犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

なぜ人は自ら犯していない罪を認めてしまうのか

2010-04-10 23:10:06 | 言語・論理・構造
 身に覚えのない凶悪事件の容疑をかけられ、罪を認めてしまい、受けるいわれのない罰を受けた経験など、世の中の99パーセント以上の人にはないでしょう。しかしながら、社会生活の中で様々な問題に巻き込まれ、濡れ衣を着せられ、最後まで真相がわからなかったという経験は、多くの人に日常的にあるものと思います。また、多くの人がこのような過去を持ちながら、そのこと自体を忘れて生活しているものと思います。私もそうです。
 身に覚えのない出来事で自分が疑われている状況は、「何を言ってもわかってくれない」という絶望の文脈で語られることが多いものと思います。また、虚偽の自白をしてしまう状況は、投げやりの心情と関連して語られることが多いようです。しかしながら、言葉が物質でない物事を実体化するという特質に照らしてみれば、「自分が罪を認めれば自分が罪を犯したことになる」という転倒状況において、人間の心理はさらに複雑な様相を呈しているように感じられます。

 身に覚えのない出来事で疑いの目を向けられた場合、疑われた側は、驚き、怒り、悔しさなどが入り混じった表現しにくい感情を持つものと思います。しかしながら、その一瞬の感情を丁寧に観察してみると、比較的強くかつ深い心の動きとして、優越感と憐憫の存在に気がつきます。優越感とは、「私は自分が犯人ではないと知っている」という感情です。また、憐憫とは「あなたは私が犯人ではないことを知らずに無意味な苦労をしている」という感情です。
 無意味な苦労から相手を救い出すためには、自分が犯人ではないことを教えてあげるのが手っ取り早い方法です。それにも関わらず、相手がなかなか無意味な苦労から抜け出せず、無駄な努力を重ねている様子を目の当たりにすれば、憐憫の情にも自ずと限度があるものと思います。さらに、この憐憫の情は、「私は自分が犯人ではないと知っている」という優越感に裏打ちされているため、大真面目な相手方の態度がバカバカしく感じられてくるはずです。これは、相手に屈服する単純な心情とは正反対であり、自主的かつひねくれた心情だと思います。

 罪を犯した者が素直に罪を認める行為は、当たり前であるがゆえに、人間社会において称賛される行いです。これに対して、罪を犯していない者が素直に罪を認めない行為は、当たり前であるがゆえに、人間社会において特に称賛される行いではありません。どちらも当たり前の行為ですが、この正反対の評価が、人間の自己否定の困難さに対する洞察を示しているように思われます。
 さらには、罪を犯していない者が記憶に反して罪を認める行為は、本人にとっては、非常に功名心が刺激される行いだと思います。罪を犯して素直に白状する者が評価されるならば、罪を犯していないのに白状する者はさらに評価されてしかるべきだからです。ところが、このような自己犠牲の精神は、人間社会においては当初の目的通りの評価を受けることはまずありません。記憶に反して嘘を語ったことは間違いのないところであり、真相究明を妨げたという現実は変えられないからです。従って、そこでは、自らが向けていた憐憫の情を向け返されることになるのが通常だと思います。

 社会生活の中での濡れ衣の多くは、濡れ衣を着せた側はすぐに忘れてしまっているのでしょうが、着せられた側の記憶には深く刻み込まれ、ふとした拍子に思い出すことがあるものと思います。これは、恐らく、世界中で1人だけ真実を知っていることの快感と不快感によるものでしょう。身に覚えのない凶悪事件の容疑をかけられて罪を認め、受けるいわれのない罰を受ける行為も、人間心理という点で考えれば、この濡れ衣の大きさの違いでしかないのかも知れません。
 裁判官や裁判員が冤罪を犯さないためには、被告人の心情について、「何を言ってもわかってくれない」という絶望の文脈のみで固めることは有害だと思います。また、供述の変遷の原因を捜査官にのみ求めることも有害だと思います。被告人が裁判員を冷笑し、法廷の座席とは逆に被告人が裁判員よりも一段高いところに立ってものを言っているならば、裁判員がこれを冤罪であると見抜くことは困難でしょう。

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