であろう。そういうものによって説明することを彼はこばむ。そして、「それは、風であり、水であり、光であり」と言い、さらに即物的に、「そう、バスなのだ」と言う。

 日本を離れ、ユーラシア大陸を放浪して1年になるが、主人公の感性は、正真正銘の日本人である。そこが、いい。

    ★   ★   ★

9月30日 

 4泊したホテルを出て、今日は、今回の旅の第1の目的地であるサグレスへ向かう。

 司馬遼太郎の 『街道をゆく 南蛮のみち』 の前半はフランシスコ・ザビエルを追う旅であり、後半はエンリケ航海王子を追う旅である。

 私の旅も、司馬遼太郎とともに、エンリケ航海王子の足跡を求める旅に戻ることになる。

 ポルトガルの国土は、北から南へ、縦に長い長方形の形をしている。その底辺に当たる線の一番西に、サグレスという町(村)がある。大西洋が、ジブラルタル海峡へ向かって西から東へ湾曲する、その湾曲の、西のとっかかりである。そこに、サン・ヴィセンテ岬と、入江を一つ隔てて、サグレス岬がある。ユーラシア大陸の最西南端である。

 この旅のリスボンの初日、ロカ岬へ行った。ロカ岬は、サグレスの二つの岬よりも経度においてやや西にあり、ユーラシア大陸の最西端の岬とされるが、首都リスボンに近く、観光地である。

 一方、サグレスの岬は、首都から遠く、ポルトガルの辺境の地と言っていい。列車はラゴスという町までしか行かない。終着駅からは、乗合バスしかない (この旅では、たまたまネットで見つけたネットタクシーを予約した)。

 エンリケ航海王子は、このサグレスに住まいを置き、気象(天文)、造船、航海術、地図製作術などの専門家を集めて、「航海学校」を開いた。学校と言っても、研究機関の要素を強く持っていただろう。

 もっとも、そこには痕跡らしきものが残っているだけで、文献資料に乏しく、「エンリケ航海王子の航海学校」の存在に異議を唱える学者も多いそうだ。

 だが、こういう伝説は、実証主義に毒された疑い深い学者の意に反して、たいていの場合、「事実」である。私などは、信じて、楽観している。

        ★

< 沢木耕太郎の『深夜特急』とサグレス >

 それにしても、遥々と大陸の東の果てから訪ねていく旅人にとって、そこは辺境の地である。だから、行くにあたってはネットでいろいろ調べた。『地球の歩き方』の記述もごく小量なのだから、ネットの情報が頼りである。

 調べていると、意外にも、一人旅で、ここを訪ねている日本人が結構いることがわかった。その紀行がブログとして掲載されていて、参考になった。若い人たちだ。 (旅行当時の年齢だが)。

   なぜ、彼ら (なかには彼女もいる) は、たった一人で、サグレスを目指したのか その動機も、ブログに書かれている。彼らの冒険心をそそったのは、司馬遼太郎ではない。沢木耕太郎の『深夜特急』である。

 それで、『深夜特急』の最終巻を読んでみた。

 ナイーブで、賢く、思慮深い、バックパッカーの青年が、ユーラシア大陸を路線バスを乗り継ぎ、安宿に泊まり、一期一会の出会いをしながら、一人、旅をしていく。1年も旅をし続けて、もう終わりにしなければならないと思い始めるが、踏ん切りがつかない。

 そういうある夜、リスボンのバイロ・アルト地区を歩いていたとき、酔っ払いの、コワモテ風の、英語を話すおっちゃんにつかまり、レストラン、というより食堂のようなところで、ご馳走になる。イカのフライを食べていると、ビールも注文してくれた。以下、『深夜特急』からの引用である。

        ☆ 

 ラベルに「SAGRES」とある。

 「サ・グ・レ・ス」

 私がそれを読みながら口に出して発音すると、男は頷いて言った。

 「そう、サグレス」

 サグレスとはどんな意味なのか。私は単に話の継ぎ穂にというくらいの気持ちで訊ねた。

 「土地の名さ」

 「サグレスという土地?」

 「岬がある」

 「それはどこですか」

 私は興味を覚えて訊ねた。男はテーブルの周囲を見回した。書くものを探しているらしい。少年 (ウエイターの少年) に言いつけ、注文取りに使うザラ紙とボールペンを持ってこさせた。そこにイベリア半島の概略図を描くと、ボールペンの先で突いた。

 「ここさ」

 印がついたのは、ポルトガルの、というより、イベリア半島の西南の端の地点だった。

 「ここがサグレスだ」

 私はユーラシアの果てはリスボンだと思い込んでいた。しかし、ポルトガルには、当然のことながら、リスボンよりはるかに果ての土地があったのだ。男が描いてくれた地図によれば、サグレスはポルトガルの果てであり、イベリア半島の果てであり、だからユーラシア大陸の一方の果てだった。

 「サグレスというのはどんなところですか」

 「行ったことはないが、きっと何もないところさ」

 それはますます心惹かれる土地だ。ユーラシアの果ての、ビールと同じ名を持つ岬。サグレス。音の響きも悪くない。

        ☆

 こうして、主人公は、サグレスへ向かう。

 サグレスの旅でも危機はあったが、ペンションを経営する青年とその母親に助けられ、主人公はサグレス岬と、サン・ヴィセント岬に立つことができた。そして、……「これで終わりにしようかな」、と思うのである。

 『深夜特急』を読んだ若い読者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見て、旅に出た。「青年よ、荒野を目指せ」、である。だが、誰にも諸事情があるから、主人公のように1年も旅を続けることはなかなかできない。しかし、せめて、主人公が「これで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思う。

 サグレスの2つの岬は、実は、こういう日本の若者の青春の岬でもあったのである。 

    ★   ★   ★

< 大西洋の港町ラゴスへ、鉄道の旅 >

 朝、7時。呼んでもらっていたタクシーに乗り、リスボン・オリエンテ駅へ。

  ( 人けのないリスボン・オリエンテ駅 )

 ポルトガルは鉄道網が発達しているとは言えないが、リスボンを中心にして、北部のポルトと、南部のファーロの間を特急が結んでいる。ポルトはポルトガル発祥の地であり、ファーロはイスラム勢力を大西洋に追い落として、レコンキスタを終了させた港町である。

 ファーロ行きの特急は10分遅れて、8時35分に出発した。

 「4月25日橋」を渡り、大都会リスボンが尽きると… 、あとは、畑らしい畑もなく、人家もなく、林の中を列車はひたすら走った。

 『南蛮のみち』のなかで、ポルトガル在住の川口実氏が、司馬遼太郎に説明している。「テージョ川から北は、ゆたかな農業地帯で、工業もさかんなんです。しかしテージョ川から南のこのあたりは、降雨量もすくなく、地味がわるいらしいですね。このように、人口も極端に過疎です」。

 ただ、ところどころに、コルクの林があった。

 樹皮を剥ぎ、ワインの栓にする。軽く、伸縮力があり、水はとおさない。ポルトガルの主要輸出品の一つである。

      (コルクの林)

 10時52分、TUNIS駅でファーロ行きの特急を降り、2両編成の鈍行に乗り換えた。あと1時間少々だ。

 人跡の感じられなかった景色に、TUNIS駅を出たあたりから畑や人家が現れた。集落の家々は、ヨーロッパというよりイスラム圏の影響が一層濃く、風土も含めて北アフリカという感じだった。貴族の大邸宅といった感じの家もある。リスボンより北が商人や小規模な農民の世界であるのに対し、南部地方は大土地所有者(貴族)の世界で、なかなか近代化しないと、何かで読んだことがある。

   12時10分、大西洋に臨む港町、ラゴスに着いた。ここで、鉄路は尽きる。

        ★

< サグレスのペンションへ >

 ポルトガルの最初の王朝・ブルゴーニュ王朝のとき、ポルトガルの南端・ファーロでイスラム勢を大西洋に追い落とし、レコンキスタは終了した。

 だが、そのあとも、ポルトガルの商船は、地中海を荒らしまわるイスラムの海賊に苦しめられた。造船においても、操船においても、風を読み羅針盤を操る技術においても、イスラム圏の方がまだ上だった。

 もっとも、地中海の海賊は、アフリカからやって来るイスラムのモーロ人だけではない。モーロ人に負けない航海技術を身につけたヨーロッパ側のジェノヴァの商船も、バイキングも、海賊行為を行った。この時代、海賊行為を行わなかったのは、ヴェネツィア商船だけである。ヴェネツィアは海軍をつくり、定期航路を巡回させ、護送船団方式で、自国の商船を守った。 

 ポルトガル周辺の海賊の根拠地の一つは、アフリカ大陸北岸のセウタであった。セウタは、ジブラルタル海峡をはさんで、ジブラルタルの対岸にある要塞都市である。ヨーロッパに最も近い。

 1414年、ポルトガルの2番目の王朝・アヴィス朝の創始者・ジョアン1世は、数万の軍勢を船に乗せ、このラゴスから船出して、セウタを攻略した。「騎士」はいわば陸軍将校であり、海には不慣れである。ラゴスは、ポルトガル軍が初めて地中海を渡って、アフリカに遠征したという、ポルトガル史に残る港町である。

 この戦いが、21歳のエンリケ王子の初陣であり、この初陣によって、彼は父王から、騎士の称号を与えられた。

        ★  

 ラゴス駅には、ネット・タクシーの運転手がちゃんと待ってくれていた。運転手は、マダムだった。

 普通のタクシーと違って、ネットで宣伝し、ネットで受け付ける。顧客は、インターナショナルだ。私のように、ユーラシア大陸の反対側からも、依頼が来る。顧客の側にとっては、料金体系が明示されているから、安心である。ラゴスから、サグレスのどこでも、〇〇ユーロである。予約制だから、ママさんドライバーにとって、家を空ける時間がはっきりしている。中・遠距離専用だから、1回の出動でそれなりの稼ぎもある。こうして女性の働く場はどんどん広がっていく。ヨーロッパの働き方改革の進展には、学ぶ必要がある。

 30分少々で、サグレス岬の根元に位置する、レプブリカ広場のホテルに到着した。

 家族経営の小さなホテルだが、受付の青年も、その母親らしい年配の女性も、『深夜特急』で主人公が助けてもらった、サグレスのペンションの若い主人とその母親のように、とても感じのいい人だった。

 チェック・インを済ませ、部屋に荷物をおいて、バス停のあるレプブリカ広場に出た。

 明日は、また、ラゴスから列車でリスボンまで引き返し、さらに乗り継いでトマールという町まで行かねばならない。明朝早く、先ほどのネットタクシーのマダムが迎えに来る。遥々とやってきたが、今から日暮れまでの数時間が、サグレス観光の時間である。      

        ★

< サン・ヴィセンテ岬に立つ >

 サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、ラゴスからやってくる。ただし、ほとんどのバスはレプブリカ広場で分かれ、サン・ヴィセンテ岬へ行くバスは、1日2本しかない。その1本が14時25分発である。これを逃すと、自分の足で、片道1時間かけて歩かなければならない。レンタサイクルでも、道が悪く、30分もかかるらしい。

 帰りも、そのバスに乗る。周囲に何もない所だが、サン・ヴィセンテ岬が始発駅だ。行先はラゴスである。そのバスの出発時間は15時5分。サン・ヴィセンテ岬での滞在時間は30分だけである。

 広場の樹木の隙間から海がのぞき、潮騒の音が聞こえた。日差しがきつく、暑い。ここはアフリカだ。

 レブプリカ広場には、海に向かって、エンリケ航海王子の像が建っていた。この旅で見た彼の彫像や絵の中で、一番年を取り、一番それらしい雰囲気があった。

( レブプリカ広場のエンリケ航海王子像)

 突然、日本語で話しかけられた。「バスはここで待っていればいいのでしょうか」。振り向くと、40歳くらい、痩身、一人旅の男である。

 しばらく話した。何と、フランスからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路を歩きとおし、そこからバスを乗り継いでリスボンまで南下。リスボンを観光した後、さらにバスでここサグレスまでやって来たという。

 「時々、こういう旅をして、自分の角(カド)を削ぎ落さないと、生きられなくなりますから」。確かに、話をしていると、時に角がのぞく。だから、きっと、日本の社会のなかで息苦しくなって、思い切って一人旅に出るのだろう。

 それにしても、すごい旅だと、心の内で感心していたら、「そのお年で、よくこんなところまで旅をしようという気になりましたねえ、すごいです」と、ひどく感心されてしまった。

        ★

 歩くと1時間だが、バスなら10分。

 向こうに灯台がぽつんと建っている。バスの停まった野っばらは、すぐ先が断崖である。

 灯台以外、人間のにおいのするものは何もない。荒々しい大自然があるのみだ。

 バスを降りた何人かの人々は、自然に人間のにおいのする人工物・灯台の方へ歩き出す。

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台遠望 )

  ( サン・ヴィセンテ岬の灯台の入口 )

 灯台の構内に入ってみるが、ごく小さな土産店があるばかりで、他に何もない。

 伝説では、ここ、サン・ヴィセンテ岬に、エンリケ航海王子の居宅があったという。そうであるならと、司馬遼太郎は、この灯台の構内で井戸をさがしている。そして、「とても井戸を掘りぬけるような場所ではなさそうで、おそらく邸はこの後方のどこかにあったのにちがいない」と結論付けている (『南蛮のみち』)。

 灯台を出て、むき出しの断崖の方へ向かう。

 「イベリア半島を特徴づけるテーブル状の台地 (メセタ) がつづき、山はない。日本では、山が海に沈んだところが岬だが、ここではまな板のような大地が海に向かっている」 (『南蛮のみち』)。

 「どの断崖も、ビスケットを割ったような断面である」 (同)。

 今日もまた雲一つなく、大地はここに終わり、茫々とした海が、ここから始まる。

   

  断崖の上に、人がいた。夫は背を向けて帰ろうとしているが、奥さんはこわごわ断崖の縁に近づいて、90mの下を覗き、コンパクトカメラで写真を撮ろうとしている。

 夫が振り向いて、写真を撮る妻の様子をパチリ。

 断崖をのぞく奥さんを見ていると、こちらの足もすくんでくる。

  向こうに、サグレス岬が見えた。入江を一つ隔てている。

 エンリケは、あの岬に航海学校をつくった。

 彼は、毎日、そこから、南の海に遥かに思いを馳せた。人々の言うように、そこは、世界の果て、煮えたぎる海なのだろうか

 そんなバカな話はない。

   行ってみるしかない。行動あるのみ。そのために、一つ一つ順を追って、着実に準備していく。昨日よりも今日は、もう一歩遠くへ。

          ( サグレス岬遠望 )

         ★

< エンリケ航海王子のこと ── 司馬遼太郎 『南蛮のみち』 から >

 エンリケ航海王子のことを書く司馬遼太郎の文章は、感動的だ。ここに引用する。ぜひ、味わって読んでいただきたい。

〇 「ジョアン1世が、王位についたときはまだ若く、同盟国の英国の王族から王妃をめとった。彼女は同盟のきずなであっただけでなく、聡明であった。さらに女性にはめずらしく航海術や地理学に強烈な関心をもっていて、息子たちに影響した。

 この英国うまれの王妃は、ほとんどお伽話めくほどに賢い王子を3人生んだ。次男は彼女の地理学好きを伝承した。この次男はヨーロッパの各地を旅行し、マルコ・ポーロの『東方見聞録』をはじめてポルトガルにもたらした。おそらく14世紀に成立したラテン語写本であったろう。『東方見聞録』は、ポルトガルのひとびとに読まれた。なかでも、『黄金の島日本 (チパング)』のくだりが、関心をひいた。この章こそ、おおぜいの航海者を新世界に奔らせるもとになったということは、よく知られている」。

 「三男こそ、母親の航海好きを相続したエンリケであり、のち、ポルトガルが海へ出てゆくためのあらゆる準備をし、指揮をとる人物になる。ついでながら、やがて王になる長男は、法典や制度の準備がすきであった。ポルトガルの黄金時代は、この3兄弟によってひらかれた。むろんかれらに相続争いなどはなく、エンリケは王子のまま生涯を送った」。

〇  「大航海時代の前夜、ポルトガルの宮廷は一つの学院のようであった」

 「思慮ぶかいジョアン1世は、どちらかといえば舞台の暗がりにすわっている。イギリスから輿入れしてきた聡明で、弾むような知的好奇心に富んだ王妃フィリッパが、この空気のつくり手であった。彼女のよき遺伝をうけた3人の息子たちのうち、長男は法律の知識を、次男は地理の知識を、三男エンリケ航海王子は天文、航海、造船に関する知識を吸収し、集積した」。

〇 「かれの性格には、ラテン的な特質が見られない。むしろ母からうけた ── 物に凝るという ── イギリス人かたぎのほうがつよく、ついにはにぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建てた。その住居そのものが航海に関する研究所であった。

 日常、法衣 (ロープ) を着、女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中しながら、しかも組織的な頭脳をもち、それを順序よく実行した。英語よみでヘンリーとよばれるこの航海王子は、古くから英国人に好まれ、「かれは英国人なんだ」と、むりやりにいうむきもあるらしい。なにしろのちの英国海軍といえども、その祖を求めるとすればポルトガル人エンリケになる」。

 (この項つづく)

 

 

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