犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小池龍之介著 『考えない練習』

2012-11-17 23:20:52 | 読書感想文

p.194~

 実際のところ、困っている人にしてあげられる最も大事なことは、静かにしてあげることです。黙って話を聞いてあげることです。一方で、本人が苦しんでいるのに、それまでのすべてを肯定して、「あなたは何も悪くない」などと言うのは、その場しのぎの気休めでしかありません。欧米式のカウンセリング理論の下では、こうした全肯定のカウンセリングが行われることが多いようです。相談する方の一方的な安心感を得られるのは確かでしょうが、心の歪みはそのままですし、根本的な解決には至らないことでしょう。

 いずれにしても、困っている方の話を聞いてあげられるのなら、まだ良いでしょう。それすら多くの方はできずに、弱っている相手の話をよく聞かないうちから持論をとうとうと述べてしまうのです。困っている人を見ると、これは押しつけではなく人助けであると誤解し、反応してしまいます。自分は素晴らしいことをしているのだと自己錯覚して、抑制のストッパーが利かなくなってしまうのです。

 良い自分、優しい自分と思いたいがゆえになされる「優しさ」は、本人も無自覚であるがゆえに、しばしば押しつけがましいものになってしまうのです。誰かをかわいそうだと同情する時、それはたいてい優越感から来る感情ではないでしょうか。相手に対してかわいそうと思える自分に興奮し、「かわいそうと思っている自分は良い人である」というイメージに浸っているのかもしれません。


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 セクハラ・パワハラ・モラハラなどの精神的ストレスが労働問題として法律的に争われる場合、当人の疾患がなかなか改善しないばかりか、薬を増やされて薬漬けになってしまうという状況を目にします。医師やカウンセラーがプロであるが故に、それぞれのプライドや誇りがあり、「先生と患者」という力関係もあり、なおかつ医師やカウンセラーは法律問題については素人であるという点も関係していると思います。

 何週間も待たされて心療内科に行って話をしてみても、仕事の具体的なところはその会社のその場にいなければ解らないため、肝心なポイントが通じず、アドバイスが真に迫らないという話も聞きます。医師やカウンセラーとの相性が悪く、何か所もクリニックを変えているという話も耳にします。セクハラ・パワハラ・モラハラなどの行為は、それぞれの人生の根本的な部分をその瞬間に破壊するという点が本筋でありながら、当人の症状のほうから入ると、どれも「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」になってしまうのだと思います。

 逆に、法律家のほうは精神医学について素人であり、精神的ストレスを労働問題として扱う場合、かなりピントが外れるように思います。社員が心療内科に通って治療しなければ「ストレスを放置して健康管理に務めなかった」という問題になり、通院を隠していれば今度はそのことが問題とされます。また、薬を飲んでいれば「業務に支障が出る」という問題になり、飲んでいなければやはり「業務に支障が出る」という問題が起こります。結局のところ、法律家のほうは証拠としての「うつ病の診断書」と「薬の処方箋」だけを求めていることが多いと感じます。