p.25~
藤井:
死刑廃止運動に関わっている弁護士や学者らは、このところ犯罪被害者の声を理解するようなそぶりを見せていますが、実際は死刑廃止運動を邪魔する目障りな存在としか捉えていない気がします。
宮崎:
もっと明け透けに言うとね、彼らは「本村さえいなければ、こんなことにならなかった」と絶対に思っている。「本村をはじめとする犯罪被害者の声がメディアに取り上げられなかったなら、死刑はすでに廃止段階に入り、被疑者・被告人・受刑者の人権はもっと手厚く保障されたはずだ」と。
本村:
僕が検察と手を組んでいるように見えるわけですね。
藤井:
本来なら犯罪被害者というのは、敵とか味方ではなくて、右も左も関係なく救済されるべき対象のはずなんです。けれども、それがイデオロギー闘争として、向こうから「敵」と看做されるようになってしまった。それは死刑に反対している人々が左翼的な運動のある種の代表みたいになっている状況が今の日本にあるからなんですが、逆に言うと、これまで彼らが犯罪被害者という存在を無視してきた証左でもあります。
宮崎:
人間は政治的動物という属性を不可避的に帯びていますから、社会を動かすアクションに乗り出した以上、何がしかの政治的軋轢が生じるのはやむを得ない。これが現実です。
本村:
そうですね。それまで僕は、「司法と戦う」とまでは言いませんけど、司法に対してきちんと一個一個の事案を見て判断を下してもらいたいということを主張したかっただけなんですよね。明らかに反省していない少年を目の前にして、「もう反省している」という判決を書いて、これまでの判例に倣って刑を下すというような裁判のあり方を直してもらいたかったんです。
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弁護士事務所において実際に事務手続をしているのは、弁護士ではなく、低賃金の事務職です。光市事件において「ドラえもんが助けてくれると思った」という文字をパソコンで打ち、それをプリンターで印刷し、誤字脱字がないか一字一句チェックし、ホッチキスで止め、各事務所間でファクスをしたのは恐らく事務方の人々です。最高裁の弁論の日に模擬裁判のスケジュールを入れるように命じられて粛々と処理を行ったのも、苦情の電話への対応や懲戒請求に対する答弁書の作成に追われて連日の深夜残業を強いられたのも、恐らく事務方の人々です。この目の前の苦悩が見えない弁護士には、遠くの苦悩は見えないはずだと思います。
あまり知られていないことですが、弁護士事務所では事務方に対して労働基準法が守られていないことが多く、サービス残業はおろかセクハラも頻発しています。どの組織でも、対外的に正義感の強さを標榜する者は、内部では権力を振りかざす独裁者になりがちだと思います。「正義の味方」という外面の良さが強調されるほど、そのまま「灯台下暗し」という陥穽に落ちるということです。「法律の専門家である弁護士が労働基準法を守らないのは矛盾だ」というのは、あくまでも外部からの理屈です。組織の内部では、「司法試験に受かっていない素人の事務方が弁護士に労働基準法を説くなど恐れ多い」という力関係があります。
ある人権派弁護士の秘書をしていて精神を病み、退職を余儀なくされた方の話を聞いたことがあります。その弁護士の著作を読むと、「過ちを犯しても何度でもやり直せる社会を作ることの重要性」や「人の過ちを赦すことの大切さ」が述べられており、優れた人格者であることが窺われます。他方、元秘書の方は、コーヒーが温ければ怒られ、コーヒーが熱ければ怒られ、ホッチキスの玉がなくなれば激怒され、ボールペンのインクが出なければ激高され、探している書類が見つからないときなどは烈火の如く怒鳴りつけられ、秘書がコピー用紙のサイズを間違えたときなどは人格まで否定され、不眠症からうつ病に陥ったとのことでした。
光市事件で死刑判決が言い渡され、記者会見を終えて各々の事務所に戻った弁護士を迎える空気を、私はあまり想像したくありません。不機嫌で一触即発の状態の弁護士の周りで、ピリピリして張り詰めている事務方の状況を思うと、身が縮こまります。すぐに上告だ、再審だとして大量の仕事を言いつけられたならば、組織のために働いて給料を得ている社会人は、事務作業を淡々とこなすのみです。自分の意見を持つ余裕もなく、無色透明の雑用係に徹するだけです。ここでは、「仕事である」との割り切りが全てであり、仕事の流儀、やりがいといった概念の出る幕はないと思います。「人殺しは赦されるべきだが仕事のミスは絶対に許されない」という価値序列に身が持たなくなるからです。