一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

中倉宏美女流二段は、女優の原田夏希、モデルのマギー、女優の朝倉あきに似ている。

2016-01-26 12:52:37 | 似ている
今日1月26日は、LPSA代表理事・中倉宏美女流二段のお誕生日。おめでとうございます!!

その宏美女流二段は、女優の原田夏希に似ていると思う。
原田夏希は1984年7月7日、静岡県生まれの31歳。中学2年の時にスカウトされ、2001年、映画出演にてデビュー。2004年、大学在学中にNHK朝の連続テレビ小説「わかば」で主人公を務め、一躍全国区となる。
2007年に大学を卒業後は芸能活動に専念し、それまで以上にテレビや映画への出演が増えた。ただ個人的には、レギュラー番組への出演が少ないように思われる。
現在はテレビ東京系「警視庁ゼロ係~生活安全課なんでも相談室~」に安智理沙子役としてレギュラー出演中。彼女には珍しくコミカルな役で、その演技に注目である。
宏美女流二段と原田夏希は、全体の雰囲気が似ていると思う。

宏美女流二段はもう一人、モデルのマギーに似ていると思う。
マギーは1992年5月14日、兵庫県生まれの23歳。2008年、スカウトされデビュー。
父はスイス人、母は日本人で、折からのハーフタレントブームで、2011年ごろからメディアへの登場が多くなった。
昨年からは「PEACH JOHN」のモデルに起用され、愛読者の私としてはうれしい限り。ちなみに同誌の撮影の際には数日前から計画的にダイエットするなど、プロフェッショナルな部分も持っている。
最近はテレビ出演も倍増し、今やハーフタレントの第一人者といっていい。今後の活躍がいっそう期待される。
宏美女流二段とマギーは、全体の雰囲気、肌質と口元が似ていると思う。

宏美女流二段は今一人、女優の朝倉あきに似ていると思う。
朝倉あきは1991年9月23日、福岡県生まれの24歳。2006年、第6回シンデレラコンテストへの出場を機に芸能界入り。
2010年、「とめはねっ! 鈴里高校書道部」でテレビドラマ初主演を果たす。
2013年、スタジオジブリ「かぐや姫の物語」のかぐや姫の声を担当する。同年11月24日付のスポーツ報知の特集記事では、「高畑勲監督が、かぐや姫を普通の一人の女の子として描いているのに驚いた」と述べた。
昨年はあの「下町ロケット」に、佃製作所勤務の加納アキ役で登場。その存在感が光った。
宏美女流二段と朝倉あきは、肌質とおでこのあたりが似ていると思う。朝倉あきは、室田伊緒女流二段や室谷由紀女流二段にも似ており、とにかくかわいい。
また宏美女流二段はほかにも、女優の山口まゆに似ている気もするが、これは保留にしておこう。

宏美女流二段がLPSAの代表理事に就任したのが2014年2月だから、約2年になる。この間、数々の女流アマ棋戦を開催し、イベントをこなし、本当に宏美女流二段はよくやってきた。
LPSA在籍女流棋士の平均年齢がじわじわ高くなっているのがアレだが、信ずれば道は開ける。
今後の活躍に期待します。
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イチヨの金

2016-01-25 22:52:21 | 女流棋士
今朝見た夢を軽く記しておく。
私はあるデパートのフロアマネージャーになり、スーツ姿でフロアを巡回していた。
そこでいろいろトラブルがあり私はひっかきまわされたのだが、内容はほとんど忘れてしまった。

   ◇

今期の女流名人戦五番勝負に清水市代女流六段が出てきたのにはビックリした。私のリーグ展開予想は甲斐智美女流五段、上田初美女流三段、中村真梨花女流三段の三つ巴の争いだったからだ。
しかし終わってみると、上田女流三段の休場もあって、清水女流六段が余裕の優勝。再び女流名人戦の舞台に躍り出たのである。
女流名人は里見香奈。ところが清水女流六段の対里見戦が、絶望的に悪い。タイトル戦は7回戦って0勝7敗。女流名人戦では0勝4敗という惨憺たる結果だ。
勝負事は水物だからフタを開けてみなければ分からない、という常套句は当ブログでは述べない。今期も清水女流六段がストレート負けすると思った。
ところが17日の第1局は、清水女流六段の勝ち! これは清水女流六段がよくやった。
となれば重要なのが第2局だ。ここで清水女流六段が勝てば奪取の望みが出てくるが、負ければ三番勝負に逆戻り。この展開は清水女流六段が辛い。とにかく第2局は、清水女流六段が絶対に勝たねばならぬ勝負だった。

第2局が行われた24日は、私は大野・植山教室にお邪魔したので、対局の経過は知らなかった。ただ、清水将棋に心酔しているFuj氏がたいそうよろこんでいたので、清水女流六段らしい手が出たとは思った。
では清水女流六段らしい手とは何か。それは独特な金の使い方にある。一般的に金はトドメの駒とされるが、清水女流六段はそれを「エッ? そこに使いますか!?」というところに平気で打つ。
実例を挙げる。2008年に行われた第19期女流王位戦五番勝負第5局で清水女流王位は、石橋幸緒女流四段相手に、参考1図で△8二金!と打った。そして▲9一馬に△7二金左(参考2図)。


当日LPSA駒込サロンでは片上大輔六段を招いて解説会を行っていたが、思わぬ3手に片上六段が「将棋のルールが(馬を詰ますルールに)変わったのかと思いました」とつぶやいたものだ。
また2012年の第5期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦・対長谷川優貴女流初段(当時)との一戦で、参考3図で清水女流六段は、△1四金!と打った(参考4図)。


どうであろう。もはや善悪を越えた一手ではないか。思えば清水女流六段の兄弟子の中原誠十六世名人も、時にベタ金を打つことがあったが、清水女流六段のそれはレベルが違う。この局面でイチヨに金を打てるのは、清水女流六段しかいない。
ただ、こうした金はやはり棋理に反するのだろう。上記2局はいずれも激戦の末、清水女流六段が敗れている。よって本局は矛盾するようだが、市代流の金打ちが出たら、「清水女流六段が負ける」と思い、PCの再生ボタンを押した。
将棋は後手番・里見女流名人の向かい飛車。清水女流六段が▲2五歩を早く決めたので、ここに振ったものだろう。
清水女流六段は舟囲いに囲い、▲9七角から揺さぶりを掛ける。清水女流六段は穴熊にもぐることもあるが、基本的には舟囲いという昭和の囲いから細い攻めを繋ぐのが抜群にうまい。このあたりも兄弟子譲りである。
将棋は清水女流六段優勢、というか勝勢に近かったらしい。だがそこから清水女流六段がよろけ、ついに清水流の金打ちが出た。
第1図の▲4三金!

角を取るためとはいえ、金を手放しては戦果が薄い。さらに△6六歩▲4四金△4九飛に、▲5九金打!! これには心底驚いた(第2図)。

金の3連は1984年2月27日に指されたNHK杯将棋トーナメント決勝戦・大山康晴十五世名人対加藤一二三九段の一戦で、大山十五世名人が▲4九金打(参考5図)としたのが思い出されるが、本局の金は受け過ぎではないかと思った。

もっともツイッター解説の牧野光則五段の見解は「手堅い」で、「先手勝勢」とまで言い切った。しかし私は、清水女流六段が負けるんだろうな、と思った。
果たして結果は里見女流名人の勝ち。対戦成績を1勝1敗のタイとした。
清水女流六段は敗れはしたが、さすがにタイトル43期を誇る大棋士である。ここまでの2局を見て、残りの3局もイケそうな気がしてきた。今後も魅せる将棋を期待しています。
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林葉直子さんは、元歌手の浜田朱里に似ている。

2016-01-24 12:49:40 | 似ている
今日1月24日は、林葉直子さんの48歳のお誕生日。おめでとうございます!!
男性も女性も中年になると誕生日はイヤなものだが、体調不良の林葉さんは違う。ひとつ齢を重ねることが貴いのだ。
その林葉直子さんは、元歌手の浜田朱里に似ていると思う。
浜田朱里は1962年11月1日、東京都生まれの53歳。
1980年に歌手として芸能界デビュー。その愛らしいルックスで人気を博したが、この頃はアイドルの全盛時代。松田聖子をはじめ数々のアイドルが席巻し、浜田朱里の存在はやや霞んでいた。ただ3曲目のシングル「青い花火」は名曲で、私はいまも冒頭の部分を歌える。
本人は女優志望で、のちに女優転向を果たす。TBS「水戸黄門」にはシリーズごとに1回はゲストで登場していた。
写真集も数冊出しているが、露出の激しいものが多い。ことに1990年発売の「ハーフ・ムーン」は大変なプレミアが付いているはずで、この発売を知らなかった当時の自分に腹が立つ。
もし浜田朱里が現在のアイドルだったら、ハナから歌手はやらず、グラビアアイドルとして、テレビや雑誌で大活躍していたと思う。ちょうど柳ゆり菜の位置づけである。浜田朱里の登場は、やや早かったのだ。
1995年、惜しまれつつ引退した。
林葉直子さんと浜田朱里は、声質と口元のあたりが似ていると思う。あと、写真集を出したところも共通しているか。

林葉直子さんが将棋界から離れて久しい。今は地元に戻っているようだが、体調が回復したら、またファンの前に顔を見せてほしいと思う。
ファンはいつまでも待っています。
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一二三の名局・1

2016-01-23 13:29:08 | 名局
今日1月23日は「1、2、3」で加藤一二三九段を連想する。そこで今日は、加藤九段の名局を紹介する。加藤九段の実戦集では必ず紹介される、あの名局である。

1968年12月3、4日
第7期十段戦七番勝負 第4局
於:神奈川県鶴巻温泉「陣屋」
持ち時間:各9時間

△十段 大山康晴
▲八段 加藤一二三

▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲2五歩△3三角▲4八銀△3二銀▲5六歩△4二飛▲6八玉△6二玉▲7八玉△7二玉▲5八金右△8二玉▲5五歩△4三銀▲5七銀△7二銀
▲5六銀△5二金左▲6八銀△6四歩▲9六歩△9四歩▲6六歩△5四歩▲同歩△同銀▲5五歩△6三銀引▲6五歩△同歩▲同銀△6四歩▲5六銀△7四歩▲3六歩△2二飛
▲4六歩△2四歩▲同歩△同飛▲2五歩△2二飛▲3五歩△同歩▲3四歩△5一角▲5四歩△4三金▲2四歩△同角▲5五銀△5二歩(第1図)

大山×加藤のタイトル戦はこれが6度目。過去5回はいずれも大山十段が勝っていた。
本七番勝負は、加藤八段の●●○で第4局を迎えた。対局日は12月3~4日で、これも偶然の「1、2,3」。大山十段の四間飛車に、加藤八段の採った作戦は、今では絶滅した5筋位取り。
中央で細かい歩交換があったあと、大山十段は△2二飛と転戦する。加藤八段は天王山に銀を進出し、△5二歩で初日を終えた。
そして次の3手が、加藤八段渾身の構想だった。

第1図以下の指し手。▲4四銀△同金▲6二歩(第2図)

▲4四銀と進出したあと、△同金に▲同角と取らず、一本▲6二歩と叩いたのが絶妙手。加藤九段の棋士生活61年半、約2,500局の中で、最高の一手といってよい。1975年、大泉書店発行の「加藤一二三実戦集」によれば、▲6二歩で単に▲4四同角だと、△3三角▲2二飛成△4四角▲2一竜△9九角成で先手不利、とある。しかし▲6二歩△同金を利かしておけば、金が浮いていて攻めやすくなるのだ。そこで後手は△7一金と寄ったが、この利かしが入ったのは大きかった。
なお巷では、加藤八段が「▲6二歩」に7時間考えた、と伝えられているが、この手に420分を記録したわけではない。同書によると、就寝前に2時間考え、結論が出ないまま眠りに落ちた、とある。
2日目、▲4四銀の消費時間は1時間55分。肝心の▲6二歩の消費時間は不明だが、29分以下である。▲4四銀を指した時点では▲6二歩は浮かんでいたと思われるので、短時間の着手なわけだ。
ただ、▲6二歩を昼休後に指したという加藤八段の証言があり、となれば確かに、すべての考慮時間を合算すれば、7時間を越えそうである。

第2図以下の指し手。△7一金▲4四角△3三角▲2二飛成△4四角▲2一竜△6二角▲4一飛△3八角▲3三歩成△5六角成▲6七金△5五馬▲7七銀△6五歩▲4三と△6六銀▲6八金上△6七銀不成▲同金
△6六金▲5七銀△6七金▲同玉△5四馬▲4五金△6四馬▲5五金打△7三馬▲5四桂△8四歩▲1一竜△2八歩▲6二桂成△同馬▲6四香△2九歩成▲5二と
まで、97手で加藤八段の勝ち。

▲2一竜に△6二角が辛抱の手だ。勢いは△9九角成だが、▲4一飛△6二金▲7一飛成△7三玉▲7九金とし、次に▲8五桂を狙って先手勝勢となる。▲4一飛が▲7一飛成の先手になるのが、▲6二歩△7一金の効果だ。
以下は加藤八段が大山十段の攻めをガッチリ受け、そのあとは反撃に転じ、キッチリ寄せた。
これで加藤八段はタイに追いついた。続く第5局を負け、第6局は必敗の将棋を拾い、最終第7局は激戦のすえ勝利し、うれしい初タイトルとなったのであった。
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ある大棋士の運命を変えた男

2016-01-22 00:24:04 | 男性棋士
21日放送の「和風総本家」。神棚に関する問題が出たが、拙宅には立派な神棚があるので、この答えはすぐに分かった。しかしその意味するところが、今回初めて分かった。

   ◇

かなり旧聞になるが、昨年の12月5日、関屋喜代作八段が逝去した。享年、盤寿の81歳。
1955年、四段昇段。四間飛車を多用し、軽い捌きを得意とした。山岳写真家でもある。
目隠し将棋で3面指し、早指しの名手、60歳でNHK杯本戦初出場などいろいろエピソードがある。河口俊彦八段の著書によると、関屋八段らが棋士仲間と冬山登山をした時、道に迷ってしまったという。ある棋士が雪道を進もうとすると、「待て!」と関屋八段の声。ためしに雪玉を投げると、その一角が崩れていった。そこは「雪庇」だったのだ。
関屋八段の鋭い洞察でみなが救われた、私の好きなエピソードである。
また関屋八段は。1978年から80年まで「週刊少年キング」に連載された、つのだじろうの名作漫画「5五の龍」の、詰将棋と次の一手コーナーを担当していた。よって当時の子供たちは、A級棋士の名前は言えなくても、関屋八段の名前は知っていた。
関屋八段は1979年度の第38期順位戦C級2組で降級したが、当時はフリークラスという呼称はなく、強いて言えばC級3組の扱いで指した。だが第40期順位戦からC級2組は降級点制度がなくなり、その後もほかのC級3組の棋士が引退したりして、C級3組の棋士が関屋八段だけになってしまったことがある。いわゆる「孤高のフリーランス」(週刊将棋の見出しより)であった(C級2組の降級点制度は、第46期に復活した)。
1994年、現役引退。

なお関屋八段は、ある大棋士の運命を変えたかもしれないのだ。それは1979年3月16日に指された第37期順位戦C級2組最終局の、関屋六段対谷川浩司四段戦である。
この時点で関屋六段は2勝7敗で降級点が決定していた。一方谷川四段は7勝2敗で、勝てば昇級という大一番だった。
後手番関屋六段の四間飛車で始まった本局は、谷川四段が左美濃に構える。中盤、関屋六段の玉頭攻めが奏功し、優勢。

しかし第1図から▲5五馬△6四金打▲8三歩△同銀▲4三飛△7三桂▲5九歩△5五金▲6三飛成(第2図)と進み、谷川四段がおもしろい形勢になった。

「将棋世界」平成14年9月号付録「谷川浩司九段1000勝までの歩み」によると、▲5五馬には△6四歩でよかったらしい。また▲8三歩には△同玉でよく、以下▲7五桂△同歩▲5六馬△6五桂▲2九馬△7六歩(参考図)で後手勝勢だった。

結果も谷川四段の勝ち。嬉しい昇級となった。
しかしもし、この将棋に谷川四段が負けていたら…。実際の谷川四段はC級2組で1年足踏みしたものの、その後はノンストップで名人に駆け上がっていた。よってこの期に昇級できなかったら、「谷川名人」も1年は遅れたことになる。
となると、現在名人5期の谷川九段は4期になり、永世名人の資格を取得できたかどうか、怪しい。
勝負事にタラレバを言っても意味がないが、こういう想像もおもしろい。
コメント (2)
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