犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

復興需要を被災者雇用に生かす その2

2011-11-26 23:46:03 | 時間・生死・人生
 人は目の前の仕事に集中することにより、その一瞬の間は他の苦しみを忘れ、気を紛らわすことができます。但し、仕事に集中できないほどの苦しみは、組織的な作業に支障を生じさせるものであり、問題の次元を異にするように思います。

 どんなに小さな企業であっても、2人以上の人間で仕事をする際には、お互いの脳内で抽象概念としてのシステムを共有することが不可欠です。そして、仕事の見通しが立たないとき、仕事の流れが悪いとき、人はイライラします。組織的に仕事をする際には、複雑な現象をステレオタイプに押し込めて単純化することが必要です。人間の情報処理能力には限界があり、短時間で情報を処理しなければ仕事は溜まる一方だからです。
 情報化社会のビジネスの現場を生き抜くには、人はこのステレオタイプに順応する必要があり、問題を効率的に処理する必要が生じます。さらには、これに伴う苛立ちや怯えといったストレスをやり過ごし、抑うつや人格障害に陥らず、精神衛生状態を健康に保つことが必要です。これが、震災前に一般的に言われていた労働環境の問題であり、被災地以外の場所で変わらずに続いている問題だと思います。

 人間は、仕事でミスをして会社に大損害を生じさせたり、不当に責任を負わされたりすれば、「大地震が起きて会社も何もかも潰れればいい」との希望を持たざるを得ないものです。また、理不尽な恫喝をする上司や取引先に対しては、瞬間的な殺意を覚えるものです。これが「社会の中で仕事をする」ということだと思います。
 この抽象概念を脳内で共有する同僚が津波で海に流されて3月11日の午後から戻らないこと、見えないシステムを可視化する書類やパソコンのデータは一瞬で無になるとを知ってしまったこと、これらの事実を前にしては、「社会の中で仕事をする」ことの価値は無意味となります。既存の価値観の壊滅を前にしては、競争社会に参加することも無意味であり、年収格差に嫉妬することも無意味です。

 「人はなぜ働くのか」「働くとはどのようなことか」という哲学的な問いは、実際に働いている人間が棚上げしている問題だと思います。人は生きなければならない、従って食べなければならない、よってお金を稼がなければならない、ゆえにお金を稼いで食べて生きるためには働かなければならないとなれば、問題は振り出しに戻ります。「復興需要を被災者雇用に生かす」との政策論は、被災地の問いへの解答となるものではありません。
 「働きたいのに仕事がない」との平時の問題意識は、被災地の雇用の問題には的外れです。少なくとも、肉親を失うこと、家を失うこと、財産を失うこと、職を失うこと、これらを並列したうえで復興に結びつける議論は、実際に被災地で苦しんでいる方々には雑音以上の暴力であるとの印象を受けます。

(続きます。)