犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

復興需要を被災者雇用に生かす その3

2011-11-28 00:03:12 | 時間・生死・人生
 被災地の雇用問題を復興需要に結びつける議論は、科学的・分析的手法を大前提としているように思います。そこにおける人間は、「使用者」「労働者」「消費者」といったように一般化され、学問的な思考の構造に引き付けて理解されています。すなわち、識者が把握する雇用問題の構造に応じて、社会のあらゆる場面が一定の形で理解され、震災の現場もその中の1つに入っているということです。ここでは、主はあくまでも雇用問題であり、震災は従たる位置づけです。
 このような議論の範疇に入っている被災者は、「働きたいが仕事がない」という者のみであり、「PTSDで仕事に戻れない」「虚脱感で働く意欲も湧かない」という被災者は度外視されているように思います。一般的にはニートの増加や生活保護制度の破綻の問題として語られている問題が、ここでは除かれているということです。「家族が行方不明のままで探し続けなければならず仕事どころではない」「再就職したところで仕事が手に付かず迷惑を掛ける」という場面は、雇用問題の枠組みでは受け止めることができません。

 もともと、科学的・分析的手法は、問題を論点主義的に捉える特徴を持っているように思います。例えば、失業率を低下させるという目的においては、前月よりもその数字が減れば、目標に近づいたということで事足ります。しかしながら、雇用された者においては、新たに長時間労働・低賃金・サービス残業・賃金未払い・パワハラ・過労死・過労自殺といった問題に向き合うことを余儀なくされます。これらの問題は、失業率の問題とは理屈の上では別ですが、個人の人生においては一連のものです。
 過労死や過労自殺で命を落とすのであれば、失業していたほうが良かったことは言うまでもなく、雇用されたのが間違いの始まりであったということになります。「働く人を大切に」「命を大切に」とのスローガンが空疎な理想論ではないとするならば、失業状態を脱して仕事を見つけることが、必ずしもプラスの価値にならない関係は認めざるを得ないものと思います。そして、通常雇用問題が議論されるときには、個人の大切さが叫ばれながら、個人の人生を単位として考えられることがないように感じます。

 被災地の声を真摯に聞くということであれば、「働きたいが仕事がない」という声よりも、「言葉にならない凄絶な体験及びその後の心境の変化に耳を傾けてほしい」という声に先に気付くことが、人間として正常な感覚であると思います。但し、後者の声を聞く場面では、お金は回らず、経済は動きません。そして、後者の声を聞く者の存在は、10年後、20年後にますます必要とされ、経済や労働の問題とは常時次元を異にし、交わることがないように思われます。
 知人の友人にとって、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉が聞きたくないのは、その中に被災地の外からの圧力を感じるからだとのことでした。「いつまでも落ち込んでないで復興のために働け」ということです。彼は家族全員が無事であり、自宅にも被害がないため、事態を冷静に客観視していますが、想像を絶する被害を前にして気が張っている方々は、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言葉を真剣に受け止めがちのようです。彼は、復興した後が本当に恐ろしいと語っていました。私もそう思います。

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