三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」

2024年05月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー」を観た。
『ニナ・メンケスの世界』公式サイト

『ニナ・メンケスの世界』公式サイト

『ニナ・メンケスの世界』公式サイト 知られざるアメリカの女性監督、ついに日本劇場初公開!5月10日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー!

 

 アメリカの黒人が「Black Lives matter」と叫んで、自らの権利を主張した運動がひとしきり続いた後、コロナ禍のアメリカで、黒人の大男が東洋人の老婆を殴り倒す動画がニュースで紹介された。コロナ禍は東洋人が原因だというのが殴った理由らしいが、とても嫌な印象を受けた。
 まず第一に、どんな理由があっても、丸腰の老婆を大人の男が殴り倒すのは人間として間違っている。第二に、東洋人をカテゴライズして全員を憎悪するのは、黒人差別の図式と同じだ。
 
 本作品では、映画において、力のある側が、力のない側の人権を蔑ろにする構図が紹介されている。こういう構図は映画に限らない。取り立てて新しい視点はないが、客体化という言葉に二重の意味を持たせているところが面白い。
 ひとつめの意味は、客体化=性的対象として見る、見られること、またはそのように扱う、扱われることである。主に女性が客体化されている。もうひとつの意味は、自己客体化である。性的対象として見られ続けた結果、女性自身が性的対象としての自分を意識する訳だ。
 鏡を見る、化粧をする、流行のファッションや際どい衣装を身に着ける。女性自ら、男性の視点を取り入れているのだ。それはつまり、性的な魅力が大きいほど、生きていくのに有利であることを自覚しているということだ。だから女性の映画監督でさえ、ストーリーやテーマに関係のないヌードシーンや女性の体のアップを撮ってしまう。
 
 沢山の映画を観ている観客のひとりとして思うのは、本作品が指摘する男性視線や女性の客体化は、主にアメリカ映画の話であろう。作品もそうだし、映画祭や映画賞の際の女優たちの、ほとんど裸みたいな衣装もそうだ。日本アカデミー賞の授賞式の女優たちの衣装は、それなりに着飾ってはいるものの、シックなドレスや和服が多い。邦画で女体を舐め回すようなカメラワークは観た記憶がない。ポルノではないのだ。
 
 日本では今ひとつ浸透しきれていないレディ・ファーストの習慣は、ある意味では女性蔑視の現れである。日本の男性は女性に対してそれほど積極的に関わろうとしない面がある。それはモラルが優れているわけではない。親しき中にも礼儀ありの精神と言えばよく聞こえるが、人と人との関係性が希薄というか、要するに気が弱いのである。揉め事を嫌う国民性が、他人に対する要求の度合いを低くしている。
 逆に言うと、他人に強く要求できる、自分本位の独善的な人間に逆らえないということでもある。一億総自己客体化だ。声の大きな軍国主義者が力を持つと、誰も逆らえない国であることは、戦後も変わっていないのだ。羊も結託すれば狼に勝てるかもしれない。諦めて沈黙していると、狼のいいようにされる。
 
 本作品には、私たちは黙っていない、自己客体化もやめるという、強い意志のようなものを感じた。そこはアメリカのいいところだろう。ただ支配側も強い意志を持っている。せめぎ合いは日本みたいにさざ波のようではなく、荒れ狂う嵐になる。しかもアメリカは銃社会だ。どうなることか。

映画「ありふれた教室」

2024年05月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ありふれた教室」を観た。
映画『ありふれた教室』公式サイト

映画『ありふれた教室』公式サイト

学校の〈不都合な真実〉を抉り出す、衝撃のスコラスティック・スリラー 5月17日(金)より新宿武蔵野館 シネスイッチ銀座 シネ・リーブル池袋ほか全国公開

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 教育現場が舞台の映画を観るたびに、国ごとにずいぶん状況が違うんだなと感じる。アメリカやフランスの映画では、教師は割と自由で、生徒と同じくらいに登校して、授業が終わるとさっさと学校を出て、プライベートの時間を過ごす。ときには友人と飲んだり踊ったりする。日本の教師も、アメリカやフランスみたいになれば、奴隷労働から解放されるのにと思うが、最近の文科大臣の答弁を聞くと、そんなことは夢物語だと分かる。

 本作品を観る限りでは、ドイツの学校には職員室があるようだ。アメリカやフランス映画には職員室のようなものは登場しない。だから職員会議もない。教室に出勤して、そのまま授業を行なう。そして帰る。
 ドイツの教師は日本の教師と同じように、長時間働いている。そして登場人物の台詞によると、ドイツでも教師が不足しているらしい。修学旅行もあるようだ。日本とドイツに共通しているのは、長い間の軍国主義の名残のような気がする。

 本作品の教師は、労働環境の悪さに加えて、生徒の親からの圧力も相当だ。本来は親が責任を持つべき素行についても、教師の責任が問われる。成績が悪いのは教師の教え方が悪いせいだという意味の台詞もあった。自分の子供の能力を棚に上げて、教師の能力を問う保護者がいるという訳だ。人種差別や移民の生徒の問題もある。こんな状況では、教師のなり手が少なくて当然である。

 そんな逆境の職業に飛び込んでいったカーラ・ノヴァクは、よほど子供が好きなのだろう。日本の教師たちも同じだと思う。重責を問われる長時間労働を好き好んでやる理由は、それ以外にない。それでも、教えるだけならともかく、管理の仕事も同時にしなければならないのは、精神的にきつい。
 一般の会社では管理部門と営業部門で、別々の社員が仕事をしている。対立することはあるが、それでバランスが取れる。同じ社員にアクセルとブレーキを同時に踏ませるようなことは、なんの利益も生み出さない。それに社員を追い詰めてしまう。

 カーラは生徒も守らなければならないし、自分も守らなければならない。親も説得しなければならないし、学校の立場も代弁しなければならない。それもこれも、教育行政が抱えている矛盾が噴出したものだ。つまりカーラは、ひとりの現場教師でありながら、教育の構造的な問題を背負わされているのである。自力で解決など、できるはずもない。

 辛い映画ではあったが、序盤で出てくる算数の問題には驚いた。12歳の子供にはレベルが高すぎる気がしたのだ。正反対の解答を出した二人の生徒はいずれも優秀で、特に正解したオスカーが自分で解を導き出したのであれば、その頭のよさは群を抜いている。カーラが教師としてオスカーに将来性を感じたのは明らかだった。

 教師が教育制度の矛盾を背負うのは、負担が大きすぎていつか潰れてしまう。カーラのような熱意のある教師は、共同体が守ってやらなければならない。教育を守るのは教師の心身の健康を守ることだ。それが生徒を守ることになり、ひいては共同体を守ることに通じる。
 税金は困っている人のために使うのが筋で、その次は将来のために使う。困っている教育現場の予算を増やし、管理部門と教育部門を分けて予算管理すれば、教師の負担も減るだろう。将来の子供たちのための予算でもある。危機を煽って軍事力に税金を注ぎ込んでいる場合ではないのだ。