犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木慶子著 『悲しみの乗り越え方』より

2012-11-22 00:02:11 | 読書感想文

p.86~ 「千の風になって」を拒む気持ち より

“秋は光になって畑にふりそそぐ 冬はダイヤのようにきらめく雪になる”
“朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る”

 秋になると日が短くなりますから、光になるというのは、とても貴重な存在になるということ。冬の雪はダイヤのようだというのも、美しく、嬉しくなるようなイメージです。鳥になって、星になってと、生きている人を見守ってくれる死者の存在を私たちに感じさせてくれます。

 ところが、私がグリーフケアで出会った遺族の方が、この歌を「嫌い!」と一蹴しました。「私の死んだ主人に、風になんかなってもらっては困るのよ! 千の風になっては、姿が見えないじゃない。鳥になっても嫌、光なんて嫌よ!」 そういって、腹を立てるのです。

 その方は、3人の方から「千の風になって」のCDを贈られたと言います。「グリーフケアにいい歌だと思われているのね。子どもが“これは死んだパパの歌ね”なんていうテレビ番組もあった。でも、私としては、主人は主人としてあの世にいるんだというイメージを一生懸命描こうとしているのに、こんなのに騙されたくないの!」

 実は、こういう人は1人や2人ではありませんでした。「“墓になんかいません”なんて言わないでください。私たちはお墓が拠り所なんです」「“死んでなんかいません”なんて言わないでください。死んでいなかったら、こんなに苦しみません」と、何十人という人からお小言を言われました。


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 『千の風になって』は、紅白歌合戦で平成18年~20年の3年連続で歌われ、いわゆる「国民の誰もが感動する歌」になりました。情報化社会においては、マスコミによって「良い」とされたものは、「嫌だ」という意見が出てくる余地がほとんどなくなります。その内容が嫌いであっても、押し付けられるということが嫌いであっても、「国民的に愛されている歌のどこが悪いのか理解できない」という空気の前には口を噤まざるを得なくなるものと思います。

 この歌が大ヒットしていた頃、朝日新聞社主催で、「千の風になったあなたへ贈る手紙」コンクールが行われていたことを思い出します。訳詞・作曲者であり選考委員長である新井満氏による選考基準には、「喪失の悲しみを乗り越えて元気に生きている現在が書かれていること」「感動があること」という項目がありました。私はこの部分を目にしたとき、何とも言えない強制力を感じ取ったことを覚えています。

 東日本大震災が起きた昨年、『千の風になって』が紅白歌合戦で歌われなかった理由について、現場でどのような話があったのか、部外者にはわかりません。しかしながら、震災直後から懸命の捜索活動が続き、家族は足を棒にして遺体安置場を回り、DNA鑑定による必死の身元確認が続き、なお3000人が行方不明である状況を前にして、「千の風になって吹きわたっている」ことは、あまりに感傷的であり、無神経であったのだと思います。