喜多院法興寺

住職のひとりごと

犠牲者の土葬始まる宮城県東松島市

2011-03-23 10:36:02 | Weblog
時事通信
 {東日本大震災の犠牲者の土葬が22日午前、宮城県東松島市で始まった。収容される遺体が増え続ける中、火葬が追い付かず、腐敗や衛生面の問題を考慮した。

 市内で発見された遺体のうち、身元が分かった遺体のみを仮埋葬。2年以内に引き取ってもらい、改めて火葬する。同日は二十数体を土葬する。

 埋葬場所は同市大塩の山中にある施設跡地。整地された敷地に幅約2メートル50センチ、長さ約80メートルの穴が2列掘られ、約1メートルおきに真新しい板で仕切られていた。

 最初に埋葬されたのは2遺体で、午前10時25分に自衛隊のトラックで運ばれてきた。隊員が敬礼をした後、白い花束を載せた棺を慎重に下ろし、穴の一角に収めた。

 遺族らは「ありがとう」「ゆっくりね」と声を掛け、泣きながら別れを惜しんだ。棺のふたを開け、持ってきた花をちぎってまく姿や、「寒いから」とセーターを脱いで遺体に掛ける女性も見られた。}

 焼却処分場の跡地に急きょ作られた東松島市の墓地に、24体の遺体が次々と運ばれ、遺族がむせび泣きながら土をかけた。火葬が間に合わない、宮城県東松島市では「面影とどめているうちに」身元が分かった遺体のみを仮埋葬として、幅が2,5メートル、長さ約80メートルの穴が2列掘られ、約1メートル間隔で板で仕切られていた。2年以内に引き取ってもらい、改めて火葬するという。謹んでご冥福をお祈りした。

地震10日目、80歳祖母と16歳孫を無事救出

2011-03-21 06:21:21 | Weblog
(読売新聞)
 {東日本巨大地震から10日目の20日、津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市で、つぶれた住宅のがれきの中に閉じこめられていた女性と孫の2人が、無事救出された。

 国内での自然災害で、9日ぶりの救出劇は極めて異例だ。

 救助されたのは、宮城県石巻市門脇町2、阿部 寿美 ( すみ ) さん(80)と孫で高校1年の 任 ( じん ) さん(16)。

 20日午後4時頃、行方不明者を捜索していた石巻署員が、倒壊した自宅の中から自力で脱出し屋根の上で救助を求めていた任さんを見つけた。「がれきの下におばあちゃんが閉じこめられている」と訴えたため捜索したところ、家屋内で動けなくなっていた寿美さんを発見、約50分後に救出した。2人はヘリコプターでつり上げられ、石巻赤十字病院に搬送されたが、ともに意識はあり、署員の呼びかけにしっかり答えたという。

 同署と石巻赤十字病院によると、2人は自宅にいて11日の地震に遭った。木造2階建ての自宅は津波でつぶされ、天井と台所との間にできたわずかな空間に閉じこめられた。寿美さんは足が不自由だったため、身動きができなくなった。

 倒れた冷蔵庫のドアは開けることができたといい、任さんは「中にあった水をあげたり、ヨーグルトなどを食べさせてあげたりしていた」と話しているという。周辺にはパンや冷凍たこやきなどの袋も散乱していた。

 記者会見した同病院救命救急センターの小林道生・副センター長によると、寿美さんは元気で、任さんは凍傷とみられ、足が腫れている。2人とも数日間、入院する。

 任さんは「きょう(20日)になり、やっとがれきに隙間ができて、外に出ることができた」と話している。

 仙台管区気象台によると、石巻地方は16、17日に雪が降り、18日に仙台市などで最低気温が氷点下になるなど、厳しい寒さが続いていた。}

 厳しい寒さが続いていた石巻で、9日ぶりに孫と祖母いの二人が生きて救出されたのは、本当に奇蹟としか言い様がない。津波に遭った場所が、台所だったことで、そばにはパンと水、冷凍たこ焼き、焼きノリなどの袋で飢えをしのいだ。さらに台所のとなりに布団があったことで、寒さから身を守ることが出来たらしい。現在、行方不明者1万人以上いる中での一つの光明ではなかったのか。被災した人々に勇気と希望のシンボルとなっている。




火葬場稼働できず…宮城県、土葬容認へ

2011-03-18 06:33:59 | Weblog
読売新聞
 {東日本巨大地震で、多数の遺体が見つかっている宮城県内の各市町村は内規で禁じていた土葬に踏み切り、県も土葬を容認する方針を決めた。

 県庁内に「土葬班」を設置、土葬に関するマニュアルを作り、17日にも各保健所などを通じ被災市町村に本格的に配布する。

 宮城県では死者数が「万人単位になることは間違いない」(竹内直人・県警本部長)とされる。だが、地震による被災や燃料不足、停電などで、火葬場は稼働できず、遺体の腐敗が深刻化している。

 墓地埋葬法では、土葬は市町村長の許可を受ければ可能だが、公衆衛生の観点などから同県内ではほぼ全ての市町村が内規などで禁止しているという。このため、被災市町村から「どのように対応したらいいか」という照会が相次いでいた。

 マニュアルは、土葬の慣習が残る奈良県に問い合わせて作成。墓地の選定基準として「地下水などの飲用水に影響しない」「住民感情に配慮」「永代にわたり管理できる」─などを列挙。手続きとしては、国の通知に基づき、身元が不明の場合は、死体検案書を保存し、台帳を整備する──などを指示している。

 宮城県内では、南三陸町だけでも遺体が1000体以上、事実上放置されたままだ。同町の火葬場は被災して使用不能となったため、町は隣の登米市に火葬を依頼。16日に初めて遺体を移送し、火葬した。しかし、同市も1日で最大十数体しか扱えないという。佐藤仁町長は「土葬でもいいから、できる限り安らかに眠らせてあげたい」と涙ながらに訴える。

 宮城県は、被災後の県内の火葬能力を1日当たり最大50体と推計。県警は検視担当の警察官200人を配置し、さらに警察庁に800人の増員を要請している。同庁も、多数の遺体を冷凍状態で保存することは極めて困難として、身元確認の作業を最小限にとどめ、市町村に引き渡すことを認める異例の通達を出すなど対応に乗り出している。

 岩手県でも、被害が激しかった沿岸の市町村で、土葬に向けた準備が始まっている。県災害対策本部によると、土葬は市町村の判断で可能で、現在、市町村職員が利用できる土地を探している。土地が見つかり次第、土葬を始めるという。}


 被災地からは、公衆衛生上の問題が発生する恐れがあり、腐敗が進む大量の遺体を速やかに埋葬できるよう、要望が寄せられていた。東日本大震災の死者の数が日増しに増え、死体安置所に収容された、身元確認された遺体をについて、余りにも多数のため、特例措置で土葬にされることにされた。供養が充分に出来ずに葬られる被災されて、亡くなられた方々に遠くより、往生極楽をお祈りしたい。


東日本大震災の被災者さらに拡大見通し

2011-03-14 10:02:23 | Weblog
時事通信
 {東日本大震災の被災者は14日午前8時現在で、死者1598人、行方不明者1720人となり、3300人を超えた。壊滅した宮城県南三陸町で、約9500人と連絡が取れない状態が続いており、被害はさらに拡大する見通しだ。

 警察庁によると、死者は岩手502人、宮城643人、福島401人で、この3県を中心に12都道県に及んでいる。宮城県警の竹内直人本部長は13日、同県の犠牲者について「万人単位になることは間違いない」と述べた。

 避難している人は東北・北関東の6県で約27万5700人に上り、岩手県や仙台市など一部の自治体は仮設住宅建設の検討を始めた。

 岩手県大船渡市で市庁舎や病院などに電気が通ったほか、宮城県でも仙台市を中心に回復の動きが出ているが、水道やガスを含め被災地のライフライン復旧のめどは立っていない。既に5万人が動員され、捜索・救助、食料輸送を続ける自衛隊は近く10万人規模に態勢を拡大、復興支援にも当たる方針だ。米国際開発局(USAID)の救助隊員ら各国からの支援隊も続々来日し、活動を本格化させた。

 一方、気象庁は今後マグニチュード(M)7以上の余震が発生する確率について、16日までに70%、その後3日間以内で50%と予測、警戒を呼び掛けている。M5以上の余震は既に180回以上観測されたといい、震源域は岩手沖から茨城沖までの長さ約500キロ、幅約200キロに及んでいる。} 

 東日本大震災の被災者は、今まで経験したことがない大地震と被害を大きくした大津波で、岩手、宮城、福島の海岸沿いの集落は、被災者は14日午前8時現在で、死者1598人、行方不明者1720人となり、3300人を超えた。さらに、行方不明者の捜索が進むにつれて、死亡者の数は一万人ともいわれている。
 また、福島の原発が故障と火力発電所の停止で、計画停電が実施することになり、その影響でJR線が止まり、市民生活にを影響が出始めている。これからの復興に一丸となって、日本を立て直さなければならない。戦後の焼け野原から復興した経験がある。助け合って切り抜けよう。そこで、寺院として被災地に向けての義援金を御宿の最明寺で受付を開始した。詳しくはhttp://blue.zero.jp/saimyoji/gien.html 最明寺ホームページに掲載している。

コント55号の坂上二郎さん死去

2011-03-11 09:47:40 | Weblog
3月11日付 編集手帳 読売新聞
 {たこ焼きの屋台に客が来る。主人は、「たこ焼き音頭を歌ってから食べてくれ」と言う。そんな歌はない。客は途方に暮れながらも何とか歌おうと試みるが、主人が飛ばす不条理な注文の二の矢、三の矢に混乱を極めていく…
◆「器用で何でも出来る(坂上)二郎さんの、出来ないことを探して困らせたい。ただその一心あるのみ、ほかに笑いのポリシーなんてなかった」。萩本欽一さんは伝説のコンビ『コント55号』の頃をそう回想している。
◆絶頂期には全民放に週6本のレギュラー番組をもっていた。人気を支えていたのは欽ちゃんの理不尽な「狂気」と、二郎さんの「芸達者」であったろう。コント55号と同時代にめぐり合わせた幸運をかみしめている年配のファンは今も多いはずである◆坂上さんが76歳で亡くなった。7年半前に患ったのと同じ脳梗塞という。苦しいリハビリに耐えたときの心境を以前、本紙で語ってくれたことがある。「左手が思うように動かないと、あれが出来ない。坂上二郎じゃなくなっちゃいますからね…」
◆甲高い裏声で両手に告げる「飛びます、飛びます」は、もう聞かれない。}

 コント55号は欽ちゃん二郎さんの絶妙なチームワークで、日本全国笑いを振りまいてくれた。欽ちゃんが作る台本を芸達者な二郎さんがアドリブで、舞台せましと動き回るコントは、面白かった。コント55号は二郎さんがいなかったなら、世に出なかったであろう。歌も上手かったし、役者としても素晴らしかった。謹んでご冥福を祈りたい。