一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

天来の妙手50年

2021-04-30 00:10:48 | 将棋雑記
いまからちょうど50年前の1971年4月30日・5月1日、東京都千代田区「ふくでん」で、第30期名人戦第3局が指された。対局者は名人12連覇中の大山康晴名人と、53歳の挑戦者・升田幸三九段である。
1勝1敗で迎えた本局、升田九段は後手番ながら、第2局に続き石田流を採用した。石田流とは江戸時代の強豪・石田検校が発案したとされる。升田九段はこの数年前から石田流をたびたび指していたが、それを名人戦の大舞台でぶつけたのだ。
本局も一進一退の攻防が続いたが、わずかに升田九段がリードしたまま、2日目の午後を迎えた。
升田九段は「苦心の作か。傑作……」とつぶやき、△8四桂と勢いよく据えた。これに控室では▲8五角を予想していたが、大山名人は▲7九角と打った(第1図)。

大山名人らしく、銀がタダ取りできそうな名角に見える。だが升田九段だけは、数手先の妙手を頭に描いていた。

第1図以下の指し手。△7六桂▲7七玉△2六歩▲同飛△3五銀(第2図)

升田九段は△7六桂で1歩を入手し、△2六歩▲同飛と吊りあげ、△3五銀(第2図)と角の利きに引いた。

?? なんだこれは?
初めてこの手順を見た人は、何か駒を取ったのか? と錯覚しそうである。しかしこれが歴史に残る妙手だった。
この△3五銀には▲同角と取るよりないが、△3四金が継続の捌きである。これに▲同金は、△3五角▲同金△5九角の王手飛車がある。▲7七玉と▲2六飛が、ここでは最悪の組み合わせになっているのだ。観戦記担当の紅氏(東公平氏)はこの銀を、「天来の妙手」と表現した。
そこで大山名人は△3四金に▲5七角と引き、△2四金にも▲3六歩と辛抱した。
そして以降も熱い攻防が続いたが、終盤、大山名人に一失があり、5月1日夜、210手までで升田九段が制勝した。
終盤での妙手はそれが勝利に直結するが、中盤でのそれは必ずしも勝利に結びつかない。本局は升田九段が苦しみながらも勝利したが、もし負けていたら「妙手△3五銀」も霞んでいたに違いなく、この勝利は途轍もなく大きかった。
なおこの将棋は、「升田式石田流」(1973年1月1日・日本将棋連盟刊)や「升田将棋勝局集」(1975年5月12日・講談社刊)に収録されているが、前者は戦法の著述だったこともあり、△3五銀が現れる前に解説が打ち切られている。
また後者は「△3五銀」を自賛しているが、それでも淡々とした感じである。
この名人戦は結局、3勝4敗で升田九段が敗れた。しかしこの時の「升田式石田流」は将棋界を代表する戦法となり、街の将棋道場では、石田流を指す愛棋家が続出したという。

棋士にとっての栄誉は何か。それは自身が亡くなっても、50年、100年先に、時の将棋ファンが自身の将棋を味わってくれることではないだろうか。
少なくとも升田九段の「△3五銀」は、50年後の将棋ファンが、ワクワクしながら並べ、賞賛した。
そしてこれから50年後も、時の将棋ファンが天来の妙手を並べるに違いない。
コメント
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