犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

奥野修司著 『心にナイフをしのばせて』 (3)

2011-11-17 00:04:09 | 読書感想文
p.96~
(加賀美洋君:殺された被害者、くに子さん:洋君の母親、みゆきさん:洋君の妹です。以下はみゆきさんの独白の部分です。)

 自分ではどうにもならなくなったとき、母は別の人格を登場させ、その人格のせいにして逃げたのかもしれない。あるいは、思っていながら自分では言えないことを、他の人格を借りて吐き出したのだと思う。兄の死はそれだけ強烈だったのだ。

 ただ不思議なのは、別の人格になっても、犯人に対する怒りや憎悪の言葉がなかったことだ。兄がいなくなって、どうして自分はこんな辛い思いをしないといけないのかと口にしても、犯人を恨んだり誹謗する言葉がなかった。兄が死んだだけでも辛いのに、憎しみが膨らめばもっと辛くなるからではないだろうか。

 犯人のAには、二度でも三度でも死んでもらいたい。わたしでさえそうなのだから、兄のことが大好きだった母が、そう思わないはずがないだろう。ただ、そう願えば願うほど、皮肉にも、もっと辛くなってしまう。母も同じではなかっただろうか。

 たびたび母が倒れるのを見ると、その後の症状がなんとなくわかってきた。気を失うだけならともかく、他人には聞かれたくない言葉を吐くのだから、父にしても気が気じゃなかったはずだ。だから母が倒れると、とりあえず人気のない場所へ急いで運んだ。母の立場になれば、やはり他人に見られていい気分じゃないだろうし、なによりもそんな母を他人の目に曝すのはかわいそうで見ていられなかった。


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 被害者の裁判参加を強く反対する法律論は、近代刑法の大原則から演繹的に展開されており、理路整然としてデジタル的です。しかしながら、アナログの極致である人間の内面の苦悩の掘り下げの前に、その論理が乱されている場面をよく目にします。法律の論理は数学に近く、人工的・科学的な言語は日常用語よりも優れており、法律家は一般人よりも偉いことが前提となっています。しかし、法律は数学そのものではなく、その言葉は人間を殺します。

 刑事司法の場で被害者が長らく見落とされていた点については、従来の三極構造から演繹的に考えれば、被害者はあくまでも当事者ではありません。よって、「被告人の権利と被害者の権利は両立する」という命題が出てくることになります。しかしながら、文庫版のあとがきを読むと、この奥野氏の著作が大反響を呼んだ後、同氏に対しては、この両立を否定するような批判が多くなされたことがわかります。すなわち、「取材が被害者に偏り過ぎていている」「公平さに欠けており作品として不完全である」という批判です。

 刑法における被告人の人権論は、憲法における表現の自由論と親和性を持ちます。思想の自由市場と言うならば、書きたい人は勝手に書きたいことを書けば済む話であり、後の評価は受け取る側に任せられるはずです。本人が「これを書きたい」と思い、あるいは「これを書きたくない」と思い、苦しんで言葉を紡ぎ出し、その内容のみならず形式についても暗中模索し、執筆に人生を賭しているときに、なぜ他人がその形式や内容について指示できるのか、上記のような批判には脱力するところがあります。

 この本の出版後、奥野氏は他の犯罪被害者の方から「私たちのことも書いてほしい」と懇願されたものの、奥野氏はこの本の執筆で精魂尽き果てており、お断りするしかなかったとのことです。奥野氏は文庫版のあとがきでお詫びしており、このような言葉を読んでしまうと、「表現の自由」という単語を使うのも憚られる気がします。