犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池井戸潤著 『下町ロケット』より

2011-11-23 16:13:20 | 読書感想文
p.65~

 三田は狡知を滲ませた笑いを唇に浮かべる。「ウチが訴え、プレス発表する。佃製作所を特許侵害で訴えましたってな。さて世間はどう思うかな? いままで佃製のエンジンを買っていた会社は、どうするだろう? 付き合っている銀行はどうだ? さてそれから、いよいよ裁判に突入だ。莫迦にならない金もかかるし、手間もかかる。その裁判が長引いたらどうなるか……。佃がどれだけ耐えられるか、見物じゃないか」。

 「なるほど、兵糧攻めってわけですか」。西森は顔の半分を引きつらせて笑った。「そうやって自滅してくれれば、裁判がどうなろうとウチの勝ちですよね、たしかに」。

 「やっとわかったか」。三田は大きく両手を上げて接待で凝った背筋を伸ばすと、いつもの説教染みた話を続ける。

 「いいかよく聞け。この世の中には2つの規律がある。それは、倫理と法律だ。俺たち人間が滅多なことで人を殺さないのは、法律で禁止されてるからじゃない。そんなことをしたらいけない、という倫理に支配されているからだ。だが、会社は違う。会社に倫理など必要ない。会社は法律さえ守っていれば、どんなことをしたって罰せられることはない。相手企業の息の根を止めることも可能だ。どうだ、ちょっとした発見だろ」。

 そのために、訴訟というツールを使う。ナカシマ工業の十八番だ。しかも相手が中小企業となれば、その得意技がもっともハマる構図といってよかった。


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 民事訴訟法を研究するだけでは、民事訴訟の実際のところはわからない。ましてや、憲法の「裁判を受ける権利」の原則から考えていては、民事訴訟の実態からますます遠ざかる。色々な小説の裁判に関する描写を読むと、法律の文献しか読まない法律家の独特の思考の偏りに気付くことがあります。

 民事訴訟をツールとして用いることは、さして珍しくないものと思います。特に、ここ数年で民事訴訟全体の半数近くを占めるに至った過払い訴訟(消費者金融への不当利得返還訴訟)は、判決に至らないどころか第1回口頭弁論すら開かれないことが多い裁判です。ここでは、できる限り早く訴えを取り下げることが当初からの目的となっており、裁判制度は手段として利用われているだけです。

 訴訟法の規定する制度が日常的にツールとして利用されていながら、なぜか法律家の視線が非常に厳しいのが、「お金が欲しいのではなく命を返してほしい」と語る原告に対してです。すなわち、「民事訴訟は復讐心を満足させるためにあるのではない」「個人の腹いせのために裁判所を使うな」といった評価が一般的だと感じます。裁判制度の限界と言われるところのものは色々ありますが、この点は最大の限界だと思います。