犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

河野裕子著 『桜花の記憶』 その2

2012-11-29 00:02:45 | 読書感想文

p.233~

 歌を読むことは、歌を作ることよりももっと難しい。そして、読むことよりも、肉声で批評することはもっと難しくおもしろい。このことに気がついている人は案外少ないように思う。歌会で批評があたり、待っていましたとばかりに滔々と正論めいた持論を展開する人があるが、あれはちょっと違うなあ。

 言い淀んだり、しばらく沈黙したり、ことばに詰まってしまって、どうしようと言ったりする。或いは発言しているあいだに自分の読み方の誤りに気がついて軌道修正する人もいる。批評があたった瞬間、一時的に発声不能になる人もあって、やっと何とかボソボソ一言だけ言う人もあるかと思えば、隣りの席にいる人に助け船をたのむ人もあったりして、これが歌会というものの、生のおもしろさなのだし、これが自然というものである。


p.242~

 わたしたちには、現実がしんどいから歌を作っているという側面が必ずあるはずだ。天気明朗、仕事は楽しい、飯はうまい、よく眠れる、家族とはうまくいっている人は歌など作る必要はない。現実に自足しているならば、文語定型のこんな詩型に苦労する事はない。好きなように人生を楽しめばいいのである。誰にも何にも強制されることなく。

 しかし、現実がどうにもならないものであり、自分自身が途方に暮れたときに、歌を作り、それを読んでくれる仲間たちが居てくれることが何よりも替えがたい慰謝であり生きる力である事に気づいた時、私たちにとって人生の意味は変わってくる。


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 社会科学において、定義されて厳密に使われる言葉の重さは人を殺します。契約書をよく読まずにサインしたばかりに、人は給料を差し押えられて失職し、定期預金を差押えられて全財産を失い、競売で自宅を失います。そこでは、個人的な事情は全く考慮されることがありません。誰が語っても同じ言葉であり、同じように重いものとされ、万人に互換性があります。

 このような一言一句の緊張の中で精神をすり減らしていると、文学で行われている言語の使用は、気楽な「言葉遊び」に見えがちだと思います。しかしながら、善悪や生死の問題に直面すれば、人は互換性のある言葉の限界に突き当たります。ここを社会科学の定義された言語で乗り切ろうとするとき、人は軽い言葉の重さを装わざるを得なくなるのだと思います。