10月27日
< アドリア海へ >
このツアーに参加した目的は、アドリア海を見たかったから。ツアーのタイトルも「紺碧のアドリア海感動紀行」だ。今日は、そのアドリア海へ向かう。
「早く紺碧のアドリア海を見たいですねえ」 「でも、紺碧、というのはなかなかむずかしいかもよ」 「よほどお天気が良ければ」 「季節も関係するかもね」 「見られなかったら、運がなかったと潔くあきらめます」 「でも、紺碧、を見られたらいいですねえ」
独り言のようなわがロマンティシズムが、買い物好きのおばさんたちの中にもすこーしだけ伝染し、「紺碧」が、おばさんたちの旅のボキャブラリーの一つとして使われ出した。
「紺碧のアドリア海」は、どこに? すでに旅に出て6日目である。雑貨店巡り、チョコレート屋巡りをするために、ここまで来たのではない!! …… などとは、思っても、決して口走らない。だから、おじさん族はやりにくい、と白い眼で見られるだけだ。
★
本日のバスの走行距離は約280㌔。走行所要時間は5時間。途中、シベニク、トゥロギールという二つの海港都市を観光するから、宿泊地スプリットに到着するのは、午後6時ごろの予定。
プリトゥヴィツェ湖群国立公園を出て、山あいの道路を走り、やがて野や畑や林の道路となり、どんよりと曇った車窓の景色にも退屈してきたころ … 高速道路の長いトンネルを抜けると、いきなり、まぶしい光とともに、真っ青な空が広がった。ほどなく、海らしきものが見え始める。
地図を見ると、ザダルという港湾都市の辺りと思われ、細長く半島が伸び、島々が連なって、海峡のような景色になっている。
(車窓から)
★
< アドリア海の東岸・ダルマチア地方 >
クロアチア共和国は、L という文字を上下、ひっくり返したような形をしている。首都のザグレブから西へ西へと行くと、アドリア海に出る。
アドリア海に出ると、国土は南へ南へと細長く伸びる。この細長く伸びたアドリア海沿岸地域を、ダルマチア地方と呼ぶ。
海とはいえ、大海原が広がる景色ではない。入り組んだ海岸線に、千近くも島々がある。日本の瀬戸内海に似ているだろうか。
天候が悪化すれば、島蔭や入江にすぐに逃げ込めるから、古くから天然の良港があった。貿易港である。
南北に細長いのは、すぐ背後までディナルアルプスが迫っているからである。樹木の生えない、白っぽい岩山の連続で、その向こう、山並みの東側には、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国があり、さらに東にはセルビア共和国がある。
遠い昔、王国があったらしい。紀元前2~3世紀、その王国は併合されて共和制時代のローマの属州となった。由来、この地に住む人たちの中には、我らは最も早くからローマ文明圏にいた、というアイデンティティがある。もちろん、ここで言うローマとは、後の東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のことではなく、パクスロマーナ時代のローマである。
4世紀、皇帝ディオクレティアヌスの時代に、ローマは4人の皇帝、副帝によって分割・防衛されることとなり、アドリア海以東は、東ローマ圏に入った。
476年の西ローマ帝国滅亡後、ダルマチア地方は、侵入してきたゴード族の支配下に置かれるが、535年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が侵攻・奪還する。
しかし、その後、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は衰退に向かっていき、この地の防衛に手が回らない。
7世紀、ダルマチアに、クロアチア人(スラブ系)が移住を始める。
774年、フランク王国が南下して、ダルマチア地方を支配したが、ビザンチン帝国との衝突を避けて引き上げた。しかし、このとき以来、この地方の住民はカソリック教徒となった。
「宗主国」は依然として、一応、ビザンチン帝国。宗教的には、山の東側のボスニア・ヘルツェゴビナやセルビアは正教。ダルマチアやそれより北方の地はカソリックとなった。ゆえに、この地方の人々の中には、自分たちはカソリックを信仰するラテン系の民族であるというアイデンティティがある。
998年、無政府状態になり、スラブ系の海賊が荒らしまわっていたダルマチア沿岸部に、通商国家を目ざすようになったヴェネツィアが乗り出してくる。
その後は、一時、クロアチア王国が生まれ、その国もハンガリー王国の支配下に置かれ、そのハンガリー王国もまたオスマン帝国に滅ぼされるという歴史の大変動があった。
が、これらの領土国家や膨張する強大国に対抗して、山の西側の海岸線の主要な港湾都市を、15世紀以降18世紀までの4世紀の間守り続けたのは、「アドリア海の女王」と呼ばれたヴェネツィア共和国であった。
★
< アドリア海はヴェネツィアの海だった >
以下、塩野七生『海の都の物語』(中公文庫)の「第二話 海へ!!」からの引用。
「航海することによって、豊かになる道が二つある。
一つは、交易に従事することであり、他の一つは、海賊を業とすることである。
生まれたばかりの海洋国家ヴェネツィア共和国は、第一の道をとる。となれば、彼らの最初の対決の相手が、ヴェネツィア商船の航行の安全を脅かす海賊となるのは当然である」。
「海賊にとっては、格好の地形であったに違いない。入り江にひそみ、物見の知らせる商船が近づくや、快速船を駆って襲う。隠れ場所にもこと欠かない。海賊の横行が、アドリア海の西岸ではなく東岸に集中したのも納得がいく。10世紀当時のアドリア海に出没した海賊は、ローマ帝国崩壊以後南下をはじめていた、スラブ民族であった」。
「西暦998年の5月、キリスト昇天祭の日を期して、37歳になっていた元首ピエトロ・オルセオロ二世は、多数の軍船を率いてヴェネツィアの港を出帆した。行先はザーラ(現ザダル)である。その地には、(海賊から) ヴェネツィア共和国の保護を求めてきた、20以上のアドリア海東岸の都市の代表が、保護を与えられる代わりに恭順と服従の誓いを捧げようと待ち受けていた」。
(こうして、海賊の掃討作戦は徹底的に遂行される)。
「この勝利に満足したビザンチン帝国皇帝は、(ヴェネツィアの)元首に「ダルマチアの公爵」の称号を与えて、その労をねぎらった」。
「ヴェネツィア共和国は、…… アドリア海東岸の諸都市の恭順と服従に、ほぼ完全な自治権を与えることによって応じたのであった。ヴェネツィアの義務は、その海軍によってこれらの都市を守ることであり、それに対する諸都市の義務は、ヴェネツィア商業の基地の提供と、水夫の調達を許すことであった。スキヤヴォーニと呼ばれるこの地方出身の水夫の数は多く、ヴェネツィアの街の港の一つは、『リヴァ・デリ・スキヤヴォーニ』、スキヤヴォーニの河岸、と、現在でも呼ばれている」。
★
こうして、ヴェネツィア共和国は、アドリア海の港湾諸都市に、船の修理工場、倉庫、病院などを造り、要塞を築いて、「高速道路のSA」のようにして、ビザンチン帝国(のちにはオスマン帝国)やエジプトなどとの東方貿易の足場にしたのである。
ヴェネツィアがダルマチア地方を自国の領土としなかったのは、当時、人口10万人程度の都市国家に過ぎなかったヴェネツィアには荷が重すぎたからである。そのようにして領土国家として発展するよりは、海洋貿易国家として羽ばたく方を選んだのである。
この後、ヴェネツィア共和国は、地中海貿易の覇権をめぐって、半分海賊国家であったジェノヴァ (あの7つの海を遊弋したイギリス海軍も、元は海賊船の寄せ集めだった) や、強大国・オスマン帝国と、幾度にも渡って戦うことを余儀なくされたが、ヴェネツィアの商船や軍船には、いつもスキヤヴォーニと呼ばれるこの地方出身の水夫たちも乗り、ヴェネツィアとともに戦ったのである。
★
< 石畳の美しい海港都市・シベニク >
シベニクは、クロアチアのアドリア海岸のほぼ真ん中にあり、クロアチア人がつくった最古の町とされる。中・近世には、やはりヴェネツィア共和国の支配下にあった。
( 海に臨むシベニクの町 )
( 海岸通り )
海岸通りを歩き、右に石段を上がって行くと、聖ヤコブ大聖堂がある。
(聖ヤコブ大聖堂と校外学習に来た子ら)
シベニクは教会の多い町だが、その中でも「シベニクの宝」とされるのが、ユネスコの世界文化遺産に認定された聖ヤコブ大聖堂。
1431年から100年以上かけて、当初はゴシック様式で、途中からルネッサンス様式で建設された。レンガや木の補助を全く使わずに建てられた石造建築としては、世界一の大きさを誇る。しかもその石は、イスタンブールのアヤソフィア、ヴェネツィアのドカーレ(元首)宮、そして、ワシントンのホワイトハウスと同じ最高級の石材が使われているそうだ。
( 教会が多い町 )
古い路地を歩くと、石畳の美しさに気づく。
ヨーロッパの町を歩くと、すっかり摩耗し、凸凹ができて歩きにくい石畳もあるが、ここはほどよく丸みを帯び、光沢があって、陰影が美しい。
オスマン帝国の侵攻に備え、ヴェネツィアはこの町を守るために4つの要塞を築いた。その一つ、聖ミカエル要塞はすぐ街はずれにあり、今は廃墟となったこの要塞からの眺望は素晴らしいという。だが、ツアーは、世界遺産の大聖堂を見て、街中をブラブラ歩いたら、おしまい。残念……。
★
< 岬巡りのバスの旅 >
岬巡りのバスの旅は楽しい。車窓風景に飽きない。
トゥロギールへ行く途中、綺麗な景色があるからと、バスを駐車させ、しばらく写真撮影の時間をとってくれた。地図を見ると、プリモステンという小さな町のようだ。
秋の日ははやくも傾き、「紺碧の海」というわけにはいかないが、美しい風景である。
★
< 城壁に囲まれた小島の町・トゥロギール >
トゥロギールは、本土とチオヴォ島の間にある小島につくられた町である。
その中心部 (旧市街) は城壁で囲まれ、その中の狭い空間に、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど、さまざまな時代の教会、塔、宮殿、住居がひしめいている。
街の起源は古い。BC3世紀、ギリシャ人の植民都市としてスタートした。古代ギリシャ、古代ローマ、そして、ヴェネツィア共和国の影響を受けて造られてきた街である。
( 本土と隔てる海 )
運河のような海溝に架かる橋を渡ると、城門があり、旧市街の中へ入る。
( トゥロギールの町 )
( 男性4人のコーラス )
街角の美しい回廊で、アカペラの男性合唱を聞いた。クロアチアの民俗的なメロディ、古典的で端正な回廊、回廊のもつ音響効果などが相まって、すばらしかった。彼らのCDを買う。しかし、ここで聞くから感動するのだろう。
写真の、石のベンチに座る2人目のエキゾチックな長身女性は、現地ガイドである。
★
< 閑 話 >
歴史的文化遺産や自然遺産は、それぞれの国にとって誇りである。ヨーロッパではどこの国でも、ツアーの添乗員が、「にわか勉強の生半可な知識」や「勝手な思い込み」、時には「反〇的歴史観」で、観光客に説明をすることを、法令で禁じている。(夫婦や友人同士は別)。
勉強し、試験を受け、資格を認定された専門職としてのガイドがいて、行く先々で彼らを雇い、彼らに案内してもらい、彼らの説明を聞かなければならない。もちろん、ガイドは専門的な知識を持つだけでなく、自分たちの誇るべき文化遺産や自然遺産に対するツアー客のマナーにも注意を払う。行く先々のガイドから、中国人観光客のマナーのひどさ、ガイドのボヤキを聞いた。
それでは添乗員の仕事はというと、英語で話すガイドの説明を翻訳するのである。もっとも、それぞれのツアーにはそれぞれのツアーの都合 (回りたい場所や時間の制約、ツアー客の興味・関心など) もあるから、ガイドと添乗員の関係は、阿吽の呼吸ということになる。
日本で、マナーの悪い東アジア系のツアーに、地方の神主さんが激怒しているという話も聞く。ホテルの備品が盗まれるくらいではすまない。下手をすれば文化財が破壊される。日本の歴史や文化についても、どういう説明がされているのかチェック機能もない。「爆買い」ばかり喜んではいられない。
★
南の城門を出ると、視界が大きく開け、広々とした波止場に出た。
( 城門を出る )
波止場の先には、チオヴォ島があり、橋で結ばれている。
橋に、釣りをするおじさんがいた。さっきから釣りの仕掛けを作っている。
( 釣りをする人 )
すでに日は傾き、西の海の方から降り注ぐ斜光が赤みを帯びている。
( 橋からの眺望 )
波止場を歩いて行くと、ギターを弾くおじさんがいた。こうして、今日一日で、どれほどの収入があったのだろう。
( ギターを弾く人 )
波止場の端に、15世紀にヴェネツィアが築いたカメルレンゴの砦がある。残念ながら、冬時間の今は不定期にしか開けないらしい。
( ヴェネツィアが築いたカメルレンゴの砦 )
秋の日の落ちるのは、釣瓶落としの日本よりも早い。
( 黄昏のトゥロギール )
トゥロギールから、今夜のホテルのあるスプリットまでは、バスで30分少々。
…… しかし、全身で、その街の空気を感じるには、その街で1泊はしないと…ネ。2時間ばかり、さあっと歩いて、その街を見た、ということにはならないなあ。そう、五感で感じるには、街の夜のにぎわいも味わい、早朝の冷たく、澄み切った空気にも触れることが必要だ。