犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

窪島誠一郎著 『父への手紙』より

2011-11-09 20:40:50 | 読書感想文
p.18~

 私はそのとき、何よりも、帳面の表紙に書かれている「セイチャンニカカッタセイカツヒ」という文字に眼をあてて、息を呑んだのだった。息を呑んだといっても、9歳の子どものことだったから、正確に、いま成人になってふりかえる気持と同じだったとは言い切れない。たぶん、もっとべつのふしぎな衝撃、子どもだけがうけとめることのできる微妙なショックとでもいえるものだったのだろう。

 ともかく、少し大袈裟にいえば、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」と記された帳面の文字に、そのとき私は、ある何ともいえない人生への懐疑というか、尋常でない心の動揺をおぼえて立ちすくんだのである。手をひかれてついてきた相手に、ふいと背をむけられたような奇妙な戸惑いだった。「誠ちゃんにかかった生活費」――たしかにそこにはそう書かれてあった。子どもの眼にも、それははっきりとそうよめた。

 何度もいう通り、私は9歳になったばかりなのだから、その頃どれほど、親の立場や心情を理解する心にめぐまれていたかは疑わしい。親の、子によせる愛情のふかみや、傷み、苦しみについても同じだった。たぶん、幼い私には何もわかっていなかったのではないかと思う。でも、あの心の底からふきあげてくるような寂寥感は何だったのだろう。あの、たとえようもない孤独な、哀しみのかたまりのようなものは何だったのだろう。

 私は正直、父や母のやさしい笑顔の向うがわに、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」というノートの存在があったことが驚きだった。親というものが、このように子への愛情の累積を、貸借表のような帳面にのこしておくといった行為が信じられなかった。なぜなら、それまでの私にとって、親はあくまで「私自身の分身」であったからである。「私自身の分身」が、私自身への養育費をひそかにソロバンに入れておく姿がふしぎだった。そんなことがあっていいものだろうかと思った。

 後日、「セイチャンニカカッタセイカツヒ」ノートは、(私の成長につれて)だんだん厚みをましてゆくのがわかった。成長すれば、食費も衣料費も教育費もふえてゆくのは当然だった。しかし私は、それから二度と、この台所の手垢によごれた古柱にくくりつけられた黒い帳面に手をふれることはなかった。

 何だかこわかったし、その頃から私の心には、この両親の「愛情」に対する「借り」はかならず返してみせたいという、ふしぎな意地のようなものが頭をもたげはじめていた。父母の恩義への感謝といった親孝行心理でもなかった。私はただ、それから画用紙やワラ半紙を買ってもらうにも、学校の授業費をはらってもらうにも、どこかで親のはじくソロバンの音に耳をすましているような、そんな疑心暗鬼の子にそだっていった。

 つまり、他人の言葉を信じようとするまえに、その言葉ウラにひそむ打算や思惑を必死でかぎとろうとする哀しい習性は、その頃から私の身につきまといはじめていたように思う。人のいうことを容易に信じない、自分に対する善意や思いやりにもなぜか反発し、素直に応じようとしない偏狭な性格は、その頃から少しずつ、私という子の心身をむしばみつつあったように思う。


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 一昔前の本を読むと、「日本語の名文」ともいうべき一節にあふれていて驚きます。内心の感情の繊細な部分と、客観的な出来事の正確な把握が渾然一体としており、これが語彙力によって凝縮されて端的に表現されていると思います。