犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

復興需要を被災者雇用に生かす その1

2011-11-25 23:42:38 | 時間・生死・人生
 先日、被災地の知人のそのまた友人の話を聞く機会がありました。彼は家族を失ったわけではなく、自宅を流されたわけでもありませんが、仕事を辞めました。彼が語った率直なところと、私が考えたことを合わせて書いてみたいと思います。

 彼の周囲では、5月から9月にかけて自ら命を断った方々が数人います。このようなニュースは、「復興に向けた力強い歩み」の陰で扱いが小さいですが、そもそも「せっかく助かった命がなぜ失われるのか」という問いには答える気にならないと言います。遺書を書く余裕もなければ、その動機の推定は経済的な問題に集約され、本人の反論も許されないまま震災関連死と命名され、「一刻も早い対策が求められる」で終わりです。
 彼が今最も聞きたくない言葉が、「復興需要を被災者雇用に生かす」という言い回しだとのことです。復興を雇用に結び付けるとは、がれき処理や仮設住宅に関する公共事業に伴う仕事を被災者に回すということであり、具体的には建設業者に発注する際には被災地のハローワークで求人を行い、広く情報を共有するということです。

 私が感じたことは、不況による失業がもたらす喪失感、うつ病、自殺といった従来の問題に対応する場合の理論は、震災の場合には完全に的を外すということでした。被災地における喪失感の象徴が「がれき」です。これは、「がれき」と名付けられたことによりがれきになったものであり、3月11日の午前中までは「念願のマイホーム」や「思い出の詰まった家具」などと呼ばれていたものです。復興需要を被災者雇用に生かすとなれば、この辺りの繊細な感情は問答無用で切り捨てです。
 津波で全てが流されたにも関わらず、これが1日も早く復興できるということは、流されたのはその程度のものであったということです。3月11日の午前中まで積み上げてきた仕事が重いものであればあるほど、簡単に復興してしまっては、真摯に仕事に取り組んできた者にとっては救われないはずです。「復興などできない」と言われたほうが、よっぽど救いようがあると思います。

 このようにして復興した先にある仕事は、その中に破壊の不安を含んでいます。これは、今後30年で三陸沖北部から房総沖で再度M8以上の地震が発生する確率が30%であるという具体的な数字の話ではなく、人間が平時には棚上げしている実存不安の問題です。すなわち、真面目に物事を考えれば必ず突き当たるところの、「なぜ働くのか」「なぜ生きるのか」という根本的な問題です。

(続きます。)

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