犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の弁護士の日記 その2

2011-11-03 00:01:53 | 時間・生死・人生
 私はその後、今日まで5人の依頼者の死を経験してきた。依頼者の親族から死の一報を聞かされた瞬間の衝撃は、やはり言葉にならない。しかしながら、哲学的な生死の問題意識の糸口を上手く掴めなくなってきたことだけは確かである。私は、「せめて最期の瞬間くらいは法律的な心配から解放されて、少しでも安らかに逝ってほしい」と通俗的に願い、自分の仕事がそれに寄与しているであろうと決めつけ、自分の気持ちを誤魔化した。その思いすら、香典をいくら包むかという現実問題の前には流された。
 私の仕事は常時忙しく、不倫の慰謝料請求、ネット上での名誉棄損に対する慰謝料請求、不動産の立ち退きや賃料不払いなど、同時並行で目が回りそうな時もあった。そして、このような状況の真っ只中に、依頼者の死の報を受けたとき、私は自分の生命に対する感覚が鈍っていることを思い知らされた。「弁護士という生き物は、どうして犯罪や事故の死者に対して冷たいのか」という学生時代の謎も、徐々に解けてきた。それは、次々と効率的に事務を処理している者の目から見ると、哲学的な生死の問題は浮世離れしているという単純な理由であった。

 私が依頼者の死を体験した2人目は、70代の男性であった。最初の30代の女性との違いは、初対面の打ち合わせの段階で、本人の口からガンの病状と余命が私に説明されていたことである。彼は小規模な建設会社の社長を長年務めていたが、不況の影響で業績が悪化し、倒産が避けられない状況となっていた。時を同じくして、体調不良を感じ病院の検査を受けたところ、進行ガンが発見され、すでに手術は難しい状態であった。
 彼の話は豪放磊落であり、私には余命を宣告されている者の言葉とは思えなかった。彼の周囲では、中小企業の社長が脳卒中や心筋梗塞で突然倒れることが多く、彼もそのような死に方をするものと思っていたとのことである。中小企業の社長は、仕事のストレスで命を縮めることが多く、そのストレスを解消するための暴飲暴食によって命を縮めることも多い。人は、どんなに命を縮めるとわかっていても、その時にはそうとしかできないことがある。私は、まるで自分自身の生活習慣を指摘されているようであった。

 倒産寸前の会社は、人間の私利私欲を露わにする。弁護士の腕の見せ所は、使途不明金の説明をいかに上手く付けるか、脱税や偏頗弁済が疑われる証拠をいかに上手く処理するか、といった点にあると言ってもよい。社長からの依頼の趣旨は単純であった。自身の死を前にした身辺整理である。すなわち、会社の倒産と社長の死によって、妻と兄妹には社長の個人保証の債務が相続されるため、プラスの財産をゼロにし、相続放棄をすれば済むような状態を作っておくことであった。私は形だけの株主総会議事録を作り、その瞬間に妻も会社の代表者となった。
 社長が法律事務所に来ることができたのは、最初の1回だけであった。以後は私が定期的に電話していたが、やがて社長は話ができる状態ではなくなり、妻が社長の携帯電話に出るようになった。妻は私に対し、日に日に衰える夫の状態を涙ながらに語り、夫に死なれる恐怖を訴えた。私の当初の悩みは、電話口でただ頷くことしかできない無力感であった。電話の回数が増えると、私の悩みは、山積みの仕事を前にした長電話が深夜残業をもたらし、不規則な食生活が私の命を縮めている点に移ってきた。

 社長の妻から彼の死を電話で聞かされたとき、私はほとんど動揺しなかった。私は慎重に言葉を選び、無理に声のトーンを低くした。社長の最後の望みは、「最後くらいお金を好きなように使わせてほしい」とのことであった。私は、その望みを正義であると判断し、そのお金を債権者への返済や滞納している税金の支払いに充てることを不正義であると判断し、弁護士としての屁理屈を駆使して正義を実現した。私の中には、このような悩みは悩むに値しないとの妙な確信があった。
 私の思考が混乱したのは、やはりボス弁の言葉がきっかけであった。何件もの倒産事件を手掛け、裁判所と破産管財人を相手に苦労してきたボス弁は、この案件が簡単に進むことを喜んだ。依頼者というものは、つい感情が先走り、弁護士との打ち合わせに反して余計なことを裁判官に話してしまう傾向があり、それが面倒な仕事を増やす。しかしながら、依頼者が死者であれば、その心配が全くない。しかも、危ない質問については、弁護士は「すべて社長が勝手にやっていました」で逃げればよい。私は、「下手に長生きされないで助かった」とのボス弁の言葉を聞き、自分の心はそれを否定できないことに気付いた。

(続きます。)