犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

直観は屁理屈に勝る

2007-10-03 15:56:36 | 実存・心理・宗教
昨年8月に福岡市で起きた3人の幼い兄妹が死亡した飲酒運転事故の裁判で、今林大被告の弁護人は、被害者の大上哲央さんが事故時に居眠り運転をしていたと主張した。しかし、そもそも今林被告は大上さんに対して、「真っ暗な海の中でたくさんの水を飲み、苦しみながら亡くなった子供たちのことを思うと、どうおわび申し上げていいのか言葉が見つかりません」、「一生懸けても誠心誠意償っていきたい。本当にすみませんでした」などと涙声交じりに謝罪の言葉を述べていたのではなかったのか。ニュースを聞いた多くの国民に反射的にこのような違和感が沸き起こることは、人間として当然のことである。

3人の幼い兄妹を死なせた人間には言い訳をする権利などないという意見は、単なる感情論ではない。論理的な直感である。自己負罪拒否特権は人権の1つであるが、人権とは何よりも人間を絶対的に尊重する思想であるから、人間を尊重しなかった者に人権を認めることは、端的に自己矛盾であると感じる。死んでしまった被害者は、どんなに話がしたくても、「死人に口なし」である。これに対して加害者は、話そうと思えばいくらでも話せるのに、自分の意思で話さないことができる。人間を尊重するはずの思想が人間を尊重しなかった者を保護しているという論理的な違和感は、通常の論理的思考力を有する人間であれば、誰しも抱くものである。

このような論理的な違和感について、法律学からは納得の行く説明をすることはできない。それは、天賦人権論がキリスト教的な超越論を引き継いでいることによる。人を死なせた者であるからこそ人権が保障されなければならないという理屈は、「不合理ゆえに我信ず」という理屈と同様である。世界人権宣言や国際人権規約の条文を持ち出して無条件の権威付けをしたくなる心情は、キリスト教が聖書の一節を持ち出す心情と同じである。このような超越論的な原理原則は、人間の素朴な疑問を打ち消すことができない。それが実存の力である。

人間というものを超越論的な原理原則に頼らずに突き詰めてみれば、それは抽象的な人権ではなく、今ここに生きている人間の事実存在、すなわち実存に収束する。それは、自己と他者の実存的反転という恐るべき事態に直面することであり、実存的恐怖に耐えることでもある。しかし、このような洞察を経てこそ、実存主義は常識に戻ってくる。人間は、ただここに生きているだけの話であり、これは誰しも無意識に実行している。世界人権宣言や国際人権規約の条文などで納得できるわけがない。何よりも確実なものは、自分の頭1つ、体1つである。

幼い3人の兄妹の命を奪った加害者に稚拙な弁解の権利を認めるのはおかしいという論理的な直感は、人間がこの地球上に生きているという端的な事実の中に表れる。哲学は、イデオロギー的な主義主張でなく、人間が生きているという事実の中に自然と表れてくる。法律学の専門家からは、何十年にもわたって、「無罪の推定が及んでいる被告人に手厚く人権が認められるのは当然である」と主張され、「間違った世論の改善」と「無知な大衆の啓発」が行われてきた。しかし、一向に世論の大勢は変わらない。哲学的に見れば、感情論だといわれようと、論理的でないといわれようと、人間としての直感のほうに分があるという証拠である。

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