犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森達也著 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』

2011-11-30 23:53:56 | 読書感想文
p.27~

 結局のところ、事実など指の隙間から零れ落ちる砂のようなものだ。読者や視聴者に与えられる情報は、徹頭徹尾、書き手や撮り手が感知したその場の状況の主観的な再現でしかない。時おりテレビなどでヤラセ疑惑が話題になるが、被写体に演技を強要したとか金銭を払ったとか、そんなレベルのヤラセなど実は稚拙なほうだ。もっと巧妙なヤラセだっていくらでもできる。いや、端的に言えば、そもそも表現はヤラセなのだ。

 表現行為であるかぎり、ノンフィクションなどありえない。すべての表現は作者の主観が織りなすフィクションだ。ただし、ジャーナリズムは少しだけ違うと僕は考える。もちろん人の感覚が介在するのだから主観からは絶対に逃れられない。その現実は認知しつつも、できる限り中立点を模索して(到達など決してできないが)、正確で客観的な情報伝達への意欲と努力だけは失わずにいるべきだ。

 でもそもそもは主観。この原則に無自覚になったとき、ジャーナリズムは大きな間違いを起こす。絶対的な公正を体現してしかも中立であるとの錯誤から、自らは正義であり、報道することによって悪への懲罰を与えるのだと思い込む。


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 事実をめぐって争われる裁判の中でも、特に刑事裁判は誤判が許されず、客観性が強調されます。私は裁判所書記官として勤めていた当時、その客観性のため、連日の深夜残業に明け暮れたり、長引く法廷でトイレを我慢したりしていました。
 真実は1つだという検察官は、被告人の微妙な言い淀みの中に矛盾を指摘し、弁護人からはすかさず「異議あり!」の声が飛びます。他方、弁護人は供述調書の一字一句の言葉の意味を執拗に争い、検察官からは何度も「異議あり!」の声が飛びます。
 司法試験に受かるほど優秀な法律家が、すべての情報は主観であることや、それゆえに不可能な客観性が求められていることについて、理解できていないはずはないと思います。ところが、いざ法廷で検察官と弁護人が戦うとなると、両者ともその瞬間は「歴史上の唯一の真実」を主張して顔を真っ赤にします。

 私は幸いにも、弁護人から調書異議を申し立てられたことはありませんでしたが、同僚が調書異議を申し立てられる様子を見て、やり切れない思いがしたことが何回かありました。他人の話した言葉を書き取る書記官は、日本語として意味が通じるものにするため、前後の文脈から解釈を補う必要に迫られます。
 弁護人がこの部分に異議を申し立てるということは、「こちらの真意が正確に伝わっていない」ということです。ところが、国家権力に対する異議申立ての形を採る限り、それは「正確な事実の歪曲である」「客観的事実の隠蔽である」との厳しい批判となります。裁判所書記官としては、このような攻撃を名指しで受けると、さすがに心が折れます。
 私はこのような環境に身を置いていたため、他人の言葉を書き取る仕事ではなく、自分の言葉で語ることのできるジャーナリズムに一方的な羨望を抱いていた時期がありました。しかしながら、言葉の本質への考察を進めるにつれ、すべての表現は主観的なフィクションであることに気づき、私は公平中立を標榜するジャーナリズムの世界には耐えられないだろうと感じました。

 森達也氏のようなドキュメンタリー作家の稼業は、「そもそも表現はヤラセである」「ノンフィクションなどあり得ない」という認識を堂々と仕事の中心に置くことができ、私の新たな羨望の対象となっています。これも単に隣の芝生が青く見えるだけかも知れません。