ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の終わりに ── 「人のためにもならず、学問の進歩にも役立たず」 … 文明の十字路・シチリアへの旅12

2014年06月19日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

          ( セリヌンテの神殿跡 )

 大手旅行業者の企画したシチリア・ツアー。 「出発確定」に指定された日への参加だが、参加者はわずか10名。なにしろ、行先がローカルなのだ。

 1組のご夫婦を除いて、皆さん、どうも60歳以上の高齢者。季節は好いのだが、現役で働いている人に5月の海外旅行はむずかしい。

 それにしても、こんなローカルな企画に参加してくる人たちだから、聞くともなく話を聞いていると、ありふれたヨーロッパツアーなどとっくに卒業してしまったという感じである。

 アフリカの草原でライオンを間近に見たときは感動したとか、ナスカの地上絵をセスナ機から見たとか、南米のウニタ塩湖で、夜、自分の頭上を超えて彼方へ流れる天の川が、湖面に映じて、また自分の足元へ流れてくる光景に言葉を失ったとか …。

 とにかく、旅行業者の企画するほとんどのツアーを制覇する勢いで、言葉どおり世界を股にかけていらっしゃる。

   私の場合、大自然の生み出した絶景や、人類の造りだした奇観を、とにかく 「 何でも見てやろう」、という旅行はしていない。

   それで、残りの人生、手を広げずに、西欧にしぼって、その歴史と文化を知りたいと思って、旅をしてきた、と言ったら、1組のご夫婦から、ヨーロッパは所詮、斜陽だ。日本はとっくに追いつき、追い越している。「クール・ジャパン」を知らないのか?と言われた。さらに、中国、韓国に行ったかと聞くから、韓国には行ったと答えたら、白い目で見られた。

 最近、中国、韓国の「反日」大合唱に対する反動で、日本のなかでもナショナリズムの気分が台頭してきている。気持はよくわかるが、しかし、中国、韓国と同じレベルの「偏狭な愛国心」の行きつく先を、日本人はすでに歴史のなかで経験している。

 そもそも、「クール・ジャパン」は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 などとは言わないものだ。

 それに、今、世界の中で、国民一人当たりの生産性が高く、豊かなライフスタイルをつくりだしている国は、いろいろあっても、やはり北欧諸国やオランダ、ドイツ、オーストリアなどで、西欧の懐の深さを侮ってはいけない。 

          ★

 明治維新以後、日本は、西欧をモデルにして、日本の近代化のために、必死で学習してきた。 

 しかし、今は21世紀。西欧の歴史と文化を知りたいという私の旅のテーマは、明治日本の、西欧をモデルにし、西欧に追いつき追い越せという学習動機とは、全く異質のものである。

 例えば、鎌倉時代について、学校で勉強した以上のことを知りたいと思って、本を読んだり、フィールドワークの旅をしたりする人は、今の日本よりも鎌倉時代の方が優れていると考え、鎌倉時代に追いつき、追い越そうと考えているわけではない。

 知りたいから、知ろうとして、本を読み、旅をする。それが人間というものだ。

 もちろん、鎌倉時代について、なぜ学校で勉強する以上のことを知りたいのかと言えば、鎌倉時代に何か心ひかれるものがあるからに違いない。広い意味で何かリスペクトしたくなるような、或いは、ロマンを感じるようなものがあるから、知りたいと思うのだ。

 同じように、もともと西欧の文明と文化にロマンを感じ、敬意をもっているから、西欧をもっと知りたいと思うのである。

 だからと言って、現代社会が鎌倉時代より劣っているなどとと考えているわけではないのと同じように、西欧文明の全てが、日本より優れていると考えているわけではない。

 逆に、鎌倉時代を深く知れば、そのことを通して、現代日本のものの感じ方や生き方について改めて気づくこともあり、現代日本についての理解が深まるということもある。

 同じように、西欧文明を知れば知るほど、日本について振り返って考えるようになり、日本の歴史や文化を、以前よりもずっと深く理解できるようになったし、愛情をもてるようになった。

 一方、西欧文明について深く知れば、西欧文明の中にひそむ醜い一面もリアルに見えるようになり、当然、批判的な見方もまた、生じてくるのである。

 西欧かぶれも良くないが、だからといって、日本かぶれが良い、というわけでもない。贔屓の引き倒しは、誤った愛国心である。

 韓国に旅行したのは、今の韓国に何かを学ぼうと思ったわけでも、併合時代のことを詫びる気持ちからでもない。今の隣国を、報道や本だけでなく、自分自身の目で見ておきたいということ、それに、遥かな昔、伽耶国や百済や新羅や高句麗と日本との関係に興味があり、その舞台となった韓国の地理・風土に触れたかったからである。 

         ★

 というような動機をもって旅をしているから、できるだけ自分の足で歩き、自分の目で見、空気を肌で感じ、自分のペースで行動したい。計画の段階から、見たいもの、行きたい所、泊まりたい町を、自分で決めたい。

 それでも、自力では行きにくいところ、一人では不安に思うところだけ、旅行業者の企画するツアーを利用する。ツアーに参加して、どうしても気になる町があれば、そこへはもう一度、今度は自分で計画を立てて行ってみる。

 それが私の西欧旅行のやり方である。

         ★ 

 理屈を述べたが、早い話、高校生に、「海外旅行へ行くとして、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、北米、南米、オセアニアの、どこへ行きたいですか?」 というアンケート調査すると、8割以上の高校生が 「ヨーロッパ!」 と答える。これは、いつの時代でも、同じだ。

 牧歌的なスイスの高原も、海の都のヴェネツィアも、シャンソンが空に広がるようなセーヌ河畔も、「ロマンチック街道」のお伽の町もお城も … ヨーロッパは、抒情的で、物語的で、美しく、魅力的なのだ。これは理屈ではない。

 だから、私の本当の旅の目的は、高校時代からの夢・あこがれを実現したい、ということに過ぎないのかもしれない。

 青年、沢木耕太郎は、たった一人で、カネもなく、バスを乗り継ぎ、安宿に泊まり、遥々とユーラシア大陸を越える旅をした。彼は言う、「およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ」と。有名な『深夜特急』の中の一節である。

 私の旅は、沢木青年の文章の前半部分があてはまる。

 私の旅は ──「人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、記録を作るものでもなく、血沸き肉躍る冒険大活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能」な旅である。

 だが、他人にとって、既に何度も行った、何の変哲もない行先であっても、肌の色も違い、言葉も通じない異郷への旅は、私一個にとって、心ときめく「未知」への旅である。「未知」への旅である以上、それは心躍る「冒険」でもある。

 脚力も、体力も、年々、衰え、腰痛持ちで、最近は不眠症で、12時間以上の空の旅に耐え、遥々とユーラシア大陸を越えて、もし旅の途中、異郷の地で倒れたら…と、最近は旅に出る前に思わぬでもないが、「野ざらしを 心に風の しむ身かな」の芭蕉と違って、いざというときは、最後の力をふりしぼってでも、愛する日本には帰ってくる。

 「もう、良かろう」と、あきらめるようになったら、いよいよ老境である。

 もう少し、がんばってみよう。[  了  ]

 

       ( ローマ空港付近 )

 

 

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