AKB48の旅

AKB48の旅

AKBのガチ

2012年05月19日 | AKB
AKBは敷居が高い、あんまり言われてないように思うけど、自分の経験からしてもそうだと思う。だからだろうけど、アンチが多いし、グラデーションの程度は様々だけど、好きというよりは嫌いというスタンスの人が多い印象がある。その一方で、ファンは静かにして熱い傾向じゃないかな。実際、CDやグッズの複数買いは「常識」となってる。なにしろ「AKB商法」だもんね。

「敷居」っていうとあれだけど、これって要するにハイコンテクストという概念で統一すれば、いろいろ見通しが良くなるように思う。これまで本ブログでは「設定」あるいは「物語」という表現を使ってきたけど、あるいはさっしー評のところなんかで「状況」と言ってきたけど、より汎用性が高い述語はこっち、ハイコンテクストのよう。

で、ハイコンテクストって、日本文化の特徴そのものだったりする。こちらもAKBは日本文化の精華って言い張ってきたけど、まさにそゆこと。ただ似て非なる部分がある。ハイコンテクスト文化は、ある種必然的に様式美を求めるし、予定調和を当然のこととする。実際、日本文化はそうなってるし、日本文化で通じにくければ、プロレス文化を思い返していただければと思う。

そういう視点では、前田敦子のセンターというのは、一つの様式美と捉えることもできそう。つまりなぜ前田敦子なのか、ではなくてAKBのハイコンテクストが必然的に「型」を求め、それをコンテクストによる要請という形で、つまりは前田敦子その人の必然ではなく、定められたということになろうか。

一方で秋元康のイズムの一つはご存じ、予定調和を崩すこと。ハイコンテクストにして予定調和を拒否するというのはどういうことなのか。そこにはハイコンテクストという蛸壺を拒否する、そういう明確な意思表示があるように、一見、見える。

ハイコンテクストというのは、必ずしも良いことばかりではない。分かり易い例として日本と特亜の関係を上げたいけど、そこらへんはめんどい話がてんこ盛りなんで、やっぱ避けとこう。まあなんちゅうか、ローコンテクストの世界側から見ると、最悪の方向に誤解され続けることになる。実際、AKBに対する世間一般の見方は、まあそういうことになってると思う。

ネットなんかでは若者の「保守化」とか言われて久しいし、実際「日本人でよかった」みたいな言説が溢れてたりする。ハイコンテクストというのはある種自家中毒をおこすということだと思う。それを共有する者にしか分からない、通じない、だから共有しない方が間違ってる、共有しない者を下に見る。逆にローコンテクスト側から見れば、それは悪意にしか見えない。そこには差別の構造が組み込まれることになる。両者の間には埋めがたい誤解の壁ができてしまう。

予定調和を崩すというのは、そんな自家中毒を拒否する、「日本人で良かった」的な蛸壺に陥らない、そんな狙いがあるように思う。

と言いつつ、たぶん秋元康の「予定調和を壊す」に、そこまでの見通しはないんじゃないか。それはただ、才能はもちろんだけど長年の経験でかぎ取ってきた成功の秘訣みたいなものなんじゃないか。AKBのようなハイコンテクスト文化を醸成できたのも意図したたものではないんだろう。そもそもハイコンテクスト文化というのは意図してできるものではない。意図した瞬間、虚構となり瓦解することになるだろう。

自己組織化、相転移、共同体化、さらにはハイコンテクスト化、いろんな必然と偶然が絡み合って、AKBはここまで巨大化した。つまりはこれも秋元康がよく言うように、ものすごくたくさんの「運」を掴みとってきた。それは常に現実と向き合って真っ正直に戦い続けた、ファーストラビットの歌詞のごとく、傷つくことを恐れない、最初のうさぎであり続けた、幾度となくそうあり続けた、そんな希有な強運のなせる技なんだろう。ああ、なんか泣けてきたぞ。


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