ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ブルゴーニュ公国の都ディジョン……陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 6

2015年07月15日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

   ( ホテルの窓からギョーム門付近 )

ディジョンへ >

 5月25日(月)。曇り。

   スイスのローザンヌからTGBで2時間 …… 日本ではボジョレーヌーボーやシャブリなどのワインで有名なブルゴーニュ地方にやってきた。

 ブドウ畑があり、小麦畑が広がり、牧草地には牛の群れ。林の中には鈴懸の木が小さな白い花をつけ、小さな村と教会の塔。そして、丘の上には白い雲。

 今日から、その中心都市、人口15万人の県都ディジョンに3泊して、ブルゴーニュ地方を回る。

 駅から重いスーツケースを引いて10分少々。タクシーに乗るには近すぎ、歩くには腰痛持ちには遠すぎる所にホテルをとってしまった。

 旧市街の入り口にギョーム門がある。

   ( ギョーム門 )

 この門から、ディジョン第一の繁華街リベルテ通りが、ブルゴーニュ大公宮殿へと続く。ホテルはこのギョーム門を入ったところの広場に面していた。 

        ★

サン・ベニーニュ大聖堂のクリプト(地下祭室) >

 ディジョンは、かつてブルゴーニュ公国の都であった。

 ブルゴーニュ公国は、1363年から1477年、4代に渡って、この地・ブルゴーニュ地方から、遠くフランドル地方(現在のベルギー、オランダ)までを領土として栄えた。その最盛期にはフランス王国をしのぐほど豊かであったと言われ、建築や美術の華が開いた。

 その後、男子の後継者が絶え、婿に入ったのがハブスブルグ家の嫡男である。ハブスブルグの繁栄は、豊かなブルゴーニュ公国を受け継いだ結果でもある。

 今はもう、かつての華やかさはない。だが、石造りの古い建物が並び、あちこちにかつての繁栄のあとをとどめるように大寺院が建つ。

 それらの中でも最も重要な教会が、ホテルから徒歩5分の距離にあるサン・ベニーニュ大聖堂でだ。

 歩いて行くと、この町で一番高いという大聖堂の塔が見えてきた。

  ( サン・ベニーニュ大聖堂の塔 )

 ゴシック様式である。

 ゴシック様式は、ロマネスク様式の後、フランス王家の菩提寺であるサンドニ修道院に始まり、列柱が森の木々のように高くそびえる巨大な伽藍とステンドグラスの窓を特徴として、パリ、シャルトル、ランスなど、王家の領土の都市に建設されていった。やがて、フランス諸侯領の都市へ、さらにドイツ、スイス、フランドル地方、スペインなどへと波及していく。(当ブログ「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅」参照)。

 そのようなゴシック様式の大聖堂のなかで、サン・ベニーニュ大聖堂は、伽藍の大きさやステンドグラスの美しさにおいて、パリやシャルトルを超えるものではない。

 

  ( 身廊とステンドグラス )

   たが、ガイドブックによると、この大聖堂で必見とされるのは、ゴシック様式の地上部分ではなく、地下のクリプト (地下祭室) である。

 受付の柔和な感じのおじさんにクリプトへ降りる入場料を払い、日本語の手作りの説明チラシをもらった。日本のツアーがめったにコースに組み入れないこのローカルな大聖堂の日本語説明チラシが、英語やドイツ語やイタリア語とともに用意されているということは、個人で、ここまで遥々と見学にやってきた日本人がたくさんいたということであり、ちょっと感慨深い。

 興味津々、暗い地下へ降りて行く。

 

  ( 本当はもっと暗いクリプト )

 ほのかな明かりが灯されただけのクリプト内部は、深い陰影部が多く、そこに石棺があったり、井戸があったりする。中央の祭室は円形で、椅子だけが並べられて人けはなく、黒いフードに黒マントの男たちによる黒ミサが、今にも行われそうな雰囲気でかなり不気味だった。

 出発する前にガイドブックを読んでもよくわからず、受付でもらった日本語チラシの説明も、かなりたどたどしい日本語で、それでも帰国して2度、3度読み直して、やっと、そこがどういう所かわかってきた。

 その歴史は、フランスのキリスト教史の流れと軌を一にするもので、例によって紅山雪夫氏の著書『 ヨーロッパものしり紀行──建築・美術工芸品 』も参考にして記述すると、以下のようになる。(自分の頭の整理のための記述です。読み飛ばしてください)

① ガロ・ローマの時代に、今は大聖堂の名になっているベニーニュという宣教師が、キリスト教の布教にやって来て、この地で殉教した。死後、ローマ教会によって聖人とされ、名の前に「サン」が付けられた。その墓には小さな霊廟が建てられた。

 ※ ガロ・ローマの時代 : ガロはガリア。ガリアはフランス、或いは、フランスに住んでいたローマ以前からの先住民。諸部族に分かれていたが、BC1世紀、カエサルのガリア遠征でローマに帰属。ガロ・ローマ時代は、西ローマ帝国滅亡までの、ガリア文化とローマ文化が融合した時代を言う。

② 1001年~1026年に、すでに廃墟となっていた霊廟の上に、ロマネスク様式の立派な聖堂(パジリカ)が建てられた。その構造は、地下部分はサン・ベニーニュの霊廟で円形。霊廟の地上部には円形の建築が乗り、その円形建築を後陣として身廊部が造られて、パジリカになっていた。

 今、見ているこの円形のクリプトは、このとき造られたロマネスク様式の円形建築の地下部分の霊廟に当たる。しおりには、「この円形建築はロマネスク芸術の傑作です」と書かれていた。

 円形のクリプトの石柱の天井に接する部分には、写真のような柱頭彫刻があった。しおりには、「中世の名も知れぬ芸術家は、祈祷を捧げる人、つまり、腕を上げ、空を仰いでいる人を表現したかったのです」とあった。まことに素朴なロマネスク彫刻である。

   ( 柱頭彫刻 )

 ※ パジリカ : ローマ時代からあった建築様式で、身廊と側廊をもち、平面が長方形の建築物。この形式で建てられた教会は、一般の教会よりも格式が高かった。

 ※ 後陣 : アブス。パジリカのいちばん奥にある半円形のでっぱり。ローマ時代のパジリカにもあったが、のち、キリスト教会では、この部分をキリストの頭、身廊部をキリストの体に見立てるようになった。大聖堂(カテドラル)の場合には、ここに司教座 (カテドラ) が置かれた

 ※ 円形の建築物 : 長方形のパジリカ様式に対して、「集中式」と呼ばれる円形の建築様式。神々を祀るローマのパンテノン神殿はその典型。その後、キリスト教では洗礼堂とか、エルサレムの聖墳墓教会や、ラヴェンナのガッラ・プラチィーデアの廟など、聖人の遺骸を納める霊廟として建てられた。   

 ※ ロマネスク様式 :

   蛮族の侵入による西ローマ帝国の崩壊後、西ヨーロッパは長い暗黒の世紀を経ることになるが (6世紀~10世紀)、ようやく10世紀の後半、農業の生産性が上がり、暮らしにゆとりが生まれ、手工業や商業が復活し、大型の諸侯が現れ、国王が強い権力を握るようになっていった。こうして蓄積されたエネルギーが、10世紀末からの教会建築ブームを呼び起こす。国王、貴族、民衆は、それまでの粗末な教会を打ち壊し、競って最新の様式による大パジリカを建造していった。その中心にいたのが、度重なる寄進を受けて財力を増やした修道院、なかんずくクリュニー派の修道院であった。

 この、10世紀末に起こり、11~12世紀に西ヨーロッパの全域に流行した建築様式がロマネスク様式と呼ばれる。

 ロマネスク様式とは、「ローマ風の」という意味だが、この呼び方が生まれたのは後世(18世紀)のことで、ローマ時代の建築法が使われ、全体的にローマ風の重厚な趣があったことによる。

 この頃、聖地巡礼が流行り出す。ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂は、殉教者・サン・ベニーニュの遺骸を納めた聖堂として、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラに行く  ( 当ブログ 「冬のンチャゴ・デ・コンポステーラ紀行」 を参照 )  巡礼者たちが立ち寄る巡礼路の一つとなり、賑わった。

 

         ( 考古学博物館 )

 現在、大聖堂の敷地内にある考古学博物館は、ガロ・ローマ時代の素朴な彫刻やロマネスク時代の柱頭彫刻などが展示されて面白かったが、建物自体も10世紀のクリュニー派の修道院を改造したもので、風情がある。

③ 1270年、ロマネスク様式のパジリカが倒壊し、円形建築だけが残った。

  その跡地にゴシック様式の大聖堂が建築された。現在の大聖堂である。

④ 1789年~1793年のフランス革命のときに、ロマネスク様式の円形建築の地上部分が破壊され、地面の下に埋もれていた円形建築の地下部分はその存在すら忘れ去られていた。が、1860年ごろから発掘・調査・再建されていった。

 篠沢秀夫『フランス三昧』(中公新書)には、フランスの歴史学界で進められている「フランス大革命」の見直しが紹介されていて、たいへん面白いが、その中で、篠沢先生は、フランス革命の矛先は、王侯貴族よりもむしろ教会であったと述べている。

 ※ ついでながら、篠沢先生の著書、『愛国心の探求』(同)も、ヨーロッパにおける第二次大戦が何であったかを説いて、目を開かれる。

 いずれにしろ、暴徒と化した革命派民衆は、ほとんど無意味に(ルイ16世は早くに彼らの政治的要求のほとんどを承認していたのに)、多くの人間を殺し、文化財を破壊した。それは、現代のタリバンや「イスラム国」と変わりない。これも、また、フランスの歴史の1ページである。

 実際、あの「アヴィニヨンの幽囚」で有名なアヴィニヨンの教皇庁も、百年戦争のとき浮沈戦艦のようであった「モン・サン・ミッシェル」も、フランス革命のときに破壊されて、見学しても、中は空っぽである。わずかに残る彫像や絵も、顔を削り取られたり、落書きがあって、すさまじい。

 

   ( アヴィニヨンの教皇庁 )

         ( モン・サン・ミッシェル )

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ブルゴーニュ大公宮殿 >

 ギョーム門から、ディジョン一の繁華街と言われるリベルテ通りを歩く。

 「ディジョン一」と言っても、人口15万人の都市では、花のパリのような賑わいはない。数人の移民系の若者が通りにたむろし、ペットボトルを投げて大型犬に取りに行かせ、犬がウインドショッピングして歩く通行人の間を疾走していた。

 ブルゴーニュ大公宮殿は、現在、左側が市庁舎、右側が美術館になっている。真ん中の塔に上がれば、ディジョンの街並みが一望できると書いてあるが、あいにくひどい腰痛である。

 

     ( ブルゴーニュ大公宮殿 )

 ( サン・ミッシェル教会 )

  さらに先に足を伸ばすと、「レストランMASAMI」という日本人ご夫婦の営む和風レストランがある。

  夜、遠かったが、もう一度、リベルテ通りを歩き、久しぶりに和食をいただいた。日本のよく冷えたビールも、燗酒も、刺身も、生気がよみがえるほどに美味しかった。

 

 

 

 

 

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